第88話 大雨
【天正二年 山田大隅守信勝】
「全軍っ!手取川、渡れぃ!」
信忠殿の大声が陣内に響き渡る。
おれは無言で目を瞑り息を吐いた。
「諸将よ。聞き給へ」
さっきとは、一転し静かな口調になった。おれも目を開け、信忠殿の顔を見る。
なにかを決意したかのような意思の強さを感じさせる顔だった。
「わしが不識庵との決戦を選んだのは、諸将らを信じたからだ」
へんに、外の鳥の鳴く声だけが聞こえる。
「敵はそう統率をとれていまい。そこを技能に秀でしわれらの一刺しによって、不識庵、打倒せん」
鳥の声が止んだ。
「知らしめよ。織田の天下を」
「はっ!」
信長以外の全員が大声をあげて頭を下げた。そうだな。おれもようやくわかったよ。天下というものは、賭けなきゃ手に入らないということを。
この川の向こうには軍神、上杉不識庵謙信がいる。
いくぞっ。
【天正二年
上杉不識庵謙信】
風が哭き、池が揺れ、深緑が笑っている。
この時が一番気持ちがいい。
「織田は来る」
既に、右大将信長が参陣したことは耳に入っている。
すべての万物よ。精霊よ。亡骸よ。
完全なる勝利を肴に酒を飲み交わそうぞ。
そのためには、常に強敵と争い、これに勝ち続けねばならぬ。
それこそが、わが義。戦の中に完全を目指し、それのみを見据えよ。
わしの身に毘沙門天の御加護あれ。だが、毘沙門よ。貴様も必ずいつの日か倒す。
貴様が強敵である以上、いつの日か戦わなければならない。
それがわしの義であるから。
「畠山は仕舞いにせよ」
北陸において、わしにつかず織田を信じわしに靡かなかったのは見事。その性根は強敵よ。だが、
更なる強敵の前においては、畠山にもう興味はない。誤解しないでほしいが、価値はあると思っておる。いかなる敵にも価値は見出だせるのだ。
例え、どのような敵でも。
空を見上げ、睨み付けた。
【天正二年
山田大隅守信勝】
「先鋒は右大将殿に任せ、組下に左近と修理をつける。二陣は、わしだ。隅州。わが組下に付け」
「御意っ!」
この判断は正しく、最適だと思う。信長が何故、この軍神、不識庵戦線を信忠殿に任せたかは知らないが信長は、彼の自己判断による、独創的に任せ、軍を動かすほうがはるかに効率がいい。
てか、不識庵がどれほど強いか知らない。
手取川を渡りながら考える。
朝倉左衛門佐、浅井備前守、荒木信濃、武田大膳、本願寺顕如などと争ってきたおれたちだ。
そう負けることはないだろう。
そう思った時、
ピシャッ
首に水滴が落ちた。
おれが、バカであるということが如実にわかるのは、血の気が引いたのが首筋についた水滴を拭ったときだったからだ。
―まさか雨か。
雨は今まで経験したことがないほどに、降ってきた。空は暗く染まりきり、前が見えない。それに雨で目が痛い。
火縄銃が使えないじゃないか……
織田軍は、大量の火縄銃を所有し、その量は随一。この最大の武器を一気に無力化させられたのだ。
不識庵のせいではない。謙信のせいではない。
わかっている。わかっている。だが、そうとしか思えなかった。
おれはやはりバカだ。
馬が嘶<いなな>いた。
「殿、これを」
「いや、いい」
おれは差し出された傘を払いのけた。
目の前が見えても絶望だけは目の前から離れないだろう。
それぐらいの分別ができる脳みそは幸か不幸か、おれにはある。




