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乱れしこの世で夢見たり  作者: 泰兵衛
第12章 甲州崩れ!!
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第143話 五郎

【天正七年 仁科五郎盛信】


 この高遠の地を気に入っていた。深い深緑も、優しく流れる小川も、たまに降る白銀の雪も、揺れる風の音も、嫌いではなかった。むしろ好きな部類だった。


 隣の諏訪では兄の四郎勝頼が統治に難渋していたと聞くが、そんなことは知らなかった。


 わしは父の才能を何も受け継がなかったと思う。


 父の名は武田徳栄軒信玄。かの名将だ。


 深い豪胆さと、兼ね備えたその繊細さ、それをおくびに出さない凛とした立ち住まい。すべてが完璧だったと思う。


 そんな父がいれば、織田など一息で潰せると思っていた。迎えた西上戦での副将は兄の四郎。抜擢であった。


 五郎と呼びかけるその優しい声と、それには似合わぬ厳しい眼を未だに覚えている。


 西上戦では三方原にて、徳川三河と山田大隅などの織田徳川、それに足利の連合軍に大勝。徳川三河は、ともかくあそこで山田大隅を討ち取っていれば武田の命運も大きく変わったはずだ。


 しかし、西上の途中、父は病死。武田は甲斐に引き上げた。


 陣代になったのは四郎勝頼。その根も葉もない悪評は遠きここ高遠まで聞こえた。そんなことだったから兄の苦労は想像に難くない。


 そんな兄は東美濃で織田の城、十一城を奪取した。


 代替わり 飛ぶ鳥落とす御威勢は 勝つより他に無しと見えたり。


 当時の落首だ。兄は実力を持って武田を掌握した。かに見えた。


 だが、周知の通りの坂祝の敗戦により武田の同盟国であった今川は滅亡。武田家も大損害を被った。わしもただ一騎で逃げ帰った。生きて帰れたのは、兄と小荷駄を率いていた小山田、それにわしと穴山梅雪と悄廉軒。


 梅雪と悄廉軒は戦の途中で無断撤退。結局、これが惨敗の引き金を引いたのだ。


 しかし、武田は北条に勝ち、改革を断行していった。


 だが、今。


 豪族は離反し、親族衆であった梅雪は寝返り、悄廉軒は城さえ捨てた。


 甲斐への防衛拠点はもうここ高遠しか残っていない。


「仁科殿、ご決断を」


 長い逡巡の末、閉じていた目を開ける。


 そうだ。仁科の僧にわしは織田につけと説得されているのであった。


「仁科殿」


 言葉を発しないわしに業を煮やしてか、僧は苛立ちを秘めながら言葉を紡いだ。


「もはや、武田は終わりにござる。坂祝で負け、徳栄軒殿は敬わず、豪族に負担を強い、諏訪の冠を付けながら武田を支配する悪当主、武田勝頼の自業自得。なにも仁科殿が気に病む必要はございますまい」


 悪当主。諏訪の冠。これらの言葉は兄を切り裂き、そして空にさまよう。


「仁科殿こそ、名将徳栄軒殿の五男にして、武田の家風を受け継ぎしお方。この勝頼討伐に力を尽くせば、武田当主の座も開けまするぞ」


 武田当主。その言葉に反応したのが知れたのか、僧は少しにやついた。


「左様。駿河で利権を奪われ、依田玄蕃に苦戦している穴山殿よりも仁科殿こそが武田当主になるべし」


 武田当主。この四文字がこの高遠城の見慣れた床から天井の間を彷徨する。


 ……まて。わしは武田当主に何を思った。


「五郎、わしが死せばぬしが武田当主となれい」


 そう、真顔で言い放った兄ではないか。


「はは、御屋形も何を言いますか」


「本気だ」


 変わらない優しい声色に厳しい眼の兄ではないか。


 ここ、遠く高遠からでも兄が武田の改革を断行していた兄の姿を思い浮かべたものだ。


 悲壮感と、毅然さとわずかばかりの苦悩を持って、改革を断行したのではないか。


 鎌倉より変わらぬこの武田に真正面から立ち向かいながら。


 わしにできたか。長子の太郎兄上にできたか。いや、父にすらできたか。今なお当主を公然と狙う梅雪にできたか。


 いや、できない。この道すら選べなかっただろう。選べたのは四郎兄上、御屋形だけだ。


「僧よ」


 わしは悠然と立ち上がる。そして武将として決断を述べるべく息を吸った。


「その両耳で聞け」


 僧は、たじろいた。


「兄こそが、大膳大夫勝頼公こそがこの武田に相応しき歴代最高の当主よ」


「……なっ」


 僧は思い切りわしを凝視している。


「傷を負いながら、前に進みながら自己を犠牲とするものなど御屋形しかいまい」


「本気でござるかっ。勝頼めはここまで後詰め能うかわかりませぬぞ。後詰め間に合わず死ぬかもしれませぬぞっ」


「構わぬさ」


 自分の声は自分で思ったより透き通っていた。


 見えないはずの眩い光が眼前の奥向こうから差し込んでくる。わしはそれを見ながら、微笑む。


「それが大膳大夫勝頼の道であるのだから」


 刀を振るい、槍を携え、弓を引き、矢を放つだけしか能のないわしは、ただ兄の大器を信じ、その道の先にある何かに向かいて、走るだけだ。


 恥ずかしながら、ようやく気付いた。


 それが仁科五郎盛信の進むべき道だ。


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