第86話 永楽銭
【天正二年 山田大隅守信勝】
加賀一向衆の調略。つまり一向衆の意見を織田につくべしに代える。そのために多数工作を行う。
8千。これが加賀一向衆の数だ。
4万8千対2万5千。
数の差をさらに広げる。
「つまり、隅州の考える不識庵への対処法とは数の差で押しきるということか」
「思うに、神なる者も人の理の前に敗れ去るものなのでしょう」
「なるほどのう」
ふんふんと信忠殿は頷いている。調略はできる。
おれたちには、多羅尾率いる甲賀衆がいる。
「異論はありませぬ」
おっ。武断派とばかり思っていた柴田殿も賛成してくれたのか。
「調略の件、山田大隅に一任す」
「はっ」
◇
「多羅尾、加賀一向衆を調略してくれ」
「はっ」
顔をあげた多羅尾はなにか嬉しそうだった。
「どうした」
「いえ、殿のこの策が見事だと思いまして」
「まあな」
おれはそう言って横を向く。だってこれを考えたのは祐光だし。自称天下一の軍学者だし。
それを知ってか知らずか、多羅尾は笑っていた。
【天正二年
多羅尾四郎衛門光俊】
「どうだ?」
「いえ……」
殿より下命を受けて三日たったが、いまだに一人の一向衆も幕府方にひきこめていない。
おかしい。
いくら不倶戴天の織田だからといって、織田家は旭日の勢いではないか。
たしかに、調略とは、腰を落ち着け細を穿ち、微に入り、花を咲かすかのようにするものだ。だが3日たっても、ひとりの下級武士でさえ味方につかないとは……
ひとつ、頭によぎる不吉極まりない考え。
いや、しかし、これしか考えられまい。
ただただ、視界を遮るための西日を睨み、唾を飲み込むためだけの音が聞こえる。
加賀一向衆、上杉側に味方したか……
【天正二年
山田大隅守信勝】
「ひとりもか」
「はい」
確かに、この状況だけを見れば加賀一向衆は上杉に味方したのだろう。だが、それだからといって
だれも幕府方につかないなんてあるのか。
いや、その有り得ないことあり得るようにするのからこそ、軍神って謳われるのか。
とにかく。仕切り直しだ。
「申し訳ありません。調略、不可能にございました」
「……左様か」
結局、時間が無駄に使われただけだ。おれの失策。祐光じゃあない。おれが選択したんだから。
「やはり、不識庵謙信は一筋縄ではいかぬようだな」
今、こうしている間にも織田方を掲げている
七尾に篭る畠山氏は危険に晒されている。
北陸の空は青く澄み渡っている。手取川より北はどうなのだろうか。
ただ、それを知ることは、おれたちには難しいようだ。
「上様、こうなれば捨て身の覚悟で手取川を押し渡るべきかと」
だめだ。柴田殿。手取川では恐らく、正史通りに負ける。
今、考えるべきは、謙信に勝つことじゃなくて負けないこと。それには、このわずかな物量差は大きい。
「いえ、ここは越前中の人夫を銭でかき集め、
手取川沿いに長城を築き上げ、上杉南進を防ぐべきかと」
「……臆したかっ!大隅!」
「隅州だっ!修理殿!同格のあんたに呼び捨てされる筋合いはない!それに上杉を甘くみすぎです!」
「何度でも言ってやる!大隅っ!今、行かねばいつ行くのだ。時間を無為に過ごさば、七尾城は落ちるぞ」
「七尾は恐らく落ちています!」
「証拠はぁ!?」
「勘です!」
正史の知識だが、それを言っても理解されないだろう。
「もうよい。二人とも落ち着け」
信忠殿は、手をかざした。
「隅州。七尾の如何に関わらず、わしは上杉と戦うつもりだ」
「……何故」
「天下へは必要であるからだ」
たしかに、上杉不識庵謙信敗北となれば、
包囲網は崩れ去る。が、危険な賭けだ。
賭けの勝利条件を高めるにはなにをすべきか。
信忠殿は、手取川を渡るか渡らないか、まだ言っていない。
そんな糸が張り詰めているような軍議場に、使者が大声を放った。
「申し上げます!永楽銭、永楽銭の旗ですっ!」
それだけを聞いた、おれを含めたすべての諸将は、先を争うかのよう、外に出た。
こんなものを旗印にしてるようなやつ、銭で新しい世を造り上げようとしているやつだけだろ。
その男は、やはり軍勢の先頭にいた。
おれたちは、その影が近づいてきたのにあわせ、平伏する。
「面をあげい」
実は、半分疑っていた。だが、甲高い声を聞き、そして少年のようなまだ若々しい顔を拝み見たとき、どっと心から、いろんな感情が溢れ出してきた。
救世主の到来に喜び狂うでもなく、魔王の到来に、嘆き苦しむことでもない。
ただ、日を背負っているからなのか、この男は光を放っていた。
それが、織田信長の凄みなんだろう。




