第126話 天海
【天正五年 随風】
朝靄は未だ冷ややかな雲に阻まれた太陽の光を浴びて、鈍くその存在感を誇示している。
ひたひたと供も連れず、歩きながらふと空を見上げる。
浜松に付けば、三河守に会い三郎公切腹を進言し覚悟を生ませる。
成功するか、失敗するかは正直なところわからない。
失敗すれば。失敗すればこの首が飛ぶだけだ。元々、なんでもなかったこの命、どうなっても知ったことではない。
しかし、忍のときでは持てなかった思いが今、こ
の胸を駆け巡っている。
一年間もの間、おれを世話してくれた三郎公、徳川次郎三郎信康をおれは殺すのか。
犬に過ぎなかったときではこんな感情は無かった。持ちようがなかった。
しかし、今のおれは何だ。
武士でもなくば、農民でもなければ勿論、貴族でもない。かといって僧でもない。
哀切。いや違う。
そんな感情、おれには無い。
ふと、頭の中に思い浮かばれた山田の馬印である金の唐傘と太陽の光が重なった。
死ね。
色々な感情を入り交じらせておれは唾を地面に吐いた。
灰になれよ。おれの手の中で。何もかもな。
「ククク……」
低く蠢くような哄笑が早朝の三河に響いた。
浜松とは、元は曳馬なるなんでもない田舎だったらしい。どれだけ土塊を弄くっても水が出なかったと聞く。
だが、今はどうだ。
三河守が府(都)を置き、武士を住まわしたからか。それに伴った商人などで栄えている様子を見せている。が、どこかいびつだ。なにか物を置いただけ、とも見える。
まあなんでもいいや。
足元の小石を蹴り飛ばした。
「そこの坊主さん」
「ん?」
呼ばれた方を振り替えると道端に露店を開いているおやじがいた。
「なんだ」
「見たところ、遠くからこられたようで」
「……まあな」
フンと鼻を鳴らす。
「どこからですかい」
「……岡崎三郎様からだ」
「岡崎ですかい。これまたご苦労で」
「まあな」
呟いて、並べられた品々を見る。上方とも遜色ない品揃えだ。
「浜松で露店とは珍しい」
「確かにそうですな。皆皆、安土に行きましたな。織田様のもとに」
「……姫路はどうかね」
ふと、あのものの本拠地が気になった。
「姫路?ああ。山田様ですかい。あの御方はなんでも納屋の呂宋殿と昵懇ですからね。付け入る隙もありゃしませんな」
「そうか」
なんの感想も抱けなかった。
「そのキセルを」
「へい」
銭を放って、キセルを口に加え、おれは背を向けた。
適当な宿に泊まり、大の字に寝転がる。
忍び込めるか、だ。仮に見つかっても三郎公より頂いた書簡がある。一応の名目は三河守のご機嫌伺いの使者ということになっている。
まあ、夜中に無言でだから怪しいことには代わりないが。
出立したおれは、浜松城の大手門の裏を見つけ、入る。番兵の視察を、壁に隠れながら過ごす。城の内部の灯りは番兵の持つ提灯だけだ。
天井から入るしかねえか。
そんなこと思い、一歩踏み出した右足によって板が軋む。
「なにやつっ」
しまった。灯りがこちらに続々と集まってくる。おれも腕が鈍ったか。
「怪しいものではございませぬ。これをご覧に」
おれは三郎公の花押が押されてある書を出した。
「こんな夜更けにござるか?」
訝しげな目を向けてくる。
「すいませぬ。これは三郎様ができるだけ秘匿せよ、と仰った件にござります故」
「ほう。若様がか」
「ええ」
「殿のご寝所はご存じですかな」
「はい」
頷いて、挨拶もそこそこに歩き出した。
実を言うと、姫路に忍びいって山田の寝首を掻くことを考えなかった訳ではない。
だが、だめだ。この有り様じゃあ。
三河守の寝所の前には不寝の番らしき小姓がいたが、どうやら分かっているらしく通してくれた。
入り、平伏する。
「面をあげい」
顔を少しあげると、頬がこけながら顔の丸さを保っている男がいた。
これが三河守家康か。
「三郎が如何した」
「……これは三郎様、ではなく某の一存で参りました」
「なに?」
声は平坦であったが、目が少し泳いだことをおれ見逃さなかった。
「三河をどう見なしますか」
「……治まっておると見えるが」
ほう。おれの質問にきちんと答えるか。
「ええ。しかし武家は三河様ではなく三郎様に忠義を誓っておるようでございまするよ」
「……なにか問題があるのか。岡崎を与え、わしは三郎を三河の旗頭としたのだ」
「これが安土に聞こえれば……」
今度は三河守の眉がピクリと動いた。
「どういうことだ」
「佐久間の一件のように譜代であっても追放の憂き目に合いますぞ。まして三河は」
そこで深く息を吸う。
「徳川の本領」
三河守の身体が少し前に折れる。
「徳川の本領にて、三河様より三郎様の方が忠義を集めておる今、安土大将が三郎様に家督を譲り、三河様に隠居しろ、と言ったらどうなさいますか」
「隠居する」
「ご冗談を」
大きく手を広げ、鼻息を出す。
「これまでの艱難辛苦は如何なさいますか」
「では、どうしろと言うのだ」
苛立ちが見える。
「簡単なことにございます。三郎様を」
思わず、唾が飲み込まれる。なんだ。
「三郎様を」
声が掠れる。今一、締まらねえ。
「三郎様を」
やっと言えた。
「切腹となさいませ」
部屋に冷ややかな風が流れた気がした。
「本気か」
心なしか、三河守の言葉に熱が籠っている。
「三郎様は野心を持ちすぎました。もう少し三河様への忠義を説かれればよかっただけの話」
「……赤備撃破の功労者ぞ」
「だからなんです」
「……」
両者とも、無言。
「三郎様を殺しても徳川は残ります。それに」
三河守の僅かに揺れる目をじっと見詰める。
「家が一つにならねば明智を越えられませぬぞ」
はっとした三河守の目を見た。
確かに、三河衆は三郎様を慕っている。だが、今ならば徳川当主の命として三郎公を殺せる。
三郎公では明智を越せない。だが三河守なら越せる可能性はある。
「貴様、名はなんと申す」
「……随風にございます」
「名を捨てよ」
それは自らが嫡男を捨てるからか、と喉まで出かかった。
「では名無しとなったおれはどうなりますか」
「……天海と名乗れ」
……天海か。手に文字を書きそれを飲み込んだ。
「横の部屋で寝ろ」
三河守の言葉に無言で頷いた。




