第87話 織田左近衛中将信忠
【天正二年 織田右近衛大将信長】
思うに、反幕府方はこの不識庵来襲に全身全霊で挑んでいるのだろう。
自領を守ることだけしか頭になかった紀伊衆が
大和に出兵し、われを牽制しておる。
ふがいない。
尾張の豪族の頃より、常に前線に立ち続け兵を鼓舞し、声をあげ、足をあげ、声を枯らし、常に勝利という果実を掴み続けてきたわれが、信長が、
この安土より動けないとは。
「義昭公が参っております」
義昭公か。なにようか。だが、なにか光明が見えるのやも知れぬ。いや、それこそわからぬがな。
「茶室まで通せ」
この天主で会うのも、違う気がする。
「気をつかったようだな。すまん」
「いや、貴公を遇するにはここしかないと思っただけだ」
両刀を差さず、木綿の服を来ている義昭公は、先代の征夷大将軍とは、凡人にはみえないのやもしれぬ。だが、義昭公より感じる雰囲気は、ひとかどの英雄を感じさせる。
「不識庵と戦わぬのかね?」
「闘えぬのだ」
この状況をわからぬか。だが、この男がそんな妄言を吐くはずもなき。
「策があるのか?」
「周りを抑えるのは威だけではあるまい。生まれもちし、その血筋が役に立つときもある」
ふむ。一理ある。
「つまり、貴公が安土に入り、抑えるということか」
「安土に入ったあと、手紙を前の将軍の名前でばらまく。さすれば、なにかの牽制にはなろう」
「手紙とな」
驚いた。手紙か。
「今のわしにできることなど手紙を書きまくることだけよ」
そう謙遜するなと思うが、口には出さない。
「何故、そこまでする?」
別に、安土に入ってそんな危ない橋を渡る必要もないはずだ。だが、この男はそれをしている。
「足利、源氏長者、そんなこと関係なくわしはただただ、織田信長という一人の男に可能性を見出だしたからだ」
「なるほどな。われ不在の間すべての政は貴公にお任せす。好きになされて結構だ」
「余計なことはしないつもりよ」
にやりと笑った義昭公のこの発言は恐らく本心であろう。
「逆に聞いていいか?」
「ああ」
義昭公は一転、真顔になった。
「なぜ、そう天下を求める?」
答えは、あの時、爺が死んだ日から決まっている。
「新たな世の為だ」
「そうか」
【天正二年
山田大隅守信勝】
信長が一万の兵を連れてやってきた。黒い南蛮マントから、ちらちらと覗かせる冑の赤い竜。
「中将は?」
「奥にございます」
「そうか」
信長は、中将、左近衛中将信忠殿を探した。信忠殿はこのおれたちとは違い、陣幕から出てきていない。
信長が、信忠殿との二人での面会を希望したということは、なにか、二人での話すということだ。
なに話すか気になるが、おれには知るすべもない。
とりあえず、歩くか。
【天正二年
織田左近衛中将信忠】
「久しぶりだな。公方よ」
「右大将殿も、ご機嫌良きようでなにより」
フンと、目の前の男は鼻を鳴らした。どうして、いや、どうやってここまで来たか、敢えて聞くまい。
「存念はあるか?」
「あり申す」
「なら、言わずでいい」
なんだ。策を聞きに来たのか。が、わしも言うことがある。
「しかし、私の策は、策とよべる代物でもなく、それにここの将兵すべてに死という結末を迎えさせるやも知れませぬ」
顔が、曇ると思ったが、意外となんの反応も示さなかった。
「貴様は博奕好きか?」
なにを聞いている?いや、そっちが、そのような質問をするつもりなら、考えがある。
「左様ですね。魔王の子に生まれること事態が既に博奕でありますゆえ」
「言うわ。だが気に入った。貴様の策、聞かぬ。だが、われはそれに従おう」
それだけ言い、このわが父の姿をした魔王はにやりと笑った。
「指揮を任せていただけるということですか?」
「そうだ」
不識庵と戦うためにここまで来たわけではないのか。いや、人ですらなき神と、魔王の息子。この対決は、おもしろきものなのかもしれぬ。




