第69話 老臣
【元亀四年 諏訪四郎勝頼】
負けた。
今川殿、山県、内藤の討死。
それに馬場、小山田、小幡、真田、原、土屋も続々と本陣まで退却している。
背後の益田川は大河。簡単には渡れまい。
すべての責任はわしにある。
西美濃に出陣したのも、益田川を渡河したのもすべてわしの失策だ。
腹は括った。あとは諸将の帰還をまつのみ。
「長坂」
「はっ」
「文官のそちには厳しきことになったな」
「なにを仰いますか」
長坂の鋭い眼光に気付きわしはそれを見る。
「それが四郎勝頼の道にございましょう」
非常にすまぬこととなったな。
「不覚をとったわ」
「汝の責に非ず」
やがて、馬場、小山田、小幡、真田、原、土屋が戻ってきた。
「これより武田軍は退却に移る。殿はわし」
「正気か」
馬場は笑いもせず、わしの顔を除きこんだ。
「案ずるな。そなたらが益田川を渡るまでの時間ぐらい稼げる」
「それで責任をとるつもりか」
馬場の眼差しが強くなるのを感じる。
「いや、それもあるが、それだけではない」
馬場がじっと見詰める。
「わしは陣代として信玄のかわりであろうとした……それはひたすらなる無為の日々」
わしは自分の道のりを考えてみた。家中の統制も、信をおける家臣も、そしてなにより
人をひきつける魅力が。
無いものが多すぎた。
それに比べて、陣代になる前のただの武将の頃は生きた心地がした。有るものが有った。
「わしは武将として死にたいのだ」
「甘えるな。勝頼」
馬場が間髪入れず言う。
「甘えるとはどういうことかぁ!?」
「それが甘えと言っておるのだ!」
怒鳴り声が響く。
「よいか。勝頼。たしかに陣代は茨の道よ。ただ
これを進めるものなどお主しかおらぬこと、
わしも、そしてここにいる者共がわかっておるのだ」
そう買い被るな。
「武田の時代、即ち、兵の強弱の時代はとうの昔に終わっていた。わかっていたはずなのに
わしらはそこから目をそらした」
馬場は目を見開く。
「新しい武田、それを作れるのは四郎勝頼しかおらぬ」
気が付くと、全員、わし以外の武田武士が下馬し、平伏していた。
「武田の屋形として、どうか新たな武田を」
わしは、諏訪の冑と鎧を取り、地面に投げつけた。
「武田大膳大輔勝頼……これを簒奪者の名にする気かね」
「いや、英雄の名とする気よ」
わしは馬主を川に向けた。
「小山田は小荷駄を率いる身。わしと共にこい」
「はっ」
「残りは殿を仰せ付ける」
「御意」
肩衣に大の旗印をさす。
「大の一文字のみについて参れ」
わしはそのまま馬を出した。
これよりわしはさらに険しい茨の道に入る。
進めば体を傷つけ、止まっても傷つけ、血を滴らせる。
だが、進まねばならん。
人の覚悟を背負ったのだから。
わしは振り返らず、川に入った。
「さらば……」
誰にも聞こえぬようそっと呟いた。
【元亀四年 山田大隅守信勝】
時代は変わったのだ。
槍、弓矢から鉄砲へ。騎馬から足軽へ。
ロマンもへったくれもない。
戦から戦争へ。
その中にあって、殿を引き受けたらしい馬場美濃守信春を始めとするこの武士たちはなにを考えているのか。
新しい時代へのノーサインか、ギプアップか、
はたまた認めないという意思表示か。
その中でも変わらない者はこの高名なる者共の
首の価値だ。
「あますなよ!首をとれ!」
【元亀四年
馬場美濃守信春】
殿は川を背後に布陣した。中央がわし、右翼が真田、小幡。左翼が原、土屋という陣立てだ。
わしらは人柱よ。新たな武田のな。
どこか感じていたのかも知れない。
勝頼の大器を。
それを焦らしたのは、負けを許さぬ雰囲気を作ったわれら老臣の責任よ。
いや、罪と言えるか。
ふっ。
笑えてくる。
武田のため勝ち続けることが、武田の首を締めるとは。
だが、その再生をわしは勝頼に託した。
輝く若者にすべてを託す。それが老人の唯一の役割であろう。
だから、勝頼を生かさなければならぬ。
「右翼の真田、小幡、左翼の原、土屋に伝令を」
わしが使番に指図する。
「各々、自分のことのみに集中致すよう。一人一殺の精神をもつよう」
「はっ!しかとお伝えします」
さあて。老臣の意地を見せつけてやろうか。
槍を担いだ。
「伝令っ!羽柴隊、佐久間が右翼に、明智、柴田が左翼に参っております!」
本陣……わしらの相手は……
一の一文字。
ほう……たしか山田大隅守信勝。
安心せい。首は要らぬ。ただ時間がほしい。
「全員、弓用意」
背後は川。なら死ぬ気でうち掛かる。それに
武田武士、ここに在り。これを世に示す。
示したいのだ。こやつらは。
「嫌いではないぞ」
わしは一言呟く。
弓の残りもあとわずかだ。
「殿、御屋形様は……」
「安心せい。勝頼は必ず逃げきれる。あやつはしっかりしておるぞ」
わしは、馬を下りた。
激しく弓を引き絞り、矢を放つ。
敵の損害も激しい。
一旦、退却し、またうち掛かるを繰り返している。
だが、やがて伝令が入ってくる。
「真田兄弟、小幡殿、土屋殿、原殿、あえなきご最後」
そうか。よう戦った。
ふと後ろを振り返っていた。
すっかり夕方だ。その中で夕陽を浴び、夕闇に消えていく若武者が一騎。
「フン、わしの目に狂いは無かったの。勝頼」
もうこの世に未練は無い。
【元亀四年
山田大隅守信勝】
唯一、残った馬場隊を包囲する。
その中で一人、座禅を組む馬場美濃は一際異彩を放っていた。
「お……おちつけ……。不死身など迷信ぞ……」
不死身の鬼美濃。
この際までこう落ち着いているとそれが本当ではないかと疑ってしまう。
しかしこう時間をとられるとは。
ひとりの男が槍を勢いよく突き刺した。
馬場は、その男の肩に手を置いた。
「ひっ……」
「若者」
血を口より滴らせながら馬場は笑った。
「わが首以て手柄と致せ」
ちっ……
十中八九討ち取られるはずだった勝頼を生き残らせた。
そんなことを見てるとこう思うしかないじゃあないか。
ちょっとこの時代に来て古風がかったおれは思う。
―馬場美濃守、その手柄比類無し




