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065、ちょっと好みだったから

挿絵(By みてみん)

 凍上は今、自分がどこにいて何をしているのか思い出せなくなる時があった。解らないのは、なぜ、亜希が死んだのかということだ。完全数だったからだとか、敦人による奇襲、新種のウィルスによってだとか、理屈立った説明が欲しいのではない。あの子はまだ若かった。若過ぎる。まだ、これからの命が、無惨に散った。香澄に亜希の死を知らされた時、凍上は最初、嘘だろうかと疑った。しかし彼の恋人は嘘を言うような性格ではないし、ましてやそんな不謹慎な嘘は彼女の口から出よう筈もなかった。だから、真実なのだと知り、彼女と共に、亜希の家に駆け付けた。そこにはぽつんとπが立っていた。

 

「どうしてなの亜希、嫌よ、亜希、こんなの、こんなのおおおおおおお」


 πの金髪と白いコート、朱塗りの鞘に加えて紫の瞳が場違いで、やっぱりこれは何かの冗談なのではないかと凍上は思う。しかし耳に鳴り響く亜希の母親の号泣。

 人が死んだらどうするんだっけな、と凍上は頭に思い浮かべた。ええと、確か納棺、通夜、葬儀、告別式、火葬、そして遺骨安置。そこまで考えて凍上はそんな時でも模範解答を出そうとする自分を嗤った。亜希の死は病死でも事故死でもない。当然、警察が介入してくるところだが、既に数学統監府が素早く手を回して不干渉を通告した。その容易に想像出来る様子は、凍上に平安時代に私欲を貪った荘園領主を思い起こさせた。香澄は黒いワンピースを着て、白い真珠のネックレスを着け、不謹慎だが凍上はとても綺麗だと思った。亜希も、こんな女性になると誰もが信じていただろう。亜希の家の玄関は解放されていて、少し離れたところから近所の人々が何事かと顔を出している。そして亜希の母に抱かれた亜希が、もうこの世の人ではないのを見て取ってぎょっとする。亜希の顔は綺麗だった生前と同じく、綺麗で、唇には笑みすら湛えていた。握り締めた拳に強く力が入る。敦人というより、亜希の死そのものへの怒りを凍上は覚えていた。


「数美ちゃんよ、あの子が殺したのよ! あの子にさえ関わらなければ。どうしてあの子が生きてうちの子が死んでいるの!!」

「母さん、やめなさい」

「返してよ、亜希を返してよおおおおおおおおおお」


 聴くに堪えない言葉の連なり……。まるで黒真珠のネックレスだ。πが身動きして、香澄が駆けて行った。香澄はπに何事か言って、亜希の母を抱き締めた。亜希の母は最初はぎょっとしてもがいていたが、やがて大人しくなり、号泣は啜り泣きに変わった。気づくと日はとうに暮れ、葬儀社と統監府の人間がいる飛鳥井家に、凍上も当然のように居座っていた。統監府に人間に知り得ることを話し、それとなく香澄との関わりははぐらかした。πはその頃には消えていた。香澄は涙ぐんだ目でずっと亜希の母についていた。


 そして気づくと凍上は焼香をしていた。まるで時間がうねり狂ったように、足元の感覚が覚束ない。自分はどうやってここまで来たのだったか。亜希。そうだ、亜希だ。彼女の顔を一目見ようとして。香澄が、亜希が死んだなどというおかしなことを言うから。

 そこで凍上は首を振る。白菊の香りが鼻を突く。


 亜希は死んだ。


 その事実が改めて重石のようにのしかかる。

 凍上は次の参列者に場所を譲って席に戻った。僧侶の唱える念仏が頭にわんわんとして響き渡る。


(煩い)


 少し静かにしてくれと言いそうになる。彼女は確かに陽気で明るい少女だったが、こんな抹香臭い賑やかさを好む子ではなかった。

 凍上は香澄の心配する視線を感じながらそっと廊下に出た。廊下は薄暗く、無人だった。凍上と、〝彼女〟が現れるまでは。


「凍上さん」


 その声を聴いて、顔を見て、いつ眠ったのかと思う。なぜならこれは夢だろうから。死んだ亜希が二本足で立ち、笑みを浮かべているなど。


「飛鳥井さん……?」

「それ以外に見える? ほらほら、脚だってあるわよ」

「君は死んだんじゃ……」

「うん。だから今の私は残り香のようなもの。いずれ消えるわ」

「戻ってきてくれないか」

「なぜ?」

「たくさんの人が悲しんでいる。君のお母さんなんか半狂乱だ」


 亜希は少し寂しそうに笑った。


「そうね。親不孝しちゃった。……いずれ。いずれかの未来、こことあちらとの境界が溶けてそうなる日も来るかもしれない。けれど私がその時に選別されるかは解らない。そんな日は来ないかもしれない」

「どうして君は俺の前に現れたんだ?」

「ちょっと好みだったから」


 亜希がくすりと笑いを零した。

 次の瞬間、凍上の背後から声が掛かった。


「凍上? お前、誰と喋ってんだ?」


 車椅子姿の青鎬だ。きちんと喪服を着ている。


「誰って……」


 振り向くと、薄暗い廊下を先程まで華やがせていた少女の姿はもうどこにもない。只、小さな石のような物で作られたブレスレットが落ちていたのを拾い上げてポケットに入れる。


「なんだあ、幽霊でも見たような面して」

「…………青鎬さん、来られたんですね」

「おうよ。飛鳥井の嬢ちゃんの葬儀とあっちゃあな。……残念だったな。まだ若かったのによ。お前より俺よりうんと若かった。わけえ奴は死んじゃいけねえんだよ」


 青鎬の無念の滲む声と僧侶の念仏が聴こえる。凍上には、何が現実で何が非現実なのか判らなくなりかけていた。


「席に着きましょうか。押しますよ」

「おう。悪いな」


 青鎬の車椅子が収まる場所を見つけて移動させ、自分もその隣に座る。翡翠の数珠を持った右手。そして左手の平を見た時、凍上は心臓を掴まれたような気がした。

 そこにはサインペンのようなものでこう書かれていた。


 0は存在する。


 どくどくどくと心臓が暴れ出す。いつだ。さっきだ。さっきしかない。亜希のダイイングメッセージ。そう言えるかどうかは解らないが。彼女が伝えたかったこと。0は存在する。どこに? 数字は1から999までしかない。番号持ちは、999人しかいない。そう、思い込んでいた。けれど。

 室内は緩く冷房が効いている。だが、凍上のこめかみからは一筋の汗が流れた。



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