第135話 右手
【天正六年 荒木信濃守村重】
金唐笠が帝釈山を降りるのを見たわしは思わずにやつくのをやめられなかった。
やはりか。
雁金急襲を行うのは山田。
恐らく限度まで近づき、そこで分岐するつもりだろう。
それに横槍を付ける。
いや、まて。
どこで分岐するのかはわからぬ。しかしそれを見破らねばならぬ。
大丈夫。わしなら見破れる。
注視致し、分岐する素振りを見せたところをつく。
山田大隅の最後よ。
「出陣の準備をせい」
右手をあげながら、目線は下に沈める。
「出陣でござるか」
「いや」
大手門付近では小競り合いが起こり、山田本陣は静かに鳥取城まで行軍している。
それもすべて鳥取の青空に包まれていて、一見すれば穏やかないつも通りの風景を表している。
だが、こんな風景はもう二度とない。
日々一刻と移り変わる世界の中で、わしは全身全霊を尽くす。
「この右手が振り下ろされ次第、出るぞ」
「御意」
心の奥にある水辺に寄せては返す小さな波紋にわしの目は吸い込まわれそうだ。
【天正六年 山田大隅守信勝】
気付くか気付かないかは正直わからない。村重が優秀な奴だということはわかっている。
まあ、おれに二度も負けているわけだが。
片や高槻城主。片や田舎の家老。
出発点が違う。
義輝公以来の臣にして信長に気に入られたという理由だけで城を貰ったおれはやはり幸運だが、反面、村重は運が無かったのだろうか。
いや、そんな単純な理由ではないだろう。
目を凝らせばわからないこともあるが凝らしてもわからないこともある。
鳥取の櫓に立つ村重を見ながら、おれは思った。
「沼田殿からです」
「あいよ」
祐光からの書状にはもっと近づけと会った。
「はいはい」
おれはその旨を下知して馬を進めると今度は官兵衛の使者が来た。
「もっと城に近づかれるよう拝し奉り候」
「へへ、同じこと言われれますねえ」
助右衛門のバカが覗き見してにやにやしてやがる。
「うっせえ。この一兵卒」
おれはもっていた采で頭を殴り付ける。微妙な音がした。
中指がないせいでやはり力が入らない。
「まあ、うちの軍師の意見が一致した。進むぞ」
ふうと笑う。茨城殿も右近も軍師たちも櫛橋ら播磨衆も、前に出ている。前進している。
なにかにつけて一生懸命なやつらだ。
やはりこいつらしかいねえよな。
なあ、村重。
お前は自分を信用しすぎだ。お前は花隈で死ぬべきだったんだ。
それがお前の道だったらな。
お前が、荒木信濃守村重として力が出せるのは一族郎等のお陰だったはずだ。それをすべて失ってもお前が荒木信濃守村重たらしめれるとは思えない。
おれもこいつらがいなければ浮き上がるだろう。その場から。
まあ、見とけや。
【天正六年 荒木信濃守村重】
まだか。まだかまだかまだかまだかまだかまだか。山田まだか。
分岐はまだか。
その気配がまったくない。
「殿っ!敵、軒並み前進しております」
「ああ」
まさか、総攻め。いや、まさか。それはない。
どういうことだ。山田。
山田の顔を睨みつける。奴は笑いやがった。
それこそ、対陣して初めてのわしのように。
瞬間、脳裏に電流が走った。
策を持ったか……
確証は無かった。だが、何故か確信できた。
その刹那、背後で爆音が聞こえた。
急いで振り向く。
あれは雁金……
「申し上げます……」
ぼろぼろでふらつく伝令が膝をつく。
「尼子隊の攻撃を受け、雁金落城。ほかの支城の敗残兵も鳥取に向かっております」
尼子だと。尼子。山陰の覇王として一時は君臨した家。その神通力か。
いや、そもそも尼子という選択肢の発想がわしの頭の中には無かった。
力なく右手が下がるのを呆然と見つめる。耳奥でわっという哄笑が響いた。




