第113話 七難八苦
【天正四年 山田大隅守信勝】
おれは戦国大名だ。それも織田系の大名として天下に知らないものがないくらい有名の。
戦績も申し分ない。数々の合戦を戦い、負けたのは二度だけ。その二度の相手は武田信玄と上杉謙信という化け物二人だ。そのほかでは、一戦で今川家を滅亡させ、別所小三郎の首をとり、荒木信濃のすべてを奪い去った。
そんなきらびやかな戦績に彩られたおれは一戦もせずに負ける。
おれというか、織田を頼ってやってきて、そしておれが山陰山陽方面軍司令官になるために寄騎にした尼子一党を見捨てなくてはならない。
春の風は心地よくてこんなおれの存在なんて、ちっぽけだと感じさせる。
池田山にでも寄るか。
時間がないのはわかっている。でもお犬様に会いたい。別に深い理由はなくて、ただなんとなく。
「よっ」
そろりと忍び足で、それでいてお犬様の部屋のふすまを思いっきり開けた。
「の、信勝様!?」
「朝食を食ってないんだ。用意してくれる?」
「あ、はい!」
跳び跳ねたとしか言えないスピードで立ち上がった。
お犬様が台所役人に言ったのだろう。すぐに、白米と、野菜、味噌汁が出てきた。まず味噌汁を啜る。
「尼子殿を覚えているか?」
「ええ」
「そうか」
きう言って、白米を掻き込んだ。
「あいつはとてもいいやつだ」
尼子家再興を願う家臣の熱意に応えようといつもしていた。
「信勝様」
「ん?」
お犬は、おれの近くに膝を進め、手を握った。
「ちょ……」
なぜかこんな、なんでもないような行動に照れてしまう。
「大丈夫です。みんながついていますよ」
ひまわりのような、日に向かうような満面の笑顔がおれの視界を覆った。
「そ、そうだな」
お犬様は美人だから好きなのではない。もっと別の理由がある。言葉にするのはむずかしいが。こんな嫁がいて本当によかった。
朝飯を食ったおれは馬を走らせた。日は頭上で輝き、おれの無念さも悔恨もなにも知らないようだった。
「ここを退く。野口を攻めるぞ」
「見捨てるのか……尼子殿を」
慶次がその肩を怒らして、一歩前に出てきた。
「そうだ」
敢えて、敢えて、無感情さを演出する。なんか、その方がいい気がしてきた。
「正気か!?尼子を見捨てんのか!?」
「そうだ」
「ああ、わかったよ」
慶次は、槍を担ぎ外に出ようと大股で歩き始めた。
「止まれ。なにをするつもりだ」
つとめて、表情を変えずに冷静に言った。そのつもりだ。
「決まってんだろ。おれ一人で備中の首を取るんだよ」
本当に突っ込んでいくつもりだ。長い付き合い、瞬時にそれがわかった。止めなければ。腰を浮かしかけたところ、おれの斜め左前の男が素早く動き、慶次の前に躍り出て、頬に強烈なビンタをかました。
そう、祐光だ。
乾いた音が鳴り響き終わったところ、大声で祐光はわめいた。
「おのれ!つらいのが貴様だけとでも思ったか!?違う!違う!それすらわからぬかぁ!」
祐光は勢いよく慶次をうつ伏せに倒し、兜を放り、その総髪を鷲掴みにした。
「うるせえ!おれだってわかってんだよ!だけどいかなきゃなんねえだろが!」
「まだわからぬかぁ!」
そうだな。誰だってつらいし、やるせないな。そう思うと情けなくて、なんだかちっぽけで、涙すら出てこない。
「やめろ」
おれは鞘にいれたままの刀を床に叩きつけた。
「戻るぞ。わかってんだろ?」
後ろに続くはずの言葉は省略した。いや、言えなかった。
【天正四年
尼子孫三郎勝久】
山田、羽柴軍が退いたか。ここも終わりか。
「鹿之助、酒宴を開くぞ」
いよいよ最後となっては、やはりこやつらと酒を飲み交わしたい。
「お言葉ながら、申し上げたき儀がございます」
なんだ。まさか鹿之助、いまだここまでの窮地にありながら諦めておらぬとでも言うつもりか。
「明日の早朝、城を捨てなされ。われらが人柱となり申す」
「な……」
開いた口がふさがらぬとはこのことであろうか。
「了見つきませぬか。殿が馬廻り衆をひきい城より脱出。われらが毛利、浦上に攻めかかり時を稼ぐゆえ。殿は姫路まで走りなされ」
「愚か者か。壁に囲まれておるわ」
「御運尽き果てなければ馬をもって飛び越えまする」
バカな。何を言っているのだ。
「お主らをおいて、逃げることなどできぬ」
泥水を啜るようにして、なんとかここまでこれたのは、尼子を信じてきたこやつらの働きに依るところが大きい。それを見捨てるなどできぬ。
「恐れながら、ご神妙に」
そう言った。鹿之助は立ち上がり、ここまで歩み寄ると同時に、拳でわしの頬を思いっきり打ち抜いた。
「ーつっ」
後ろの壁に思いっきりからだを叩きつけられ、頬の痛みと同時に背中にも激痛が走る。
「なんだ……」
僧であったこの身には、ちと重い。なんとか身を起こし瞑らせた瞼を開ける。
「殿、七難八苦の誓いをお忘れか」
主君を殴るということをしたのに、鹿之助は静かな口調だった。
立っていたまさしく武人の面をしていた鹿之助は座り、このものにしては柔和な顔をした。
「七難八苦どころの騒ぎでもないわ……そちらを見捨てるなど」
胸を剃らす。
「上に立つものになればなるほど苦難の数をも増えましょう」
「しかし……」
それもこれも話が違う。そこまでしてわしは生きる価値があるのであろうか。いや、ない。
「頷きなされませ」
「できない」
「ならここで腹を切りますぞ」
鹿之助は当たり前だといわんばかりに脇差しを抜き、腹にあてようとした。
「まま、まて」
すんでのところで止める。
「教えてくれ。なぜそこまでする」
「そうですな」
一瞬、目を伏せた鹿之助はすぐに顔をあげた。
「一国一城の主になるより、こんな生き方が好きなのでありましょうな」
鹿之助は輝いていた。その輝きを目の前にすれば、頷くしかなかった。
「しかと受け止めた。そちの覚悟。他のみなもか」
いつの間にか部屋に集合していた家臣に問い掛ける。
その答えは無言の平伏で見せてくれた。
「さあ、今夜は飲もうぞ。のう」
「はっ」
騒ぎ、唄い、吟じ、そして泣いた。
城の窓より外を見ると、朝霧に朝靄が二重三重にかかっていた。
「それでは、いつか会おう」
「はっ」
朝靄と朝靄のかかり会う部分は重厚さを感じさせる。
「いくぞっ」
朝に似つかわしくない大声と共に、勢いよく中に突っ込み、突っ切った。そこには青色の空が広がっていた。




