第144話 一日
【天正八年 織田左近衛中将信忠】
「一日だ」
立ち上がり、机を叩く。
今は軍議の席。
左右に並ぶ武士を見回し、少し言葉を付け加える。
「一日で落とす」
一瞬、張り詰めたような空気が一座に流れたが、やがてそれは弛緩したように霧散した。
「一日ですか」
副将の滝川左近が無表情のまま、言い聞かせるように反復している。
今の左近は残念ながら管領末席と言っていい位置にいる。ここで手柄を立てねばならぬのは、左近自身が一番わかっているはずだ。左近も筆頭の地位を狙っているのは知っている。
「普通に攻めれば」
「二ヶ月かと」
わしの言葉にすぐに左近が反応する。
二ヶ月を一日に。それが難しい問だということはそれを目標にぶち上げたわしが一番よくわかっているつもりだ。
場が静まり、氷のように冷えるような風が流れてきた気がした。
「やりましょうやっ!!」
氷が割れた。いや、爆ぜた。割れんばかりに机を叩き席を蹴りあげるのは、やはり勝蔵しかいない。
気でも違ったような行動であったが、不思議とわしは笑う気にはなれなかった。
この武田攻めの鍵を握るは勝蔵である。いや、勝蔵でなければならない。
わしはやつを先鋒に任じた時からそう思っているはずだ。
『大丈夫です。信忠が信長を超える時は必ず来ます』
坂祝のとき、大隅から送られた言葉が引き出された。初めは慰めにしか思えなかった。だが、そうではない。そうではない。大隅はきっと本心からだというわしの独りよがりの茶菓子の如き甘い考えも同時にあった。
それの答えを知らねばならん。
わしに天命があらば。天命というものがあらば、勝蔵はきっと正しい。
勝蔵の言いたいことはわかる。この幼馴染みで血の気が多くて父好みの荒武者でそして理想と現実の狭間でふらふらと彷徨する勝蔵を、わしは少しは理解しているつもりだ。
わしは、まだ立ったままの勝蔵の目を見て、わずかに顎を引いて頷いた。それが伝わったのかどうなのか勝蔵は座った。
ここに立つのはわし一人。
「決したぞ」
武士を、見回しそして笑う。
「全員、先鋒として攻めかかれ。無論、わしも先鋒だ」
「御意っ!!」
わが侍たちはその力量に相応しく、雄雄しき声をあげた。
季節外れの雪は、意外なことにその勢いを増し、一種の花のように、振り落ちてきた。ちらりと目に入った梢は雪の重さに耐えかねているようだった。
兜についた雪を払い、顔を前に向ける。今も迷っていないといえば嘘になる。
こんな信長の息子に過ぎないわしの為に、兵らの命を使わせていいのだろうか。力攻めではなく持久戦にするべきではなかったのか。
だが、こんなわしに大隅は信長を超える姿を見た。それに、わしも信長を、父を超えたい。天下をとりたい。乱世に身を投じたからには。
決意はやがて形へと姿を変えるのであろう。
「すわっ!攻めかかれっ!」
兜の前立てを傾け、馬に鞭を入れ、走り出す。
「上様の後ろで戦ったとなれば末代までの名折れぞっ!森家の力を見せろっ!寄れや寄れや」
後ろの鉛のような言葉が翼となったかのようにわしの馬の足取りは早かった。
次々と兵が城壁にしがみつく中で、わしもしがみついた。
城壁はひやりと冷たかったが、この体がやたら熱を持っているとうことをくどいほどに感じさせてくれた。
「くっ」
矢が雪に紛れて降り注ぎ、血しぶきの色が紫色に見えてくる。
ふと、周りを見れば大量の兵が血相を変えて城壁をよじ登っている。
ふん。貴様らも何かを得たいか。ならば上へ上へ。
一角が崩れようだ。兵の喧騒とざわめきが敵に覆い被さり、そして潰した。
冷える雪も、凍てつく風も、青みがかった梢も何もかも、無価値な物に見えた。
「よしっ!つっこめっ!」
わしの下知などの前に兵は己が決壊したかの如く、崩れた所になだれ込んでいった。




