第65話 天命
【元亀四年 今川刑部大輔氏真】
天命とは何か。
それは、目に見えず、聞こえず、また触れることができない。それでいて感じることができると言う。
今となっては、想像だが。
父上は、あの時桶狭間に討たれるとき
天命を感じていたのかもしれないし、
また父上を葬った上総介信長もそれを
感じたのかもしれない。
今、わしが感じているこの感覚は不思議だ。
毬を蹴ったとき、それが太陽と重なり合い、すっかり太陽を覆い隠し、やがて毬が落ちるに合わせて陽の光りが降り注ぐあの感覚。
あのふわりとした感覚に似ている。
それが、天命なのか、はたまたただの感覚なのか。
それはもうすぐわかるであろう。
次々と崩れる部隊。このまま本陣に突撃し、山田大隅を討ち取れる。
今川の再興が我が天命であったのか。
今川を潰し、また再興する。
いや、まだ浮かれるのは早いか。
馬の尻に鞭をやり、前に進む。
すると、前方に人が見える。
織田一門の証である金の唐傘の馬印が控えめに立っている。
そして、それを後ろに従え、悠然とこちらを見るまだ若い男がいた。
……山田大隅か。
恐らく、正解であろう。
細い丸顔に、高い鼻梁、しかし分厚い唇。
どこか、ちぐはぐな顔立ちだ。
しかし何故、山田が?
違和感があった。だが、そんなこと大将首の前では取るに足らぬことであろう。
「いけ!大将首をとれ」
わしが山田大隅を睨みながら大声を飛ばしたその時、この男は冑の鐔<つば>に手をかけ、にこりと
微笑んだ。
なんだ?これは?
体中の熱がどっと抜けていくようなこの感覚。
馬の轡をひき馬を止めた。
……何かあるのか。
―泰能!
前をいく泰能に声をかけようとした時、この声は四方から起こった大声に掻き消された。
そして、崩れたはずなのに打ち掛かってくる部隊。
ハッと、前を見ると山田が金の唐傘を組み従えながら後ろに下がっている。
そして入れ替わるように奴の馬廻り衆が出てくる。
包囲……
この二文字が頭に思い浮かび、思わず後ろを見る。
既に退路は絶たれてあった。忍と見られるものたちによって。
この体を駆け巡るこれこそが天命なのか。
負けて感じるものなのか。それとも……
「殿、お引きなされませ」
「能うと思っておるか……?」
「……」
無言の泰能に、わしは微笑みかけた
そう、無理なのだ。
「五郎兵衛は無事あるかな?」
「恐らくは……」
こう話している間にも次々と兵は迫り、今川の兵はわしの旗本でさえ逃げ出している有り様だ。
しかし不思議と何も思わなかった。
ふん。
今川が武田、徳川に攻められ滅亡したときには
悔しくてたまらなかったが。
そしてそれからの小田原での無為の日々。
その日々に比べれば、この体は無駄に熱を持っている。が、どこか落ち着いていた。
一陣の風が吹いた。頬に当たり、気持ちがいい。
―ふう。
息を吐き、目を瞑り、やがて開いた。
「どうやら、わしはここで死ぬらしいな」
「お供致します」
「助かる。わしがお主がいなければ駄目らしいな」
「存じておりますよ」
にやにや笑う泰能に微笑み返した。
わしは、馬を降り槍を強く握り締めた。
ここで死ぬのが天命か。だが、それも可なりか。
わしの天命とは武士であることではなかったのかも知れぬ。だが、わしはその得体の知れぬ者に抗い、そして武士として死ぬ。
上総介信長でさえ逃れられぬ天命にさえわしは打ち勝ったのではないか。
ふ。戯れが過ぎたな。
武士に相応しくなくても、意地は、貫いても構わないであろう。
この乱れたる戦国の世でも。
わしは、武士として生き、天命に向かい合い、そして武士として死ぬ。
これが今川氏真よ。
毬が空高く上がる。やがて、太陽を覆い尽くし
光を遮った。そして、毬が地上に落ちてくるに合わせて眩い光が降り注いだ。




