第115話 知将
【天正四年 織田右近衛大将信長】
「不識庵が逝った」
北陸の修理からの書状を眺め、それを口に出した。
場が静寂に包まれるが、やがて家臣が喚声、雄叫びをあげた。
もはや、この乱世においてわれに死をもたらさんとせしものは外にはいない。
むしろ。
内のつわもの共らのほうが脅威だ。
従えるほかあるまい。どんな手段を使おうと。
【天正四年
山田大隅守信勝】
不識庵謙信、死亡と宇喜多和泉守の備前、美作掌握。天秤が揺れるように戦況が幕府有利となっていく。
「殿、尼子一党が……」
「なにっ」
まさか、生きていたのか。使者の話は最後まで聞いなかった。でもなんだかそんな気がする。
「通してくれっ」
「は、はっ」
泥だらけの青年が入ってきた。おれの目が大きく大きくこれでもかというぐらい見開かれる。それも自然に。
間違いなかった。おれの頭の中では既に首となっていた尼子孫三郎殿だった。
「尼子殿!」
その疲れきった手を握った。
「尼子がため、死んでいった者共らの為生きる覚悟、ようやくできました」
「ありがとう。ありがとう」
礼の言葉しかでなかった。
「おれは本当に運がいい」
目をきつく瞑って、吐き出すように言葉を紡いだ。
ぼろぼろの尼子殿をひとまず、姫路に帰し野口城攻めを開始した。さすが、播磨有数の堅城と名高い野口城だ。攻めあぐねている。だが、八倍にもなる兵力を前線で叱咤し続け、この城を三日で落とした。
「よくやってくれた」
この野口から物資が回されていた。なら、大量の物資があるはずだ。
「殿、武器、兵糧、見当たりませぬ」
「……なに。兵が持ち逃げしたか」
それとも、焼け落ちたのか。いずれにしても判断がつかない。
「検分したところ、焼け落ちたるところもなく、残りし兵糧、武器、微々たるほどにございます」
「なに」
なぜ兵糧、武器がない。売ったなら銭となってるはずだ。
「考えられることは一つしかありませぬ」
おれは無言で官兵衛を見詰め、言葉の続きを促した。
「輸送を行っていたのは、淡河弾正。そして我等を野口攻めに仕向けたのも淡河弾正……」
一杯食わされた。淡河の知将という評価は聞いていた。ただ、油断していた。天下の大戦に参戦していたおれたちを欺きやがった。
「ひとまず、姫路に帰り準備をする」
そう言って、馬首を翻し苛立ちをごまかすかのように地面に勢いよく唾を吐いた。
思い通りに行かぬことが多い。これ以上四国を開けられない秀吉が帰った。これは仕方がない。だが、おれらと不可侵同盟を結んでいた山名だがこれが露見し、家臣に追放。こいつらが攻めかかってくる可能性があるので、但馬の祐光を戻した。それに、浦上を倒し見事、備前、美作の大名になった宇喜多和泉守直家こと、人の皮を被った化け狐からもなんの便りもない。
そして、淡河の兵力は四千。おれらが転戦している間に別所の兵、僧兵を集めやがった。
だが、もうこの播磨でおれに、山田家に逆らうものは別所春王丸を担ぐ淡河弾正だけだ。
「山田様」
「なんだ」
皆が居並ぶなかで、官兵衛がじっとこちらに視線を向けた。
「決められませ」
おれの決断を促したのか、それとも次の一戦で播磨平定を成し遂げろと言っているのか。どちらにせよこの声には答えなきゃいけない。
「すべての播磨の土豪に動員をかけろ。参陣しなければ滅ぼすと伝えろ」
摂津兵と播磨兵、合わせて二万。いける。
「いくぞ!えいえい!」
「おう!!」
声のシャワーを浴びるとなんだかスカッとする。いつまでも浴びていたい。そんな気もする。
【天正四年
淡河弾正忠定範】
山田軍、二万か。ふむ。さすが大名家は違うな。春風が舞う窓の外を向き、溜め息とも感嘆ともとれない息を吐いた。
策はある。そしてやっとわしがこの愚にもつかない生涯の輝きを発揮することも決めた。
三日月よ。貴殿は今どこでぶら下がっている。
いこうか。
立ち上がったそのとき、ふいに袴の裾を掴まれた。
「……やはり貴方か」
短い手で、力一杯、裾を握り締め首を曲げている春王丸様に今度は、明らかな溜め息をつく。
「離してくだされ」
「うう」
何を考えているのか。てんでわからぬ。人の気持ちを思えるわしでもだ。
「武士などつらいだけにございますぞ」
ふと、裾を掴む手が緩んだ。
「農民ともなり、平穏に過ごされませ。いずれ」
「う!」
右手を思いっきり突き上げている。
ほんとうに意味をわかっているのか。
この年齢となり多くなった苦笑いを浮かべ、部屋を退出し何故かわしも右手を突き上げた。
また苦笑いが増えた。
更新が遅れ、申し上げありません。今回は難産でした。
長かった播磨平定ももうすぐ終わります。




