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剣劇魔王の竜祭儀(ドラマツルギ)  作者: LOVE坂 ひむな
祈られた神々の救済
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魔王の懐刀

 幼い姫はえらかった。えらかったので、泣かなかった。


 鋸の刃が左の角に噛み付いたときも、泣かなかった。鋸を引く音が繰り返し頭蓋に反響しても、泣かなかった。

 刃先が左の角にすっかり埋まったときも泣かなかったし、左の角の半ばにあたる最も太い箇所を通過したときも、爪ほどの厚みを残すばかりとなったときも、切断し終えて離れたときも、一瞬遅れて喪失を感じ取ったときも、泣かなかった。

 鋸の刃が右の角に噛み付いたときも、引き進めた間も、切断し終えて離れたときも泣かなかった。両方の角をすっかり失ったことに気づいたときだって、泣かなかった。


 それを、かれは最も近くで見ていた。


「思い出したか、わが懐刀」


 少女は言った。

 光はなく、闇はなかった。ここは迷宮である。

 大剣使いの想いは依り代との一体性を失い、消えつつあった。

 消えゆく中、かつての主が引き留めた。

 その一本の鋸を受け取ったとき、大剣使いは思い出した。


「そう、でした。己はもともと、生きるに値しない、のでした」


 かれが鋸を握った。かれが角に刃を入れた。かれが鋸を引いた。

 魔王の角を切った、執行人であったことを思い出した。


 かれにとって、家門は違えど、幼い頃から交流のある小さな姫様だった。北方の部族連合で内輪揉めを防ぐため、人質を兼ねて子女を交流させていたのだ。

 南方の部族連合、のちの帝国は、その理由で、角を折り取らせる者にかれを選んだ。敵のうちに不和を生じさせる効果を狙ってのものだ。


〈魔王の懐刀〉は、強力な熱意をもって主を守る戦士だった。

 同時に、自分がその地位にあることに著しい負い目と苦しみを覚える罪人だった。


 少女は王として立ったとき、死を選ぼうとした大剣使いに、生きることを命じた。

 誰が死んでいいと言った。お前が敵たちに命じられて発生した結果は、避けられないことではないか。お前が拒否したからといって、別の人間がやるだけだ。お前は非難に値しない。


 王は咎めなかった。かれは自身を咎めた。仕方がないわけがない。王の角を折り取って、何もなしで済まされていいわけがない。

 何度申し出ても、「では務めに励め」といった返答しかなかった。


 戦士としてよく戦った。自身を顧みず戦った。すすんで自分を粗末に扱った。そうしなければ気が済まなかった。

 人が嫌うような卑しい人格を演じた。

 演じたというのは正確ではない。もともとかれは、王の尊厳を傷つけておいてのうのうと生きていられる人でなしだった。そうでなければならなかった。素の卑しさをさらけ出した。


「お前はわたしを享受したかったのだったな」


 魔王は大剣使いに言った。

 ここでいう享受とは性交渉を持つことを意味する。大剣使いはそうした揶揄を王に向けることがあった。


「はい。己は卑しい人間です」


「では、独占したいとは思ったか? わたしがお前だけを何かと特別扱いするとしたら、それは、お前にとって甘い夢といえたか?

 お前が命を懸けてわたしを守ったあと、わたしがお前以外を頼りにするとしたら、それは、お前にとって苦い夢といえたか?」


 大剣使いは沈黙した。

 沈黙が、答えだった。

 魔王は告げた。


「よい。ならば、もはや、わたしはお前を配下としない」


「はい。たいへんお世話になりました」


 魔王は付け加えた。


「先の問いに、お前が沈黙したことを、わたしは喜んでいるぞ」


 羞恥ゆえか。意地ゆえか。気遣いか。大剣使いは、あえて答えることを選ばなかった。そこだけは譲れなかった。依り代の言動とは異なることになる。


「お前を信じてよかった。美しや。明言も沈黙も同じ意味だとして、お前が形式を重んじたことを、わたしは尊ぶ。お前を信じて本当によかった。

 お別れね。〈魔王の懐刀〉よ。最も強い言葉でお前を追放(しゅくふく)する。どこへでも行くがいい」


 そして、〈魔王の懐刀〉は、魔王の配下ではなくなった。

 かれはぽつりと呟いた。


「ぼくがさいしょに好きだったんだ」


 かれは、もう一つの小さな呟きを、聞き取らなかった。


「さいごに泣いたのはわたしなんだから」




 気づくと大剣使いは、もとの階層にいた。

 高い窓から光が差し込む。反射光が床を照らす。ここは迷宮、無形魔王城である。


 大剣使いは、自身の手にある刃物を見た。

 なかば意思なく手が動いて、鋸を持ち上げた。


「もともと、生きるに値しないんだった」


 かれは鋸を首に当てる。なかば意思なく手が動く。

 太い血管に押し当てた刃が、それを切り破る。激しい出血が始まる。自分には人畜らしい血が流れていたことを思い出させる。

 そうして、罪人は死んでゆく。



「〈未来視〉を終了する。魔力点を五ポイント支払う」


 それが、魔法の完成だった。


 かれは鋸を首に当てる。それを、別の手が引き離した。


「え」


「本当に、どいつもこいつも」


 亜竜人ヴィクロム・インヴィットは、目の前で起ころうとする死を予見し、止めた。

 罪人は無傷だった。


「なぜだ」


「未来視のことか? 考えて編み出した。こういうときのためにな」


 亜竜人は、ズレた答えを返した。


「そんなことは尋ねていない」


「ああ。消費した魔力点か? 意外なことが起こるならたくさん必要なんだ」


「そうじゃない。なぜ(オレ)を助けたんだ」


「死にそうだったじゃあないか」


 きわめて単純な答えだった。


「あの方は未来視を嫌っていた。次はないと脅されていたんじゃあないのか」


 自分に対して未来視など使うな、と魔王は言った。

 もはや大剣使いは魔王の権限が及ぶ範囲にないため、亜竜人ヴィクロムは懲罰を免れた。その事実は、ヴィクロムの知るところではなかったはずだ。

 未来視を使うのにためらわないのはおかしい。


「使わないとあなたが死にそうだったからな」


 かっこいいこと言うにゃ、と猫の人ミランディが感心した。


「己は、どうすればいいんだ」


「知らねえよ。市に住むとか? 頼ればどこかの教団が飯は食わせてくれるだろ。働きたくなったら、なんか鉱石屋とか出版所でも紹介してやるよ」


「けっこう関知する姿勢にゃ」


「己は生きていていいのか」


「一般論として、ある人に生きる価値がないことになるとしたら、それは価値基準の方が間違っていることが多いと思う。

 いいんじゃあないかな」


 こうして、〈魔王の懐刀〉は、再び樹上都市に暮らすことになった。




「ウラギリスは儀礼を論じたのですか、我が王」


 石や苔が光を放ち、広間を幽かに照らす。

 ここは迷宮、無形魔王城である。


「あなたは刑罰を論じたの、ウァコル?」


 ウラギリスにとって儀礼論は本題ではなかった。文明を論じ、信じてもらうという価値を論じて、その一環で儀礼の話題に触れた。

 ウラギリスが儀礼論を著したというより、後世の人が儀礼論として伝えたという方が実情に近い。上古代の学士ウァコルの儀礼論を刑罰論として伝える系統があったのと同じだ。


「まあよい。ウラギリスは儀礼を論じたよ。規範の力を引き出すものと考えたらしい」


 規範は信じられることで力を発揮する。儀礼が機能すれば、信じてもらうことができ、規範の力を引き出すことができる。ウラギリスはそう見た。


「規範とは、盟約とか忠誠とか、人がそれらに沿って行動するアレですか?」


「他に例を挙げると法とか恩義とかいった行動基準のことね」


 法は規範の一種である。しかも、崩壊期当時の帝国では他と比べて非常に重要な規範である。よってウラギリスは、裁判を儀礼の重要な例と位置付けた。

 概要を聞いて、祭祀者ウァコルは納得しなかった。


「規範とは神々の力の一種ではありませんか」


 上古代の祭祀者に特有の人間行動観である。

 学識ある祭祀者たちは、人格神としての盟約(メイトルル)忠誠(ウォロトル)らが人の行動を作ると考えた。また動機を吹き込むと考えた。

 つまり例えば、人が忠誠を尽くす行動をとるのは、忠誠(ウォロトル)神がその人の上に力を発揮しているのだとする。


「儀礼では神の力を引き出します、とウラギリスは言っているわけですか?

 何一つ目新しくありませんね」


 ふつう儀礼とは神に働きかけるものである。論として新規性がない。

 魔王は言った。


「あのねウァコル。この時代では、人の行動に人格神が介入しているとは思われていなかったの。

 自分が決めているのだ、と解釈した。

 自分が盟約の相手のためを思ったから、と解釈した。

 みんなのための決めごとで結果的に自分のためだから、と解釈した」


 それを聞いて祭祀者ウァコルは、信じられないという調子で首を振った。


「瞑想家のいう所有幻想の時代ですね」


 上古代の瞑想家とは、祭祀者に対抗して新しい信仰を探った人々の一群である。祭祀者どもは神の力を引き出し続けて、ついに自分が神を所有すると思いあがっているのだ、と非難した。

 力を引き出す者が、自分はコントロールを、しかも排他的に、握っていると錯覚してしまう。それが所有幻想だ。

 ウァコルは瞑想家から思想的な影響を受けた。儀礼論にも反映されている。


「祭祀者の独占でなく、万人が神々の力を自分の中にあるものだと捉えるのですね。

 では帝国の時代が終わり、さらに所有幻想が力を強めていく一方なのでしょうか」


「そうでもないよ。近古代、ハシュペフチャの時代にだって諸々の美徳や悪徳が擬人化されている。

 その人たちが美徳や悪徳を吹き込むと考えられたのでしょう。

 さまざまな絵画が後世に遺され、近古代の文化を伝えている」


 近古代の天教美術で擬人表現は多用された。魔王はそれを、上古代に神霊が人の行動を作ると信じられたのと同列だと示唆した。

 発言を許されて、僭主ハシュペフチャは答えた。


「たしかに、賭博や姦通といった悪徳の誘惑においては、俗人の姿で描かれる賭博(ヴェルフィル)姦通(ブローハ)の絵図が思い浮かぶものとされました。

 神霊を祀るものではないと思いますよ。師姐上。人がましく、流行の服を着るわけですからね。そいつらが人を唆して悪さをさせる、人を導いて徳を積ませる、と多くの人は信じました」


「あなたのもつ神霊観にもとづけば、神とは呼ばないことでしょうね」


 天教や主神教の神は、個々人の行動に介入する神霊たちからは隔絶して上位にある。

 それがハシュペフチャの思う神である。


「絵画などよりも、むしろ神学の方が師姐上の仰ることに直接かかわるのではありませんか?

 人間の行動規範は究極的にはすべて一なる神に由来するとされました。村の掟から王族の振る舞いまで、神が関わらないものはないそうです。

 その中で美徳を求め悪徳を避けることこそ神意に適う、と。これを聖堂が言うと、聖堂権力に服従せよという話になります」


 ハシュペフチャが生きたのは、神学の栄えた時代だった。聖堂がすべての地の典礼とすべての信仰実践を監督し、地上で天教の理想の実現を目指した。

 僭主ハシュペフチャは神の権力の代わりを用意しようとした。そして、神の権力の枠組みを超えることができなかった。


「そのとおりね。今はウァコルに合わせて擬人表現を挙げた。

 また、神学の理論は、近古代の市井の人々にとっても、正確な理解の及ぶものではなかったと思う」


 人々にとって当たり前の習わしがまずあって、神学がその裏付けに教義を結び付けた。雑多な習俗が〈正しい教え〉の中に置き定められた。

 古くからの交通神崇拝も、英雄慰霊も、魔王信仰も、〈正しい教え〉の実践の一環に読み替えられた。

 人々は変わらず、当たり前の習わしを続けていた。


「祭儀的な世界観は第二次祭祀改革に終わる。人間が祭儀によって神々に、世界に働きかけることが信じられなくなってゆく。

 近古代が終わり、中近世が始まる」


 ばらばらだった領邦を王家が統一し、やがて大きな王国となってゆく。

 威信を失った聖堂に代わって新たな信仰の潮流が生まれてゆく。

 長く忘れられていた古代文化を各地が取り入れてゆく。

 交易が組織化され四方へ広がってゆく。

 激動の時代である。




「第二次祭祀改革とは結局何なのですか? 一まとまりの動きなのですか?」


 祭祀者ウァコルが質問した。

 ウァコルは後世で、古代の祭祀改革者と評される。劇にも出る。

 古代の祭祀改革者には、祭祀改革がよく分かっていなかった。


「正直にいうと第一次もよく分からずにいます」


 すると僭主ハシュペフチャが言った。


「そうです。師姐上。第二次祭祀改革は帝国崩壊期に似ると仰っていましたね。ということは第二次祭祀改革以前に、あの帝国と似たものがあったと言えるのですか?」


「言える」


 魔王は断言した。


「おかしなことです。師姐上。腑に落ちません」


 当の時代、祭祀改革の間の時期を生きた僭主には、心当たりがなかった。


「巨大な領域を治める皇帝などいなかった。

 最強の武力を誇ったわがアルカドとて、威厳を及ぼしうる範囲は広くない。諸侯にはナメられ放しだった」


「分からないの。多言語多文化にわたる広域の統治機構があるでしょう!

 法律を作り、施行した。裁判所もあった。税も取ったし軍も動かした。きわめつけに、多くの人々は天教徒として生まれ育ち、自分は天教徒だと思って典礼や通過儀礼を行じた。聖堂のもとでそれを行なったのよ」


 要するに、近古代当時、巨大な祭政一致国家が存在していた。天教の威光と聖堂の権力がその核心である。

 魔王はそう主張する。

 上古代人にとっては典礼の要素が最も大きい。祭祀の存続が国家の存続である。


「第一次祭祀改革とは、大国の成立だった。第二次祭祀改革は崩壊だった。存続した期間が近古代と呼ばれる」


 それを聞いてハシュペフチャは考え込んだ。近古代の王にとって、聖堂が敵対するいち政治勢力なのは確かだった。


「国と呼ぶには抵抗があります」


 ハシュペフチャにとって国といえば、まず、領主とかが責任をもって治める、あまり広くない地理的範囲である。

 次に、かれ自身のような王や有力貴族が、諸領主を通して間接的にコントロールする地理的範囲である。


 たしかに一定の地理的範囲で統一された典礼が行なわれた。たしかに人は自分が天教に属すると感じた。たしかに聖堂は法制度を運用していた。だからといって、かれは、それを国と呼ばない。


 中近世の王たちも呼ばない。第二次祭祀改革後の王たちは王統を神格化し、やがて大きな〈国家〉を作った。それから、王統を遡りうる限りの昔から〈国家〉があったことにした。権力が衰えていた同時代の聖堂を、〈国家〉の秩序の下位に置いた。



「師姐上。人間観の話題に戻ると、第二次祭祀改革は知性の目覚めとも言われるようですよね」


 ハシュペフチャは後世で、英明な君主、中近世の先駆けと称えられることもあった。劇にもなった。


 おどろおどろしい怪物たちがいるのは、人間向けに神の威光を強調させるためだ、などと、中古代から近古代の僧たちは言うものだった。その種の怪物たちは聖典類で存在を否定されている。

 神学は近古代を通して、聖典に関係なく出したい結論を何でも出せる装置としての性格を強めていった。

 第二次祭祀改革で普遍の理想に立ち返り、中近世の人々は、そんなもので騙されなくなった。

 迷妄を退ける時代である。

 誠実に力強く働く時代でもある。

 神への祈りで苦難をごまかすのでなく、人間の力で未来を切り開いてゆくのだ。


「ええ。規範を吹き込む神霊や、人の姿で人を説き伏せる美徳や悪徳は、信じられなくなってゆくの」


 祭儀的な世界観は第二次祭祀改革に終わる。

 ウァコルは言った。


「やはり、まだ分かりません。

 行動基準があって、従って行動するものとされ、また行動意欲が発生する。これは人が社会をなすならふつう起こりますよね」


「そうでしょうね。これが起こることが、人が社会をなすことだとも、言えそうね」


 祭祀者と魔王は規範観を確認した。

 行動やその動機が社会規範と切り離せないのは当たり前である。その人自身が気にしていなくとも、行動や動機は、社会規範を前提にして理解される。


「神々の働きかけと捉えるか捉えないかは、いったん措きます。

 措くとして、自分が決めているのだと解釈したというのは、変すぎます。

 不正当にものを取得しない理由を聞いたら、盗んで露見するリスクを計算して割に合わないからだ、などと答えるのですか?」


 反語に近い問いかけだった。まさか常にそう考えるものがざらにいるはずもない、と祭祀者は考えたのだ。


「そう答える人もけっこういると思うよ。たぶん当世には多い。

 しかも同じ人が、市場を歩くときに盗むという行動をいつも検討しているかというと、そもそも念頭になかったりもする」


 学士ウァコルは、ますます不可解という手ぶりを演じた。


「ご想定になられた答えは本当の行動と整合していませんよ。我が王。

 それが念頭にない理由こそを聞いたとしたら、どうなるのでしょうか?」


「無駄な判断をしないよう慣れた、なんて答えるのではないかしら。

 ウァコル。上古代人だって、ああ自分はナントカ神に意欲を吹き込まれたな、と日常生活でいちいち感じて暮らしていたわけではないよ。

 日常行動に解釈なんてふつう必要ないのだから」


 社会行動を行じている現実に解釈が必要になれば、解釈をする。

 上古代の場合は、神々が人のうちに行動を置き定めている、意欲を吹き込んでいる、と考える。

 他の場合はたとえば、既存の共通了解のうえで合理的に行動している、などと考える。

 祭祀者ウァコルは反論した。


「いちいち感じて暮らしていないのは、我らの時代にすでに儀礼の力が忘れられかけていたからですよ。

 昔は常に神々を身近に感じていたはずです」


「なぜそう言えるの? 祭祀者の学問伝統で知ったのかしら」


「当然そうです。何か問題でもありましょうか」


 祭祀者ウァコルにとって、最も信頼できる情報源だった。

 同時代の祭祀者のことは批判しながら、伝統を尊重した。


「祭祀者の学問伝統は、祭祀に関する知識に偏っているのよ」


「当たり前ですよね」


「祭祀というのは、神々の力を身近に感じる特別な機会でしょう」


「当たり前ですよね」


「つまり、特別な機会以外の日常生活で、人が神々を身近に感じたかどうかを、教えてくれない」


「あ」


 あらゆる知識の伝承が持ちうる偏向の一種である。伝承されたものは、特筆すべきだから伝承された。伝承に値した記録の大部分は、当たり前のことを直接には教えてくれない。

 かつて常態だったと積極的に主張する根拠を、ウァコルは失った。


「先人の知恵が頼れない状況ということですか。抽象論を語ると混乱しますね。

 考慮のための例を挙げましょう。酒宴を想定します。酒の力によって気が大きくなることは誰でも知っています」


「酒の力というのが人格を備えた神のわざだと思うかどうかは、社会文化によるよね」


 上古代の伝統では、人格を備えた神のわざである。


「それが解釈のレベルの話ということでしたね。人間の行動は大きくは変わらない、と。

 では儀礼は? 人格を備えた神霊に儀礼を通して交渉するという行動は、発生しえないのではありませんか? 神霊観によって行動に違いが出ますよ」


 学士ウァコルは、神についての解釈により人間の行動が変わるかどうかを明らかにしようとした。変わると信じていた。

 だから酒宴を例に挙げた。酒宴は儀礼だ。儀礼の成立可否は神についての解釈に影響を受ける可能性が高い。


「ふふ。何を言うの。あなたは冷静さを欠いている」


 魔王は可笑しくてたまらないという様子を演じた。


「儀礼だと考えずに行じられる儀礼は、あなたの論考の対象そのものでしょう!

 どちらの解釈でも儀礼は行じられる。どちらの解釈でも、正しく働くことも正しく働かないこともある。違ったかしら」


 ウァコルは、自己目的性をもって儀礼の正しさとした。儀礼だと思って行じている必要はない。


「ウァコル。神々なしの人間行動観を、さっきは所有幻想の時代の、悪い風潮として受け取ったよね。

 儀礼が祭祀者の独占物でなくなり、誰もが我がこととして受け止めるのは、あなたの理想に近いのではないの?」


 魔王が現れる前、儀礼は廃れつつあった。祭祀者たちは、伝統の儀礼をやめたから世が乱れたと説いた。いつの時代にもある論である。

 いつの時代にも、再開してよくならない例は多い。ウァコルは再開してよくならなかった理由と、魔王のもとでよくなった理由とを追究した。


 ウァコルの理想とは、魔王が諸勢力をまとめ上げた術の延長にある。

 普遍帝国の社会文化の一部も、同じものの延長としての面を備える。


「なるほど。そんなに変なものとして実現することがあるのですね。

 するとウラギリスが一見当たり前の儀礼観に至ったのも、帝国にあってはむしろ特異なことかもしれませんね」


「ねえウァコル。かれは所有幻想にまみれた人間だったね」


 魔王が諸勢力をまとめ上げた術のうちに、〈我が王〉という所有幻想がある。ときに所有幻想は必要ともされた。


「我らが帝国、我が国、我が陛下、俺の超皇帝陛下、とウラギリスは言いましたね」


 ウラギリスは、暗殺した皇帝のことを我が陛下と呼んでいた。


「拙僧ら祭祀者に近い悪徳を備えていたということですか。

 あの裏切りは、自分の所有物が思い通りにならなかったら殺してしまえ、といった思考です。

 では、ウラギリスが語った帝国史は何だったのでしょうか。大きな流れに対する無力を強調していませんでしたか?」


 ウラギリスは帝国史概説の中で、個々の人物に深い注意を払わなかった。また、ウラギリスはしがらみや利益構造の力を強調した。


「ええ。所有幻想の肥大化した人物が無力を語るのは、不自然にも思えるよね。一つの考えとして、ウラギリスは自分は例外だと思っていたのかもしれない。

 誰も介入できない大きな流れを自分は理解した、介入した、手中に収めた、なんてね」


「拙僧にはちょっとした解釈があります。ウラギリスは帝国史を論じてみせることで、反論を待っていたのです。

 責任を取って死ぬことを、むしろ望んでいたではありませんか。つまり、すべてお前のせいだ、と言って殺されるということです」


「あなたらしい解釈ね。ウァコル」


 祭祀者ウァコルは儀礼を論じた。ウラギリスが読んだ系統では刑罰論とされた。論では、儀礼の執行によって裁量があると信じてもらう状態を、責任を負うと呼ぶ。


「そしてウラギリスはあなたのことを、俺の神様、と呼んでいました。

 また裏切るのではありませんか?」


「それはないよ」


 魔王は即答した。


「わたしは信じる。神々は人間たちを信じるほか、何もできないのだから。誰も信ぜずとも、わたしだけは信じる。ウラギリスはもう裏切らない」


 彼女は支配者(かみ)だった。




「過ぎる者の歩みは緩め

 眠る君が望んだ眺めを見るように

 もう誰も君を傷つけないように」


 少女は詠唱した。


「それは?」


「墓碑銘に聞こえますね。師姐上。墓標か何かが語り、被葬者を君と呼んだうえで、第三者に命令しています。

 どこかに刻んであったのでしょうか」


 少女は一瞬だけ黙ってから、答えた。


「わたしの懐刀の銘よ。自慢の品だったの」

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