058、恐らく彼女の今までの人生の中で最も美しく
暗闇の中、カレンの少女めいた声が響く。
「私の名は滲理カレン。96の番号持ち。斗支夜は私の初めてのお友達。死なせない」
真の闇は人に原初の恐怖を思い起こさせる。
敦人とて例外ではない。どこからか聴こえる声のもとを辿ろうと、必死に耳を澄ますが、その音源は解らない。しかしそれは斗支夜も凍上も同じだった。
「肉よ、肉よ」
これは数美の声だ。肉を召喚するか、対象者の肉を切り裂く。今回の場合は後者だろう。そう判断する程度の理性は敦人にはあった。この肝の太さでここまでのし上がってきたのだ。思った通り、腹部をざっくりとやられる。容赦ない。声は聴こえないが亜希の存在が影響しているのかもしれない。
この間にもカレンは動いていた。俊敏な小動物のように。彼女はこの暗闇の創始者。数美と亜希に闇の中での〝眼〟を与えたように、凍上と斗支夜にも彼らに軽く触れることでこの暗闇の中を見透かすことが可能なようにした。それから、ふっと跳んで敦人の首に蹴りを入れる。利き脚とは逆の脚。このほうが体重が乗る。より効果的な攻撃が出来る。そして最も注意すべきはすぐに退くこと。足首を掴まれれば命取りだ。カレンはしっかり重みのある蹴りを放つとすぐに俊敏な動作で敦人から距離を取った。
事態が把握できないまでも敦人を守ろうとする秋子には数美と亜希が対応した。
「刀かあ。最近、小太刀使ってないのよね」
亜希がぼやく。彼女は普段はそんな素振りを少しも見せないが、小太刀の遣い手だ。しかも滅法、強い。得物も使える完全数が、淑やかな少女の姿で立っている。闇から小太刀を引き出す。黒漆は敦人と同じ。螺鈿細工の花鳥が施されているのが華やかだ。秋子も気配を察したようで抜刀する。
が、遅い。
亜希が秋子の肩を斬りつけると、同時に〝逆の肩〟からも血が吹いた。数美の、詠唱なしに肉を斬りつける異能だ。
斗支夜はカレンの、今まで見たことのない顔を見ていた。正直、驚愕していた。そして同時になぜだか悲しかった。カレンが、戦う道を選び生きてきたことが。今は手負いの自分と凍上が下手に動くと足手まといになる。ゆえに、カレンと敦人の二人から少し距離を置いて、けれど万一の時には手出し出来るように、構えていた。実は斗支夜のこの特殊な拳法の構えも常人がすれば構えているだけでひどく消耗するのだが、斗支夜の場合はその域をとうに過ぎ、長時間でも悠々、保つことが出来た。
「黒の8、作動」
カレンが呟くと、敦人の触覚が、〝闇となった〟。
カレンは96の事象を黒くすることが出来る。それは感覚においても同じだった。ぐらりと傾ぐ敦人を、こちらはまだ失われていない感覚で駆け付けた秋子が支える。だが両肩のダメージは深く、支え切れずに膝をつく。
突如、大きく聴こえた咆哮は、視界が効かず恐慌状態に、そしてより攻撃的になっていた龍のものだった。よろめきながら、凍上が龍に歩み寄る。大きな肢体をくねらせながら暴れる龍にそっと触れる。
「もう良いんだ。もう眠れ」
その眠りは永眠。二度と目覚めぬ漆黒の闇。
凍上は異能で龍の体内の液体を全てマイナス15度とした。龍は猛り狂った姿のまま、ピクリとも動かなくなった。
秋子は必死だった。
あってはならないことだが、このままでは敦人が死んでしまう。戦況は頗る悪い。
そして秋子はこの情勢を打開する方法を一つだけ知っていた。彼女はπのように結界術に秀でていないが、それでも命と引き換えにしてならば、この強化結界を脱する方法を知っていた。秋子に迷いはなかった。
敦人の身を抱き締め、自分の頸動脈に刃をあてる。
「待て……っ」
はっとして叫んだ声はいくつか重なり、どれが誰の声だか解らなかった。
秋子は美しく、恐らく彼女の今までの人生の中で最も美しく微笑んで、刃を横に引いた。凄まじい血の滝。これは秋子の家に伝わる秘伝だった。命と引き換えに数秒だけ結界の主となる方法。敦人を脱出させる唯一の道。
敦人はぐったりと秋子に身を委ねている。彼の足元にはクリームソーダが入っていたグラスの硝子片がきらきらと散らばり、真紅を帯びていた。
「π! お願い!」
カレンの声をπは確かに聴いた。彼は彼で、これまでの成り行きを固唾を呑んで見守っていたのだ。そして乞われるまま結界術を操る。
πの家のリビングに、数美、亜希、カレン、斗支夜、凍上の五人が現れた。ほぼ無傷の少女たちと異なり、男二人は満身創痍だ。だが有栖の元に送る程ではない、とπは見て取った。
「お帰り、カレン。やあ、数美、亜希。そしてそこのお兄さん二人は……yにお願いするかな」
「ここにいるよ」
紫髪のyが白ワインを呷りながら緩く挙手する。
「見返りはカラスミでいい」
「たっかー……。Ω、よろしくね」
「お前、しがないライターに何て無茶ぶりを」
余り時間はない。斗支夜と凍上は軽傷ではないし、リビングの絨毯は血の花がそこかしこに咲いている。yはそれまでのぞんざいな動作とは異なる繊細な手つきで光の網を編み上げ、ちらちら光るそれを斗支夜と凍上の傷口に置いて行った。途端に傷口の痛みがすうと溶けていく感触を二人は覚えた。
「こんなとこかな。そっちのおにーさんの左肩は、あたしの手には負えない。有栖せんせか、病院に行くんだね」
πは一考した後、有栖の元に凍上を送ることに決めた。それでなくとも最近は青鎬のような明らかに刀傷と判る重傷者のせいで、病院側からは煙たがられている。警察への事情説明も統監府の鶴の一声でねじ伏せているらしい。有栖ならばそうした些事を追求しない。
「俺は凍上さんを有栖さんのところに送るよ」
「僕も行く」
「うん。数美は怪我してないよね?」
「大丈夫よ。私が守ったから」
亜希のこの言葉に、πはく、と嫉妬したが、二の舞になってはいけないと堪えた。それに不謹慎だが、凍上がいても、数美と一緒にいられることが嬉しかった。さっきのような、冷や汗の出る一幕を見たあとだけに尚更に。
斗支夜は客間に布団を敷かれて寝かされた。カレンが甲斐甲斐しく世話をしている。
暖房が効いてきたところで、カレンはふう、と息を吐いて斗支夜の横にちょこんと座った。篠蛾敦人を震撼させたとは思えない、子供のような無防備さだ。
「……カレン」
「うん。怪我は痛くない?」
「だいぶ良い。お前を騙す積りはなかった」
「うん。知ってるよ。知ってる」
「そしてここまで来ても俺は〝俺たち〟の素性を明らかにすることは出来ない。観察者、としか」
「難しいお話はπたちとして。今は眠って」
カレンが斗支夜の両瞼に手のひらを乗せると、斗支夜は大人しく目を閉じた。それでも完全に気を抜いてはいないことが気配から感じられる。それを少しだけ悲しく思いながら、けれど斗支夜はそんな生き方をしてきたのだろうと自分を納得させ、何か温かいものでも作ろうと腰を上げた。
友情出演:黒猫の住む図書館さん、堅洲斗支夜さん




