第60話 山県
【元亀四年 山田大隅守信勝】
かつて、天下に最も近き男の名をとりながら、桶狭間で信長の乾坤一擲の刃に沈んだ男、今川義元。
その義元の旗印である今川赤鳥がここ
坂祝で復活していた。
へ。偉大なるパパの威光にあやかりたいのか?坊っちゃんよ。
「氏真ェェェ!」
おれは力の限り、叫んだ。
【元亀四年 今川刑部大輔氏真】
頭上に翻る今川赤鳥は、否応なく父義元のことを
思い出させる。
そして、もう一つ思い出ず。
一度、家を潰した自分の不甲斐なさをだ。
だが、こんな不甲斐ない自分を信じてついてきてくれている家臣がいる。
ずっと、今川に尽くした朝比奈備中守泰能。
一度、武田に降伏しながら、帰参してくれた
岡部五郎兵衛元信。
この二人こそこの新生今川の核なのだ。
見れば、敵、山田大隅は動く気配がない。
守りを固めたか。
山田大隅は本願寺の抑えでもある。つまり、ここで大隅を討ち取れば、本願寺戦線が崩れる。
上総介の栄華もここまでじゃ。
「山田大隅を討ち取れい!」
【元亀四年
山田大隅守信勝】
日ノ本最強の名をほしいままにする武田を相手に信長の策は、鉄砲だ。
山田軍に5百丁。徳川軍に5百丁。そして、
織田軍前衛、羽柴、佐久間、柴田、一万に2千丁。
そして、信長から厳命されていることが3つ。
1つ目は、追撃戦に移るまで、守備に徹すること。
2つ目は、火縄銃を二段打ちにすること。
たしかに、三段打ちの方が間髪入れずに打ち過ぎれば、銃身が熱くなり、打てなくなる。二段打ちならば、間隔は長くなるが、銃身が熱くなるのを防げる。
そして、3つ目は火縄銃で騎馬武者を狙うとき、馬を狙うこと。これは、決して火縄銃の命中精度は高くないからだ。でも、馬を狙えば、狙われたと思った馬は、引こうとするからだ。
「放てぃ!」
リズムよく、火縄銃が放たれる。
今川の先鋒は岡部五郎兵衛元信。
要地、高天神を任されながら、今川家復興の折、
高天神を捨てて、今川に帰参した男。
たしかにこの先鋒は覇気が違う。
正直、武田じゃなくて今川だからなぁ……
みたいな軽い気持ちがあったのだが。
だが、この勢いを見ると、それは甘い甘すぎる考えだったと思い知らせれる。
だが、武田、今川連合軍を率いる諏訪四郎勝頼の凄さをも思い知ることになる。
敵が用意した、竹束だ。
竹束とは火縄銃の弾をよけるものだ。
まさか、おれたちが大量の火縄銃を用意したことをわかっていたのか……?
たしかに、信長は火縄銃気違いのように、畿内の
火縄銃を買い漁ったが、それは10万という馬鹿げた数字での紀州攻めでカモフラージュしたはずだ。
しかし、バレた……
くそが。
「軍師ぃ!」
おれは、勢いよく祐光の顔を覗き込んだ。
そこにはいつものような、祐光の自信に満ち溢れた顔はなかった。
【元亀四年 徳川三河守家康】
日を赤い鎧に反射させ、きらきらとした光を放つ
赤備は、不気味なほど静かだった。
既に、今川が戦端を開いたが……
まだか……
日ノ本最強の部隊と言える赤備に相対すと、
冷や汗が流れるが、しかし緊張などはない。
平常心で向かわなければ、勝てないからだ。
それが難しいのもわかる。だが、今のわしならできる。
三方ヶ原で大勢の家臣を失い、挙げ句の果てに脱糞までしたあの屈辱以来、わしはずっと、
己の心を律することを己に課していた。
じっと、見つめていると、赤備の一団、およそ8百ぐらいが、益田川に沿って、下流方面に下るのが見える。
「なんだ……」
思わず声に出る。目を細めて見るが、なにが分かるというものでもない。
ある1つの仮説が思い浮かぶ。しかし取るに足らない仮説だ。
下流方面の我が軍と、この正面の軍で、挟撃するつもりか。いや、いやいや。
下流方面の一団は、後詰めを受けれないではないか。
遠すぎる。ありえないか。だがしかし
あり得ないことがあり得るのが、戦国の世ではないか。
下流方面の部隊は本多平八郎に任せてある。
だが、どうするということもない。
必ず、赤備を率いる山県は正面にいる。
ならば、正面にこそ全力を尽くすべし。
やがて、正面の赤備が砂埃をあげて、突撃してきた、と同時に下流方面でもときの声が上がる。
やはりか。
やはり、我等を挟むつもりであったが。
しかし、すぐに早馬が参る。
「いかがしたっ」
「はっ」
ゼイゼイと肩で息をする使者の言葉を待つ。
やがて、顔を上げた。
「下流方面にて、山県三郎兵衛尉を発見!
下流方面の赤備8百を率いるのは山県です!」




