第141話 雪
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信濃の民にとっては侵略されることなどは慣れていたことであった。
山々故の小競り合いや、それに徳栄軒の侵略などを重ねれば民にとってそれは日常に塗り替えられていく。
だが、武田が攻められるなどといった言わば絵空事は、彼らにとっては容易に信じられない出来事であった。
あの武田が。
それが、言わば信濃の民の世論であった。本国でない信濃でこれである。本国の甲斐は如何ほどであるかは想像に難くない。
走り回り、真っ赤な顔で口々に叫ぶ早馬を見てもなにか別世界のことのようであった。
幕府五万がなにほどであろう。武田は勝つ。
前の北条との戦も勝ったばかりもである。
だが、武田の、いや正確にいえば武田勝頼の滅亡を期待した民もいた。
諏訪の民である。
諏訪の民は一種、別な感情を持っている。
我らは聖地の民である。
かつてここを治めた名族の諏訪家は諏訪神社を保護し、民の尊敬と羨望を一身に集めた。
だが、徳栄軒によって滅ぼされたことにより諏訪の民は武田を恨んだ。徳栄軒と諏訪の姫君の間に生まれ、諏訪家を相続した四郎勝頼など、彼らは武田からの人質と見ていた。
ところが、その人質は数奇な運命によって武田の屋形となった。
彼らの恨みは身近で尚且つ、見下していた勝頼に向けられた。鳴らば、木曽が裏切り幕府が三方より攻めかかる今こそが勝頼を滅ぼす期である。
勝頼は強いというのは、諏訪の民の認識であった。
見下していた者が実は強かった。
嫉妬も、民を突き動かした。
諏訪の民が思い思いの武器を取り、代官所になだれ込み代官の首をはねたのは、木曽中務が裏切った僅か半刻ほど後のことである。
【天正七年 武田大膳大夫勝頼】
軍を集め次第、木曽に赴き織田と決戦す。
徳川は穴山で抑え、北条は佐竹、里見で牽制能う。
木曽より鳥居峠より来る織田三万五千。これさえ退ければ後はどうとでもなろう。北条を滅ぼし、関東を傘下とし、武田、里見、佐竹、上杉で幕府に侵攻する。その為にもまずはここだ。
「一万五千の兵、集めました」
使者の言葉に軽く頷く。
敵は三万五千。武田は一万五千。劣勢であるが気にはならぬ。山岳戦であり、尚且つ、これは我らにとっては防衛戦。死にものぐるいで戦う。
織田さえ倒さば、諏訪の一揆などどうとでもなろう。
盾無を纏い、兜をかぶる。負けられぬ。武田の当主として。
目を閉じる。眉間に力が入るのが無意識ながらよくわかった。
「勝頼様」
「……なんだ」
ふいに妻の相模に名を呼ばれた。
「ご武運を」
祈る様に柔らかく目を瞑った相模を見たわしは息が止まりそうであった。理由は決まっておろう。
「では」
わしはそれだけ言うと、外に向かった。
四月というのに、未だ肌寒く吹く風は草を飛ばし、体を冷やす。風の流れる音と、徒立ちの者の鎧の擦れる音が重なって響く。
馬に揺られながら、目を木曽谷の方角に向ける。この数刻後には戦であろう。
死しても勝つ。武田の為だ。わしが死しても弟の仁科五郎がおる。案ずることも無き。
密やかに香る春の匂いが鼻をくすぐる。これを断ち切るが如く、
刀を馬上でふった。
「織田軍、二里先でございます」
二里。あと半刻あまりか。
坂祝から七年。何かわしは変われたのであろうか。
ふいに、季節外れの雪がふってきた。
僅かばかりの積もらない雪が頬に当たる。それは冷たく、またある意味、ぬるかった。
「御屋形様っ」
やって来た男は新府に残した男であった。
「なにかあったか」
肩で息をしながら 、男は顔をあげた。そこに雪がつく。
「穴山殿、謀反。徳川と連合し国境の田中を囲みました」
「もどるぞ」
わしは馬を反転し、馬複を蹴った。
ふいに雪が強くなり、吹いた風によって視界が白く変わる。が、それもまた一瞬だった。すぐに馬が走り視界が開ける。しかしまた視界が白に占領される。
雨に変わるのだろうか。
やがて来るであろう蕭々とした雨の音を耳の奥で聞いた。




