53話 迷える
【元亀四年 山田大隅守信勝】
おれは木刀を振っている。勿論、左手一本でだ。剣道は、右手は添えるだけなので、左手一本の素振りで問題は無い。
何故、右手が使えないのに素振りをしているのかと、いうと逃げ出すため。
なにから?
花隈の磔の光景だ。
笑える話だな。
おれが命じて、おれが村重の一族全員磔にした。だが、おれはこれから逃げるため、一心不乱、いや、ずっと磔の光景が浮かぶ常態で一心不乱とは言えない。そうだな、ただおれは逃げたいんだ。
「―っ」
声が漏れる。一体おれは何をしているのだろうか。
目を閉じると浮かぶ、磔にされた人、人、人。女に、まだ子供もそれに混じっている。
「信勝様……」
「犬か……」
何のようだ?いや、こんな辛気臭い顔で夫が素振りをしていたら、そりゃ、心配になるわな。
「犬」
「はい」
「おれとは何者だ」
へっ。何言ってるんだ。おれは。そんなこと他人に、お犬様がわかるはずもない。
「兄上なら恐らくなにも迷わないのでしょう」
だな。おれは信長ではない。あんなに自信に満ち、人をその大いなる意思で導くことなんておれにはできない。
「苛烈な決断を下しながら、そのように迷える信勝様が」
そこで切るなよ。気になるだろ。
「私は好きなのです」
そーか。なにも言葉にできねえわ。ああ。おれって駄目だな。
【元亀四年
随風】
信貴山にたどり着いたが、松永弾正忠はこちらに背を向け、更に一言も発していない。
「石川五衛門という男が……」
やっと口を開いたか。
「落武者狩りを斬殺したらしい。だれだかのう?」
こちらを含み笑いをし、弾正は振り返った。
これが、松永弾正忠か……
いかにも義輝殺しの悪人だな。頬の大きな傷、
黒々と光る目、そしてわずか禿げ上がっている髪に、浅黒い肌。
「いえ、知りませぬ」
「随風こと……風間平助」
自分でも顔が強ばるのがわかる。なぜだ?なぜこの男は知っているんだ?
「ハハハッ。軒先にて、顔をあげておった忍を忘れるはずもない」
そういうことか。納得したが、同時に苛ついてきた。
「忍が軒先で顔をあげるのは駄目なんでしょうか?ああ?」
「ふっ。だれもそんなこと言ってないだろうに」
弾正は勝ち誇ったように笑う。
「お主、山田に似ておるな」
「はあ!?」
思わず声が出た。おれがあの山田なんぞに。てかおれは山田の顔を見たことないが。
てか、池田山城に忍び込みそのまま山田の寝首を掻かないのは何故だ?
わからぬ。だが、山田は嫌いだ。
「お主をわが側におこう」
「つまり、それは山田殺しに協力するということか?」
沈黙が流れる。そして、弾正は再び背を向けた。
「答える義理もなし。畜生坊主」
【元亀四年 本願寺顕如光佐】
太陽とは、東から昇り、西へ沈むのだなぁ。
今日は実感する。わしはずっと、今日花隈の方へ手を合わせお経を唱えている。わからんとこはごにょごにょ言ってごまかしてるけどな。
山田大隅守信勝が、荒木が親族を磔に処したと聞いてわしは正直、怒りとかやのうて、失望した。
そりゃ、やつはこれで摂津の支配を磐石にした。
やけど、浮浪人上がりで、摂津の旗頭に登り詰めたこの男は、どこか他の大名とは違うんやないかと期待しとった。だが、所詮こいつも、人の命なんやなんとも
思ってない、戦国大名、ただの俗物やったんや。
確かに、摂津の土豪どもは頭を垂れて、山田の下につく。
だが、そんなもんあいつが切り落とした中指と
花隈攻めで散った兵の命と、磔になった荒木の一族、これらの血で塗り固めた力やんけ。
一体、いつから人の命とは安くなったんやろな。
「いつからや……」
声に出しても答える者などおらんことぐらい
わかってる。
ただ、山田は、山田大隅守信勝は許さん。
「―仏敵、山田大隅守信勝、誅すべし」
これがわしにできることや。うん。




