第92話 生きるべし
【天正二年 上杉不識庵謙信】
何故か。わしはこの目の前の長身の敵に興味を抱いた。
強いかそうでないかもわからぬ男になんで興味をもったのか。
わからぬ。
「貴殿、名は」
長身の男は一瞬、顔を強ばらせたがやがて
口を開いた。
「山田大隅守だ……」
「そうか。死ね」
【天正二年
山田大隅守信勝】
鞭かと錯覚するような、しなやかな太刀筋を受け止めたのは全身から汗が吹き出たのと同時だった。
唾越しに、謙信の顔が見える。謙信はにぃと笑っている。
おれは正反対に顔を歪め、苦悶の声をあげる。
くそがっ。
思わず声が漏れるが、謙信は微動だにしない。
おれは刀を返す。謙信の体が右に流れたのを見て
歯を食いしばる。
―全部、終わりだっ
左ストレートを思いっきり、謙信の頬目指して打ち抜いた。
瞬間、謙信の右手の刀がしっかりと握られるのが見えた。
来る。
のけぞったおれのが鼻先を不識庵は横に刀で切った。わずかな血が飛び散り、視界が占領される。
視界が開けた刹那、大きな手がゆっくりとしたスピードで伸びてくる。
避けろ。
そう念じるが体は動かなかった。
「ぐっ」
おれの情けない声は、地面に叩きつけられると同時に打ち消された。
依然として、おれは顔を掴まれている。
その指の間から、すっかり雨が上がった空が見える。
謙信は脇差しを抜き、何を思ったか、脇差しを手で回した。
描かれた半円はちょうど、太陽の周りをなぞった。
「名を聞いておこう」
くぐもった声は、何故か謙信に聞こえたようだ。
「上杉不識庵謙信也」
そうだ。わかっていた。だが、聞いておきたかった。
人は、こいつを神と呼ぶ。だが、おれはそう思えなかった。たしかに人間離れはしているが。
ちらりと信長の後ろ姿が浮かぶ。おれはすぐさま打ち消す。
違う。こんな繊細なやつは神じゃない。
死は覚悟していた。だが怖い。だが、人生最後の勇気を見せてやる。
おれは、絶対、謙信から目をそらさない。
「不識庵!!」
その声と共に耳をつんざくような火縄銃の音がした。
謙信は、顔色一つ変えずにその方向におれを投げ飛ばした。おれは、受け止められた。
「信勝っ!」
よく聞き慣れた声が頭上より響いた。
いつものようなすまし顔じゃない、必死な顔をしている祐光がいた。
「追え!不識庵を討ち取れっ」
「捨て置け……」
「なにっ」
「捨て置け」
おれは、手で祐光を制す。
「どういうことだ?」
不思議そうな顔をする祐光は似合わない。
「勝てねえんだ。不識庵謙信にはよ」
ひとつ、溜め息を着き立ち上がる。
勝てないことは、誰が相手でも悔しいものなんだな。
【天正二年
織田左近衛中将信忠】
負けだ。
不識庵めに勝てると踏んだわしが愚かであった。
だが、諸将よ。
この愚か公方を最後に一回だけ信じてくれぬか。
「全員、具足を脱ぎ馬を捨てよ」
「上様、どういうことでございまするか」
暫しの間が空く。わしでさえ、この下知を出すわしでさえ、この下知の異常さには、開いた口が上がらぬ思いよ
「殿<しんがり>を置かず全員、手取川を渡れ。足止めは捨てる馬にやらせ、敵兵は、捨てる具足の収奪に目を奪わせよ」
「なっ……」
「生きて帰るべし」
わかっている。わかっておる。これがどんなに危険な博打かぐらい。ただここに生きて、両の足で立っているものたちは皆、わしの失策を受けても、また不識庵を相手としても生きたものたちだ。
なら、生きなければならぬ。
だからこそ、生き死にの博打を今ここでせねばならん。
「伝令を各将におくれ!はようせんかぁ!」
わしの剣幕に押されたのか、引き留めるものがおらん。
「さあ生きるべし!」
自分自身の疑念を晴らすが如く、大声を張り上げた。
【天正二年
山田大隅守信勝】
「急げ!具足を脱いで、馬を置いて手取川まで走れ!そして飛び込め!」
信忠殿の奇想天外な命令には、ただただびっくりするが、やってやろう。
「義弟よ。どう思う」
どっから現れたかは知らんが、横に、信長がいた。馬には乗っていない。
「右大将様。おもしろきことかと」
「あの奇妙がこうも博打をするとは」
信長はうれしそうに言い、具足を脱いでいっている。
まわし一丁の信長は、ただの不良中年のようだ。
「じゃあ、走りますか!」
こうも裸になれば、誰が大名で、誰が雑兵かわからない。
だが。案外楽しい。
「うおおおお!」
死ぬ気で走ると、手取川が見える。
「飛び込めっ!!」
【天正二年
上杉不識庵謙信】
「追うのはやめよ」
「何故でございますか!」
「何故、そこまでして生きたいか。奴等のこれからが見たいのだ」
この俗世、戦があるとはいえ、根源はつまらなきもの。それをなぜ生きるのか。
「追わぬ。だが。手取川まで進むぞ」
生きることに楽しみを見出だしたうぬらよ。
その輝きをわしに見せよ。
「見よ。織田が、かなぐり捨てた源氏の白旗が手取川に浮いておる。まるで白波のようだの。そして、夕日を映しておる。ふむ。一興よの」
ゆらゆら揺れる白旗と、赤々と光る夕日は
わしの心を揺さぶった。
「帰るぞ」




