ウラギリスの裏切り その二
雅語で星空の民と呼ぶ。
遊牧民のことである。
乾燥地帯で営まれる、季節性の移動を伴った牧畜という生業を、遊牧という。
定住民の地理誌は遊牧民を暑い地域のものと寒い地域のものに大別した。暑い沙漠の遊牧民は、熱気で牧草が枯れる頃に涼しい土地に移る。ラクダに荷物を載せて沙漠を旅した。
沙漠の旅は暑い時間帯を避けて夕方から夜に進む。つまり星空の下を旅する。そのことから暑い地域の遊牧民を、星空の民と呼んだ。
普遍帝国の盛期には、寒い地域の遊牧民のことも星空の民と呼んだ。寒い草原の遊牧民は、冷気で牧草が枯れる頃に暖かい土地に移る。どちらにせよ遊牧民の移動は季節の変化、つまり星空の回転と同じ周期に従った。
ときとして当人たちも星空の民と自称した。かれらは天空、日月、星々に供犠を捧げていた。外から与えられた名前を、星空を崇拝する人々という意味で理解した。
定住民による記述には、凶悪、残忍、野蛮というイメージが伴う。後世ではとくに悪翼王や赫翼王の蛮行が想起される。ある時期の遊牧民は、有力な王のもと部族制の軍を組織し、大挙して押し寄せた。
上古代から中古代にかけての遊牧民は、大挙して押し寄せることがない。
たくさんの部族で似た言葉を喋り、似た供犠を捧げ、そして互いに争い騙し合った。
ウラギリスは北方の遊牧部族に身を寄せた。
「われらセルール部は、ウラギリス・ソムクを助言者として迎え入れよう。
そなたの行く手が大草原であらんことを」
諸部族は、牧畜のほかに行商や軍事を営むにあたって、助言者を招くことがあった。そなたの行く手が大草原であらんことを、とは祝福の定型句である。定住民の言語文化と違って、行く道が長く果てしないのは望ましいこととされた。
遊牧民の部族は、移動する村社会である。
昔の村社会というのは、村の利益のために外から奪うことを躊躇しないものだった。人も殺した。
遊牧部族は、定住民から作物などを奪って人畜の食糧とし、ときには売り物とした。
「ウラギリス。君が定住民と呼ぶ人々を、我々は家畜泥棒と呼ぶ。軽々しく話題に出さない方がよい」
定住農民の側も遊牧民から家畜を盗んだ。勇敢な若者が肥えた羊を奪ってくれば、村の英雄となった。
遊牧民に限らず牧畜民は家畜泥棒を許さない。農村の作物を収奪するのは仕返しでもあった。
根こそぎ奪うと翌年に取れなくなるので、残すこともある。
農村と取り決めを結んで、代わりに隣村を襲うこともある。
遊牧部族が定住民の村を守って他の部族と戦うこともある。
戦力を提供し、家畜を盗まれ、作物を奪った。
「それは交易ではないか?」
あるときウラギリスは率直な感想を述べた。
「何を言う。こんなに不公平な交易があるか。
親となるはずの家畜を盗むのは、生まれてきたはずの家畜をも奪っているのだ。大損害だ。それに比べて作物を奪うのは大した話ではなかろう」
かれらは農業に種が必要だということをよく知らなかった。
行商に主軸を移した一部の部族を除けば、遊牧民は貧しい暮らしを送っていた。貧しさは誇りと一体だった。飢えていても誇り高くあり、人に気前よく施すのが、美徳とされた。
「東方文明の農本思想や都鄙論が思い出されるな。貧しくとも誇りや礼節を持つ、などというのは昔を美化して振り返るときしか言い得ないとばかり思っていた」
農本思想とは、投機や儀礼や征服戦争は何も生み出さないのでやめて農牧に帰れ、などと説く論の総称である。昔は貧しくとも誇りや礼節を持っていた、とも説くことが多い。
効率的で正しい判断を積み重ねると滅ぶ、というウラギリスの思想は、農本思想を一つの参考にしていた。
農本思想の論で、典型的には〈生産〉と〈呪術〉という二つの価値を考える。生産価値とは、生活資源を多く作り出す、害獣や人間の収奪から守る、という価値である。呪術価値とは、ものごとを信じさせるという価値である。
百人の生活を支える生産よりも、百人の生活を支える分配を可能にする呪術の方が、儲けやすい。どちらも必要なうち、奢侈への欲望ゆえに生産を軽んじるようになる、と農本思想の論にいう。
帝国の場合はどうか。最盛期には防衛が軽んじられ始めた。平和な中央と隔絶した世界のできごとで、辺境の地方に任せておこう、という風潮が生まれた。帝都民による防衛の軽視は地方軍閥の台頭を招き、帝国崩壊の主要因となった。防衛は生産価値に含まれるから、理論と整合している。
そして、不完全な理論だ、とウラギリスは感じていた。帝国以前には、広域の街道網はなかった。昔の論にいう分配や防衛戦争は、帝国の街道網を使ったものと大きく異なる。
「分配することと、よく分配していると信じさせることは、別のはずだ」
ウラギリスは遊牧民の礼節と文化を学び、異質な文化を観察して、自身のいた環境にも思いをはせた。
遊牧という生業では、土地の生産力の乏しさを機動力で補っていると分析した。
ウラギリスは従来説の〈生産〉と〈呪術〉のほかに、〈移動〉という価値を見出した。
「人や物を多く遠くへ速やかに動かすという価値が、移動価値だ」
定住民が移動を呪術価値に含めてきたのも無理はない。とくに移動範囲が小さい場合、分配に主に必要なのは呪術価値だ。
大量の食料や建材を運ぶ者たちが、それを着服して家族や子分を養うのでなく、正しく責務を果たすと信じるのは、不合理である。また、輸送路から野盗や害獣が排除されていると信じるのは、不合理である。
責務を怠った輸送者や警備者はかえって厳しい損害を被るのだから責務を果たしているだろう、と考えるのは真っ当だ。そこに生活がかかっている状況で信じるのは、尋常でない。
そこで、王の行幸により道の障害を霊的に威圧するなどの儀礼を行じ、安全と信じさせることになる。
「信用の世界で〈付与〉と〈鑑定〉は同じ技、っていうのと似た話にゃ」
「たとえが分からん」
高い窓から光が差し込む。反射光が床を照らす。ここは迷宮、無形魔王城である。
猫の人ミランディは付与術使いである。商品ブランドなどを付与することができる。
「大口の取引は信用の世界にゃ。付与などが成功することよりもむしろ、正しく付与されていると信じさせることが重要になってくるにゃ」
鑑定も同様である。鑑定が成功することよりもむしろ、正しく鑑定されていると信じさせることが重要になる。
そして、正しく付与されていると信じさせることと、正しく鑑定されていると信じさせることとに、大きな違いはない。どちらも、特定の物品が特定の性質を備えていると信じさせることに他ならない。
「もちろん探索者の間では付与と鑑定が別の技なのは当たり前の常識にゃ」
付与といったら、持ち物や身体の状態を変える効果を持つ。鑑定といったら、不明な物品の性質を知る効果を持つ。別物である。
「ちょっと分かった。付与や鑑定の効果が実際に活きてくる場を知らないまま取引をするなら、同じと思っても問題ないんだな。
信用の価値が、実体と別にあるわけだ。
それで何の話だったか。物資を届けるという価値と、そう信じることができるという価値の違いは、定住民には分かりづらいんだったか」
「だいたいそうだな。定住民にとって移動価値は呪術価値に近かった。
遊牧生活の中では、移動価値は生産価値に近いと分析すべきはずだ」
猫の人ミランディは軽く相槌を打ってから尋ねた。
「北方でどういうことをしていたのか教えてくれにゃ」
「そうだな。確かに、今のところ変な思想の話しか聞いていない気がするし」
「いいだろう。聞かせてやる。
異質な環境での暮らしは、当たり前に思っていた我が国の価値観を見つめなおす機会になった。
なんだかんだで我が国の実用本位の文化が性に合うことも分かってきた」
「皇帝を殺す前に気づいとけよ」
ウラギリスは話を続ける。
遊牧部族民たちの多くは、ウラギリスも部族の礼節や文化を当然身につけているものと予期していた。あまりにも当然なので、当人たちに、予期している自覚すらなかった。
あるときウラギリスは羊毛を刈るにあたって、空に向かって酒を撒く前に、羊に触れた。これは避けるべき行為とされている。部族の常識である。
部族の子供などがやった場合、引き剝がされて叱られる。
ある人がウラギリスに質問した。
「どうしたんだ。いきなり羊に触れるとは、何か考えがあってのことなのか?」
質問者は困惑していた。ウラギリスは助言者として尊敬を受けていた。部族の掟をウラギリスが知らないかもしれないという発想はなかった。何か深い理由があって、一見すると掟に反している行為に及んだに違いない、と考えたのだ。
「君ならどうする。ふつう、羊が触れる前に、どうしている?」
ウラギリスは質問した。自分が分からないことを教えてもらう調子ではなくて、相手の理解を試す調子で尋ねた。
「それはもちろん、ふつう、空に向かって酒を撒くだろう」
「どういう謂れがあるか知っているのか」
「天に対して、悪いことを起こさないよう祈願するんだ」
かれらは天空、日月、星々に供犠を捧げていた。特に、人畜の遭難や凍死が発生しないよう祈願した。
羊毛は寒さをしのぐ衣料と天幕の材料になるから、加護を受けようとした。羊毛の採取や加工には儀礼を伴う。
ウラギリスは言った。
「天空や星辰への畏敬を心にしっかり持てば、決まった作業として酒を撒くよりも、よりよく天に祈願することができるのではなかろうか」
帝国崩壊期に流行した思想の一種である。栄光が失われ、ある人々は古いしきたりの遵守を説いた。ある人々は他方で、虚礼を非難した。
ウラギリスはここで後者の論を利用した。
部族民は驚いた。
「そんなことは考えたこともなかった。俺たちは間違っていたのか? 決まった作業として酒を撒くべきではないのか?」
「いやいや。もちろん、伝統にしたがって撒くとよい。
君たちは草原で生まれ育った。だから、ここが本当に驚異に満ちていると分からない。慣れ親しんでいるのだからな。
俺は暑い地で生まれ育った。だから草原に来たら、全体が畏敬を催すものと見えたよ。俺は未だに天空や星辰への畏敬に圧倒され続けている。
一方で天地の異常に気づくのには、君たちの方が長けているだろう。俺は、君たちと同等の行為に携わることができると思わない。だから、俺なりに天空を敬うだけさ」
部族民は、さすが助言者は深いお考えをお持ちだ、と感心した。
「万事このようであった」
「破天荒な祖師かよ」
ヴィクロムはつっこんだ。
高い窓から光が差し込む。反射光が床を照らす。ここは迷宮、無形魔王城である。
天教や主神教の諸教派の祖師には、だいたい似たエピソードがある。既存の信仰伝統に反する行動をとり、説明を求められると、本来の精神にそぐうのだと説く。信仰の堕落に気づかせた、などと解釈される。
中には本人の無知や不注意をごまかしたとしか思えないものもある。信徒は、うすうす気づきながら、崇めるものである。
「ウラギリスは、ふつうに知らないのを態度でごまかしたんだな。悪いやつだよ」
「ハッタリは助言者の仕事のうちだからな」
ウラギリス・ソムクは居直った。
「善くないやつにゃ」
知らない部族のもとで権威ある助言者として振る舞うには、悪いやつである必要もあった。
北方遊牧民は、夏に散開し冬に密集する。冬には大部族の中の諸族がつどってあちこちの情報を語り、ともに厳しい季節を越える。
ウラギリスはそこで、南西の皇帝の状況を知った。ウラギリスは、やれる、と思った。
族長に出奔の意を告げてから言った。
「次に会うときは敵同士かもしれません」
セルールの族長は言った。
「ジェー。シェネル・ゲティヌン・エーケ・シャンム・ガリエル」
ウラギリスは答えた。
「タッハ」
そしてウラギリスは行く。西の皇帝、超皇帝に仕えるために赴く。ウラギリスの転身のうちで、このときは珍しく流血を伴わなかった。
ジェー。シェネル・ゲティヌン・エーケ・シャンム・ガリエル。
タッハ。




