第146話 春風
【天正七年 小山田越前守信茂】
勝頼めが。有数の愚将が。ここに来るなど。
あってはならぬわ。
小山田家は信虎公により服従させられた家。別に武田家に恩義などもない。それに、勝頼など滅びて当然。
しかし、ここでわしが勝頼を殺せば、主殺しの汚名を着るのは確実。それは防がねばならん。
「勝頼をけして岩殿に近づけるな」
「は、はっ」
面食らったような家臣の走り去る背後を睨み付ける。
小山田が武田を超える。これは当然のことよ。
【天正七年 真田安房守昌幸】
武田も滅亡か。ふむ。信玄公の時代に改革を断行しておれば、幕府と肩を並べていただろうに。
結局は山猿よ。信玄公がいてもいなくてもそれは変わらない。結局は。
勝頼公も悪くはなかった。ただ時期が悪かったか。
いや、戦国大名など結果がすべてよ。勝頼公は愚人。これでいい。
せめて、安らかにお眠りを。武田家当主、勝頼公。
我らは如何にすべきか。幕府に臣従だけはいけない。ここ岩櫃は要害。なら、幕府はありとあらゆる理由を付けて我らを殺すだろう。なら、方法はひとつ。
北条に臣従する。
北条は幕府に臣従しているからといって、結局は他家。それに何度も言うように岩櫃は要害である故、必ず幕府は北条より我ら真田を引き入れるであろう。
本領安堵の餌を持って。
真田はいずれ天下に名を轟かせる。そんな気がする。
【天正七年 武田大膳太夫勝頼】
わかる。武田は滅亡する。
北風が木の葉を払い、天に舞うように、形あるものが時を経て石となり、砂となり、やがては塵となるように。
それは抗えぬ時の流れの中に、放り込まれた人間の定めに似ているものだ。
織田はやがて、天下を一統するのであろう。それも人智には抗えぬ時の流れに流され、戻され、やがて食い殺す。
その時、武田はどうなる。悪名として名を残すか。
それは罷りならぬ。武田四百年は誰にも笑わせぬ。誹<そし>らせぬ。
武田は、厳かに、荘厳に冷涼に霧の中に消えていく。そして人の記憶の中にのみその美しき幻影を見せる。
それでいい。それがいい。
武田すべての罪と咎はすべて、この身が請け負う。
「立ち去れい」
岩殿の前で、武者が槍をわしらに向けていた。
小山田。主も裏切ったか。何、あの坂祝から生きて帰ってきた者同士、わしから惜別の言葉を。
どうなろうとて、その選択に後悔するな。
後悔しなければ、おそらく何事も素晴らしい。
まあ、届かぬ言葉だがね。
「天目山へ」
「勝頼様……」
相模の弱々しい言葉は雪の中に消えていった。だが、確かに聞こえた。
天目山。以前も武田信満公が自害した武田終焉の地。
つまり、天目山で我らも死ぬ。
女子供合わせて八十名程度か。武田の最後にふさわしき立派な面構えよ。
わしのみが、武田にとっては災厄をもたらした。
「御屋形様」
長坂が膝を着いた。
「いずれ、もうすぐで織田がこちらへ来るでしょう。ここで拙者が時を稼ぎます」
暫しの沈黙が流れる。それは消して、寒さに震えているからではない。
「……長坂。奉行である主には苦労をかける」
「……はっ」
せめて平時であったなら。平時であったなら。長坂は温厚篤実なる奉行としてその生涯を終えられたのだろうか。
いや、それすらもわしはわからない。
わしは歩みを始めた。それに皆が伴い、着いて来る。
鎧兜に降り積もる雪はその重さを増す。だが不思議なことに、それでもこの歩みは疎かにはならなかった。
既に後ろなど振り向かない。天目山へ。天目山へ。武田の終焉へ。
「勝頼様」
後ろで声がした。
「もう、限界でございます……」
その言葉が意味することはわかった。
相模はまだ十五の女子。旅路は苦労が過ぎたのだろう。
「せめて、最後は……」
相模の声は、途切れ途切れであった。けれど、いつもどおりのあの凛とした声であった。
「あなたの手の中で眠りたい……」
聞くや否や、刀を抜いて相模の胸を刺し、腕の中に抱き寄せた。
相模は笑っていた。それもいつもと変わらないあの笑顔で。
「もしかして、お前はわし以上に……」
何も、考えず言葉が漏れた。
「はい……」
相模は笑いながら、崩れ落ちた。この寒空の中相模を抱き寄せた腕だけが、やたら熱を持っていた。
この感情の名を、既に知っているのだ。わしはきっと。
「行くぞ」
しかし、それには名を付けるのはまだ早い。
天目山の麓にようやくたどり着いた時、耳慣れた武具甲冑、旗指物匂いがした。
雪の向こうのその奥、滝川家の兵がいた。一万程度だろうか。
「御屋形様。ここは我らに任せ、お一人で……」
「縁があれば、また……」
わしは、背中を向けた。
天目山の道を歩みながら、無駄と思いながらも自己問答を始めてしまう。
すべてを失い、悪評だけを受けながら武田当主の道を行った。しかし、それは何故なのだろうか。
わしが、武田当主だから。本当にそれだけなのだろうか。
いいや、やはり考えるのはよそう。
季節はずれの雪もやがては、止み、雪は水となって流れその水は太陽に照らされ、その輝きはやがて夜を照らし、朝を彩る。
そして、ようやくわしは知るのであろう。やがて来る春風に吹かれながら。




