第140話 武田攻め
【天正七年 織田中将信忠】
ひっきり無しに届く北条の救援要請を
ひとしきり眺め、丸める。
関東の雄などと言われたこの老大国も四代と時を重ねれば弱体化するものなどか。
いや。
ふっと、自嘲気味な笑みを浮かべる。
わしが言えることでもないか。
織田は弱い。一向宗には何度も負けたし、浅井の寡兵に滅亡の淵まで追い詰められたし、上杉にも負け、武田にも負けた。遡れば、美濃の斎藤にも何度も退けられた。
だが今、織田は中央を抑え、周囲に領土を拡張させている。
総帥の織田信長が原因であろう。
恐らく、あの男の頭の中にのみ天下を如何様に取るか、どのように統べるか、何をすべきかが入っているのであろう。
それは決して口には出さない。だが、自分の行動にはすべてを賭けている。
だからこそ、父と呼ばれるあの男の背中は眩く、誰もがその光にくらんでも、その先にある更なる光に己が身を投じたい。
だが、わしには違う景色が見える。
その光が消えたとき、新たな光とならねばならぬのは、ただの苦行だ。
安定の中を、父より劣る魅力の中で夢を見せねばならない。
稀有なる父を持てば、自ずと息子は苦労する。幾度と繰り返されてきた道だ 。とどのつまり、二代目は初代の亡霊と戦い、死ぬ間際にようやくそれから開放されるのではないか。
であるからこそ、わしは勝蔵が放っておけぬのかも知れない。
若くして森家の当主となり、それに押し潰されそうになるあいつをわしは。
此度の先陣は無論それだけではないが。次世代、つまりわしの世代の育成そして、武田を滅ぼすための。
「玄以」
「はっ」
僧でありながら父に才覚を見出され、わしに付かされた男。寄騎でありながら、何故だがこの男はわしに付いてきてくれる気がする。これからもずっと。
「勝蔵は一度、乗ればどこまでも乗れる男よ。だからこそ乗せてやらねばなるまい」
「……ほう」
僧らしい、勝手にわしが想像する僧のような重く低く、それでいて響く一音を玄以は発した。
「前線である木曽谷の当主、木曽中務太夫義昌を調略せい」
「……御意。条件は」
「木曽谷の安堵と武田滅亡後、十万石の加増」
「これはまた、大気で」
木曽中務は由緒正しき源氏でもある。源氏でもあるわしらが少々大目に加増しても構わないであろう。
「いけい、玄以」
「はっ」
【天正七年 前田半夢斎玄以】
木曽中務の先祖は言わずとしれた源平争乱の頃に一時、京を取った旭将軍、木曽左馬頭兼伊代守義仲だ。
だが、それが徳栄軒の侵略によって配下となった。配下と言えども、子供をすべて人質に取られ木曽谷の政治はすべて武田の監督を受けている。
旭将軍の面影はもはや欠片も残っていない 。
これだけなら、加増をちらつかせる織田に付くだろう。だが、子供を新府に残す中務にその裏切りの判断ができるか。
勿論、裏切れば中務の子供は死ぬ。
あやつがどちらを取るか。
いや、裏切りを取らせる。必ず。
いつかは、日ノ本の檜舞台で思い切り見栄を切って、喚いて、前田玄以という花を咲かせてみたい。
ならば、ここからだ。
森勝蔵が先陣の誉れを賜ったならば、わしのこの調略も誉れなのだ。
「お目通り願い恐縮です。拙者、幕府直臣の前田半夢斎と申します」
「木曽中務だ」
案外、簡単に通された。木曽中務は思ったより若く見えた。それは、この緑に囲まれ、山々の間を吹き抜ける風のお陰なのか。
「幕府に付きなされ。武田滅亡後に新たに十万石を給与するとの上様のお言葉です」
「破格であるな」
上座の中務は薄い唇をわずかにあげて、少し声を漏らした。悲観か、嘆息か。はたまた斜めに構えているのか。いずれにせよ、特徴なきこの男の僅かな特徴を突かねばならない。
「旭将軍のご嫡流には当然でございます」
「ふっ。それがこの様よ」
わかる。わしにはわかる。この小人の思いが。偉大な男の子孫。武田に支配されている状態。この二つはどちらも現実であり、だからこそ苦しいのだ。どちらにも挟まれて、苦しみもがく。だがそれでもなお苦しいのだ。
伊達に長く僧をやってはおらん。今のわしにするべきは、説得に非ず。ただ背中を押すのみ。
「木曽中務殿は文武に秀でし御仁。であるからこそ大仕事を果たされませ」
「大仕事?」
若干の声のうわずりをわしは聞き逃さない。間違いない。わずかだが、やつは高揚している。
「武田滅亡の引き金を引かれませ。これは中務殿にしかできませぬ。我が主君にも、安土右大将にも、ましてや旭将軍にも不可能だったこと」
「……」
わしは少し息を吸う。
「なにも罪悪感など感じる必要はありませぬ。中務殿こそが武田を超えし御仁」
子を捨てる判断ができるか。この一見、鈍者なるこの男に。
長い沈黙は、時間の長さのみをこの身に感じさせ、人の細やかな息遣い、それに目線の動きが際立つ。
「……そう致す」
言葉と共に中務の首がうなだれるよう、頷かれた。
「万事、成功で」
「そうか」
上様は報告を聞くと、小さく頷いた。そこにある感情はわしでも推し量れなかった。
「北条、徳川にふれをだせ」
上様は無表情で言葉を紡いだ。
「武田攻めを開始致す」




