第119話 紀州に
【天正四年 織田右近衛大将信長】
「出ろ」
何百年の悠久の時、君臨してきた朝廷。これを滅ぼし天皇に取ってかわることにより、代々手出しができなかった不入の地、これの権益にも手が出せる。
「光秀はここに残れ」
全員を退出させるときに、光秀だけを呼び止めた。
場には光秀だけが残った。
「……光秀」
「はっ」
「うぬは何歳だ」
少しの間があった。
「四十八にございます」
光秀は淀みなく答え、頭を上げた。
「そうか。しかしうぬ……」
光秀のその右目をじっと見つめ、頬杖をやめ顔を起こす。
「少し老けて見えるな……」
「……」
光秀の視線がわれの顔から少し外れ、畳に目が向けられる。
「ハハ、左様ですかな」
そう言った光秀はいつもと変わりない笑みを浮かべていた。
「まことの大隅守を知っているか」
何故、われはこのようなことを言っているのか。それは自分自身、この光秀になにかを感じたからなのだろうか。
「恥ずかしながら存じ得ず」
「我が兄、織田大隅守信広のことよ」
数々の武功を挙げながら、安條守備を失敗し、人質交換の後、姿をいずこへと消した。
庶兄であったが、その武功は色褪せるものではなくもし兄が建材であれば必ず織田の柱石であっただろう。
「しかし、大隅守と言われれば山田殿を思い浮かべますな」
「あやつはようやってる。無論、貴様もだが」
「……ありがたきお言葉」
再び、頬杖を突き光秀の顔を見詰める。
「不入の地、本願寺、紀州のうち紀州を落とす」
「はっ」
室町は愚か、遠き鎌倉でさえ手出しができなかった自治の国紀州と本願寺。その決着をつけ皇帝への一歩とせん。
「われが指揮をとる」
「右大将様ご直々に?」
「驚いておるのか?」
戯れに鼻を鳴らしながら、光秀に聞いてみた。
「まさか、右大将様らしきご決断かと」
「ふん」
クルリと背を向ける。
「長秀が戻り次第、紀州に押し寄せ雑賀を磨り潰す」
「御意」
光秀の正体などどうでもいい。わが天下の為なら何もかもは催事に過ぎぬ。
【天正四年
雑賀孫一】
「頭領、安土で大きな動きが」
「……そうかぁ」
頼みの軍神は死んだ。神のくせに。西の毛利は山田なんとかに抑え込まれたらしいし。
しかも信長も本気らしいな。こんな紀州に自ら出陣とは。
紀州は大きくわけて五個荘。このうち三個荘は寝返る気がする。
「どうしたものかねえ……」
さて、考えても仕方ねえし木登りでもおっ始めるか。
「イテ!」
頭になにか硬い、硬い固形物が当たり、およそ人間の頭からは生み出されないような音が出てきた。したを見ると、石が落ちている。が、そんなことよりこの石を投げ愉快におれの頭で楽器を演奏したやつを見るべきだ。
「りんか……」
予想はしていた。だからこそだからこそ、なんだか拍子抜けする。
「んだよ」
あっかんべーをする。そしたら頬をつねられた。
「いてて」
「ねえちょっと。わかってるの?敵は六万よ。それに安土大将自らの出陣よ」
「安土大将?」
なんだそれは。
「信長のことよ!」
なんだ。そうか。いや、さっき六万って言ったな。
「六万?本当か」
「ええ。持てるだけの軍勢ね」
四方を敵に囲まれている織田にとって六万の数字はばかでかい。現状の信長の持てるだけの兵力と見て、間違いない。
へえ。
一度、織田を打ち負かし森を討ち取ったがそんな敗戦も坂祝での圧勝、不識庵の死亡などによってかきけされた。
それで本気なのか、それとも……
信長はおれなんかでは思いもよらないことを考えているのだろう。
「たぶん、勝てないよ」
そう言うと、りんは唖然とした顔を浮かべた。
「え……あんた、諦める気?」
「でもね、負けないことはできるよ」
土豪には土豪の世界があって、戦い方があるんだよ。ええと、なんだっけ?
「信長の別名ってなんだったっけ?」
「……安土大将よ」
そう。こいや。安土大将。
【天正四年
筒井陽舜房順慶】
「これは明智様、御自ら……」
筒井城にやってきたのは寄親の明智様だ。ただの寄親というわけではない。わが後見人として筒井城の築城の手伝い、検地、豪族の取り纏めなどをやってもらった。明智様には頭があがらない。
「隣国の紀州は如何に?」
「まだ何もつかんでおりませぬ」
坊主頭を床につくぐらいまで下げる。
「いえ、それも仕方なきことです。雑賀党は正体がなき故、どうぞ頭をおあげくだされ」
「ははあ」
しかしに何か違和感があった。なんであろう。明智様を見ていると次第に浮かんできた。正体がなき。それは明智様のことではないか。後見人とは言えその素性は知れず、何者かはわからない。
「奮戦いたしまする」
わしはこんなくぐもった思いを打ち消した。紀州は隣国だ。恐らくわしが先鋒であろう。
「筒井殿は私の組下に入っていただきます」
「はっ」
有無を言わさぬ圧力があった。
「となれば、明智様がご先鋒で……?」
「ええ」
そう言って、明智様は頷いた。




