第145話 勝頼流転
【天正七年 織田左近衛中将信忠】
大勢は決した。最後の防衛拠点である高遠が落ちた武田は、もはや甲斐に攻め込まれるだけだ。
一日での陥落により豪族共のそのほとんどは我等に降伏するであろう。
これは推測ではない。最も有り得る未来を述べているだけだ。
ふと、下を見ると雪にすっかり潰された薄紅色の小さな花が見えた。
勝頼よ。意思を持った開明なる男よ。
崇高だったか。貴殿にとって武田は。
わしは、征夷大将軍であるが、わかったことは武士の頭であっても下衆に過ぎない。
うららかな春に咲いた花も、季節外れの雪に埋もれて行く。名門の武田も守護の下の下の織田に滅ぼされることもある。
だが、織田も武田も変わらない。どちらも同じ穴の下衆なのだから。
勝頼とわし、もし差があったとするならば、そこなのだろう。崇高な物と捉えるか、はたまた下衆と捉えるか。
勝頼。武田最後の当主として、大輪の中の一片としてただ一輪のみで天にいけ。そこには雅な匂いも残らず、あでやかな姿もない。ただそこに花はあった。それのみを残して下衆なる宿命より放たれよ。武田勝頼。
【天正七年 織田右近衛大将信長】
赤光の奥に深い影を残す老人が一人。そのすべては白黒だ。その老人はこちらに手を伸ばす。その老人の名は知っている。平手政秀。われの守役にて、われが殺した爺。
「若」
赤光は消え、和やかな笑みが輝く。白黒ながらもその眩さばかりが目に入る。
しかし、どうしようもない。これは夢である。自覚した瞬間に風景は色を帯びた。
夢か。
やはりかとばかり周りを見れば窓より、一杯の琵琶湖が目に入った。
「お目覚めですか」
斜め前にいたのは光秀であった。
「昼寝だ」
静かに頷く光秀はやがて口を開いた。
「上様が一日で高遠を落としたとのこと」
奇妙がやりおったわ。あのいつも仏頂面だったあの可愛げなども欠片もなきあいつが。
しかし、これであの懸念が現実の元になったか。
「武田滅亡後、奇妙をここへ」
「はっ」
われは、ふうと息を吐いて外の琵琶湖を眺める。
「織田を滅亡より救わねばならぬ」
青く鈍い光はわれを貫かんとしているようであった。
【天正七年 武田大膳大夫勝頼】
「まことか……」
「はっ」
奉行の長坂釣閑斎はへたり込むように平伏した。だが、これを笑うことなど今のわしにはできぬ。
「高遠城、落城。そして五郎殿、御腹を召されれ申した……」
信じられぬ。あの堅牢なる高遠に勇にて武者の面を清めていた五郎がわずか一日で……
見誤ったか。織田左近衛中将信忠という男の器量を。
よく兵を鼓舞し、計を競わせ勇にて兵を争わせた。織田信長に伍する才覚。
所詮、信玄を追っていたわしでは戦えぬ存在であったか。
「御屋形様っ。国人、土豪が一揆を起こしましたっ」
「農民、逃散するもの、徒党を組み代官所を襲うもの多数っ」
民百姓、土豪国人がわしを見捨てたか。
「お逃げをっ……最早一揆を防ぎ能うかわからず……」
長坂が言葉を吐くように紡ぐ。
「岩殿に移りて織田を防がん」
「小山田殿は如何なる気持ちでありましょうや」
要害である岩殿の城主である小山田は、先々代の信虎公よりの家臣。真田がいる岩櫃に移るという手もあった。だが武田当主が甲斐を捨てるなど罷りならん。
「館に火を放ち、人質を殺せ」
わしはそれだけ言った。
外の雪は未だ勢いを無くすことを知らず、降り続け雪は積もる。
それに負けず背後の炎も燃え続ける。この寒空を破らんとするようだ。
破ったその先の太陽は武田の前途を祝うのか、はたまた武田の未来を焼き払うのか。
「勝頼様」
近くで相模に名前を呼ばれた。
「そのようなお顔をなされますな」
わしがどんな顔をしていたというのだ。相模。




