第125話 犠牲の
【天正五年 随風】
青空には白い雲が浮いていて、それはこんな負けに負けを重ねたおれをも惹き付ける。この空の風景は優雅で感傷的、だと思ってしまう。
三河岡崎に逗留してもう一年以上立つ。
きっかけは些細なものだった。
甲斐の真田安房のところに赴こうとした時、岡崎を通った時に騎馬の集団が目の前から来た。
べつにただそれだけであった。ただそれだけのはずなのに、その集団の先頭の若者は怒気を発した。おれに向かって。
「鷹狩りの前に坊主と会うのは不吉と聞く。殺せ」
……坊主。そういや、おれ坊主の格好していたなって、え。
こんなところで死ぬのは勘弁してもらいたいと、飛んでくる弓矢を避けながら、飛ぶように走った。
体が鈍ったといえどもおれは忍だった男。これぐらいなら避けれるはず。
まあ、それは結構しんどくて道もわからんのに走り続けたね。あんときのおれは。
でも、運が悪かったのか、はたまたよかったのか、おれの目の前にその集団があらわれた。
いよいよ終わりか。
神や仏は信じねえが、これもおれの悪事の応報。因果応報なのか。
いや、そんなことは関係ないね。ここでおれがすべきはどう切り抜けるかをない智恵振り絞って考えることだ。
「気に入ったぞ。僧」
「あ?」
その恵まれた体格を見せつけるように手を広げていた。
「わしに仕えぬか」
「……名を聞かせてもらいましょうかね?」
「ああ、これはすまぬ」
そう言って、若者は鋭い眼をおれに向けた。
「徳川次郎三郎だ」
……へえ。徳川次郎三郎信康か。赤備に正面突破を図った男。そしてそれを成功させた男。徳川家の嫡男。通称、岡崎三郎か。
松永にところで散々聞かされた情報と風聞はことのほか役立っている。
「仕える、と申されても三郎様の話し相手としかなりませぬが?」
「構わぬ。貴殿の名は」
「随風だ」
こんなふざけた出会いを果たしたおれだが、何も考えなしにやったことではない。
生理的に無理、と言える山田をぶち殺すには何も幕府を滅ぼさなくてもいい。出世競争の中で追い落とせばいいだけのことだ。殺さなくてもあいつが不幸になりゃそれでいいかもしれない。
山田の競争相手になり得るのは、同じ管領しかあり得ない。
「随風よ」
「なんです?」
「今日は空が青いな」
「……意外ですね」
「なにがだ?」
おれより年下の三郎公は驚いた顔をした。
「武人の三郎様でも風流を愛するのですね」
「こやつ。わしを粗忽と言いたいか」
「物はいいようですよ」
「ハハハ!言い寄るわ」
背中を叩かれる。身長がおれより大分大きい三郎公にとっては戯れに過ぎないかも知れないが、痛い。
だが、悪くはない。
なんだか、師匠を思い出す。
師匠は伊賀の土塊と成り果ててしまったが、それも忍らしい結末だったが、忍にしては陽気な人だった。
陽気な人はいいと思う。おれが忍なる身を嫌がり身を寄せた、荒木信濃、松永弾正はその無能さは置いとくとしよう。おれは寛大だからな。だが奴らは陰険だった。一人で酒を飲んでにやつくみたいな感じ。
三郎公はそれと比較すれば皆と酒を飲んで騒ぐ御方だ。好感がもてる。
……が、だめだ。
この御方では、山田を追い落とせない。
山田は運が強くて、根性もあってそれでいて苦境を凌いできた。
三郎公は武は際立つ。だがだめだ。それだけでは。
明智日向が筆頭管領と成った今、二番手争いを繰り広げることになる今こそが、激化する今こそが好機。ならばこそだ。
「何を難しい顔をしている?」
「いや、少し考え事を」
「ハハハ!」
もう一度、背中を叩かれた。
明智日向というのが如何なる男かは知らないが。それなりに高齢で、そして優秀であることはわかる。これを蹴落とすつもりでいかねば山田を追い落とせないだろう。
佐久間のように山田を倒したいのだ。
佐久間は故郷の尾張で公方の中将信忠の庇護のもと暮らしているという。すべてを失った哀れみを誘う。
だが、どうする。
奴を失脚させるには三郎公では不十分。だがなら三河守はどうだ。
果たして三河守がそこまでの野望を持っているのか。能力は申し分ない。三方ヶ原での敗戦を糧に、武田と渡り合い、臣従したとはいえ強大国の織田に事実上の独立国を認めさせている。
その政治力も武力もいいが、筆頭管領を狙っているのか。いないのか。
二番手争いで山田を出し抜くことができ、それでいておれを側におくやつなど三河守しかいない。
言い換えればどう覚悟させるか。
ふと、三郎公の横顔が目に入った。
三河守は三郎公を認めているという。それは三郎公を岡崎城主に任じ、三河の旗頭としていることからでもわかる。ならそれを利用するだけだ。
覚悟など、決心などは犠牲の上に成るもんだろ。違うか。そうだろ。
「三郎様」
「なんだ」
「浜松に赴いてもよろしいですか?」




