第42話 かがり火
【元亀二年 土屋右衛門尉昌続】
まったく、高力隊はまるで歯ごたえがなかったわ。もっとなにか、御屋形様が
喜ばれるような武功をたてたいものよ。
うん?あれは敗走兵か。
うむ。そうだ。あの敗走兵の中に高名な武士も混じっておるやもしれぬ。
「土屋隊、突撃じゃ!」
【元亀二年
徳川三河守家康】
わしが紛れておった敗走兵の群れは、土屋隊の攻撃によって、四方八方に散りじりになった。
つまり、わしは一騎。
わしは早く、一刻も早く浜松へ戻るため、前屈みになる。
くっ……目から涙が溢れてくる。怖いのだ。
武田が。戦が。そして、なにより家臣を犠牲にしておきながら泣きながら逃げている自分が情けない。
もし、あのとき、桶狭間で義元公が勝っていたら、どうなっていただろうが?戦国の世は変わっていただろうか?
いや、結局、桶狭間で死ぬのが義元公の天命だったのだ。それは変わらない。
……なら、わしの、徳川三河守家康の天命は?
「走れ!走らぬか!」
その疑問をかき消すように、わしは大声を挙げながら、馬の尻を思いっきり鞭で叩いた。
【元亀二年 山田大隅守信勝】
赤備を相手に押して、押されての一進一退の攻防を続けていたが、突然、赤備が乱れた。
「……なんだ」
「恐らく、平手殿が側面をついたのでしょう」
そうか。だが、残念なことに摂津衆はもう
追撃する力など残っていない。
「山田殿とお見受けいたしまする。これを
我が主からにございまする……」
平手殿からか。
『山田殿は、赤備相手に奮戦された、まさに
強きお方。天下のため、山田殿は退却されよ。
不肖、平手監物汎秀、ここで討ち死にの間に退却されよ』
「死ぬ気か。平手殿は」
無言で頭をしゅんと垂れた使者を見る。
「殿、我らのため命をかけてくれたこと、我ら終生、忘れませぬし、必ず必ず我らは殿を高みに昇らせます。ですから、お引きを」
「ああ」
ここで死ににいっても、無駄死にだ。
おれらが離脱すればこの戦場に、織田軍は平手殿しかいなくなる。
平手殿は必ず討ち死にする。
「退き法螺貝を鳴らせ」
「はっ」
……負け戦とはこうもつらいものなんだな。
【元亀二年 徳川三河守家康】
「殿!ご無事でしたかっ!」
「ああ」
ふう……やっと着いた。浜松に。
「では、城門を閉めまする!」
「まて!」
わしは気づいている。織田信長ほどの決断力もなければ、武田信玄のような威もない。そんなわしは、人の信、忠誠心によってこの戦国を生き抜き、大大名になるしかない。
「味方が帰ってくであろうが!城門を開けよ!かがり火を焚け!ありったけ焚け!」
「しかしそれでは、武田を防げませぬ」
フンとわしは鼻を鳴らし、アッハッハと笑った。
「それならわしの天命がそれだけだったということよ!どのみち大大名にはなれまい!」
【元亀二年
馬場美濃守信春】
「美濃、どう思う?」
わしもそれを聞こうと思っていたと隣の山県に言う。
開け放たれた城門に、真昼のような明るさになるまで焚かれたかがり火。
「なにか罠かもしれぬな……」
「なければ、三河の首を取れるな」
ああと頷くが、もう徳川軍には大勝したのだ。
ここで冒険をすることもない。
わしと山県は顔を見合わせ頷き、御屋形様のもとまで引いていった。
【元亀二年 山田大隅守信勝】
すげえ数のかがり火だ。浜松がどこかすぐわかるぜ。
「空城の計か……?」
ぼそっと祐光がつぶやいている。
「ああ。うーん、そんなこと考えてたのかな?
三州殿は」
「さあな」
たく、お前が言い出したことだろが。
「山田殿、帰城!」
使者の声が響くと同時に、おれら全員、倒れこんだ。
「あ~しんどかった」
正直、赤備相手に生きた心地がしなかった。
「隅州殿!」
「おお!三州殿!」
おれは体を起こすと、家康はその場に座った。
「隅州殿は、赤備相手に奮戦されたとか、拙者はこの通り無様よ」
たしかに、鎧、兜をぬいで、白の着流しの家康は無様だ。
「この恨みは必ず晴らす」
しかし、輝いて見えた。
「ハハ……拙者は、糞、もらしそうになりましたわ……」
「拙者は、もらしましたぞ!」
グッと拳を作って、おれに近づいてきた。
ああ、だから着流しなのね。
その後、家康は絵師にその無様極まりない姿を書かせたていた。
思ったんだが、天下人、徳川家康はここから始まったのかもしれないな。
【元亀二年 織田上総介信長】
ほう……徳川三河守家康、そして山田大隅守信勝生還か……
さすが、竹千代よ。わしが見込んだとおり、そして
山田。うぬは確かに我が義弟よ。正真正銘のな。
「ふん」
気晴らしに鼻を鳴らした。




