魔王の掟
優れた将は鷹の視点を持つ。戦場を俯瞰していなければ把握しえないはずの状況を、名将は的確に判断する。
その技能の一派生が〈魔王の眼〉である。〈魔王の眼〉は地上を眺めるだけでなく、地上にも感じ取らせる。
集団戦闘では人知を超えた力がはたらく。
将が合図を出し、貝や笛が鳴らされ、命令が下りる。隊列が動く。動き出した実感は遅れてやってくる。兵たちが戦いの中にいると自覚するとき、すでに戦闘は勢いをつけて転がり出している。
人は認めざるを得ない。個々人の思惑を超えた隊列のうねりがある。強大な力が人を圧し動かし、恐怖を忘れさせる。絶えず矢が降り注ぐ中で、自身の危険を忘れさせる。顔見知りの同胞が倒れても、顧みることを忘れさせる。
巨大な波や渦に呑まれる中で、戦場を俯瞰する〈魔王の眼〉を兵たちは感じた。単に将として状況を把握するだけではない。味方を見守り、敵を睨みつける。
戦場という極限の環境で、兵たちは確信した。我らには頼れる王がついていると。あるいは、彼らには恐ろしい王がついていると。
「すごい王様が戦場を眺めている、と信じたのだ。俺にとって好都合だったな」
魔王僭称者ハシュペフチャが語る。
探索者ヴィクロム・インヴィットは動けずにいた。はるか上方からの威圧的な視線を感じ取った。〈魔王の眼〉だ。錯覚に違いない。なにしろ迷宮の天井よりも高く感じられるのだ。
「蛇に睨まれた蛙だな、亜竜人とやら」
「けっ。蛇に睨まれた蛙を、蛇はなぜすぐに食べてしまわないか、知らないのか」
うかつに動けば逃げられるからだ。一般に肉食動物にとって獲物を逃すのは大きな損失だ。命が懸かっているのは蛙だけではない。蛇もまた動けないのだ。
呼吸をするだけで苦しい重圧の下、ヴィクロムは続ける。
「お前の顕現を維持している力は何だ。自身の魔力か? いいや違う。俺の魔力を利用して魔王ハシュペフチャとして存在を保っている。近古代のすごい君主のイメージを俺の心に呼び起こさなければ、お前は存在できないんだ」
魔王僭称者の倒し方である。ヴィクロム・インヴィットという一人間に対してボロを出し、じつは大した人物でないと露見すれば、ハシュペフチャは消滅する。
ハシュペフチャは沈黙した。
痛いところを突かれたのではない。何も語る必要がないからである。わざわざ応答したとして、得るのは言葉尻を捕えられる危険だけだ。権力者は黙殺する。応答せずに不戦勝を選ぶことができる。
「問答に応じる必要はない。そう言いたいんだろう。
いいや。お前は応じるね。英明な君主ハシュペフチャは、人々の意見や進言を吸い上げた。違うのか?」
「申せ」
ハシュペフチャは命じた。探索者が応答を引き出したのだ。正しい王ならば堂々と受け答えなければならない。〈魔王の眼〉の重圧が弱まる。
獲物を射すくめる重圧が弱まり、弱まってなお、判断を誤れば首が飛ぶという緊張感を残す。
「当世人に言わせれば近古代は迷信の世界だ。ハシュペフチャにとってもそう見えたことだろう」
近古代とは大まかに第一次祭祀改革から第二次祭祀改革までの間をさす歴史区分である。
農業が進展した。北方を中心に都市が勃興した。隠遁修行集団が活躍した。正義団がのさばった。東方諸都市が衰えた。ザハロン諸都市で貿易や学芸が栄えた。また第一次祭祀改革では、王侯貴族の俗権力に優越する教主の聖権力が打ち立てられた。
僭主は無言で続きを促した。探索者は慎重に応じる。
進言の体裁で僭主に対抗するには、進言にふさわしい賢いことを述べていると確信している必要がある。さもなくば「愚かな意見だ」と評して黙り込むだけで僭主が勝利する。
「聞け、ハシュペフチャ王。お前の時代の聖堂は正しい典礼を決め、正しい戦争を決め、正しい王を決めた。聖なる権力は解釈の独占を拠り所とする。
教主は教義と称して正統性の神話を独占した。人は、貴族までこぞって、教主に神の権威を認めた」
「一部が少し違うな。それは中近世以降に曲げられた歴史だ。王とてそれぞれ正統性の神話を独占した。人は王を妖精の子孫とか言って崇めた。王と教主との違いはそこにはない。
本当の聖堂権力の核とは、書面主義だ。本当の聖なる権力は正当な書式の独占による」
近古代の北方の君主たちは非識字者だった。東都人に侮られる理由の一つでもある。東方には中古代から文書行政の伝統があったからだ。
ハシュペフチャは貴重な例外で、立派な文書を読み書きした。自ら法体系を編纂し、聖堂官僚に依存しない国を目指した。
「だからハシュペフチャを天教敵対者と認定した、か」
探索者ヴィクロムは時代論に深入りせずにおいた。近古代という時代の評価の違いに反論していたならば「俺への進言でない」で終了していたところだ。賢い誰かの意見や常套句を考えなしに使う者はここで脱落する。
残るのは何を言うかを自分で判断し、それを賢い意見と確信できる者だ。そして、自分は賢いと思い込んでいるかれらへの対処法を、僭主ハシュペフチャは知っていた。賢人気取りにはいい気で喋らせ続ければよい。
「然り。分かっているではないか。真の権力の独占を揺るがしたから敵とされる。表向きの教主の正統性は神の力によるから、このハシュペフチャは神に背いたということにされる」
ハシュペフチャは南方で学を身につけていた。教主を取り巻く南方の諸勢力は、教主の聖なる権力など認めていない。健在の頃の東方諸都市も認めていなかった。ザハロン諸都市も聖女廃止令を無視し続けた。
文書行政の根付いた東方諸都市は落ち目で、ハシュペフチャが唯一の目立った敵だった。
「あなたは天教の名のもとの不合理と全面的に戦うはめになった。神に背く僭主を倒すとは、大義名分として非常に強力だ。
不合理な習慣を改める王と自負していたな。天教の理想と同じだ。だから文書と形式という同じ手法を採用した。違うか?」
ハシュペフチャは不合理を嫌った。反乱と粛清の繰り返しを憎んだ。
「その通り、俺は不合理な習慣を改める王だ。不合理な習わしの根本は、理由を曖昧にすることにある。
利害のために人を殺した者が、メンツや伝統の話にすり替える。いつしか血みどろの粛清が習慣として根付く。
聖堂への敵対を、天教の理想への敵対にすり替える。北方人の素朴な信仰心にはよく響く」
結論が合っていれば理由は曖昧でいい。
子分曰く、あなたがそう思うからという理由ではなく、この理由で、このことをすべきなのです。
親分曰く、同じではないか、このことをすべき、つまり余が正しいのだ。
そのようなことが繰り返されてきた。
「上古代の修辞学を学べば出てくる話だ。あなたも知っているんだろう。すでに起こったことについて理由を問うのは非難として機能しうる」
「そうだ、探索者よ。古の賢人たちも愚かしい状況にいたのだろうな。
効率的でもある。いちいち理由を探求していては話が進まぬ。ちょっとした組織の運営ならそれでよいのだ。
理由を問わない風潮を、国家の運営に持ち込んではならない」
同じ罪に同じ罰を科すにも、「王がそう思うから」と「法典のこの記載とこれらの前例に基づく正統法学による検討の結果」とでは全く異なる。
司法や財政をまともに動かそうとすれば理由の検討を当たり前に行なう必要がある。
「分かるな。貴様が指摘した通り、迷信を正す手段と政治権力を運用する手段とは、地続きなのだ」
「だったら俺もお前になぜを問う。なぜお前は、人に信じられる虚像になってまで、化けて出たんだ」
理由の探求を肯定させたので、亜竜人ヴィクロム・インヴィットは僭主に理由を問うことが可能になった。
僭主ハシュペフチャは不合理な信仰を廃したがった。時代が下るとかれ自身が迷信の対象になった。それはなぜか。
僭主は鼻を鳴らした。
「虚像か。たしかに虚像だ。
実のところ俺は大した王ではない。結果を見れば人を萎縮させ不自由にしただけの王を、英明などと、言う方が愚かだ。
だからだ。愚民どもが迷う限り俺は在りし日の優れた君主として夢見られ続ける」
命令をくだす立場に慣れた者に特有の、ただ者でない雰囲気を漂わせたまま、僭主は自嘲の言葉を述べた。
「人間の愚かさのために賢い君主が求められる、か」
「貴様にも心当たりはあろう。賢い者が手腕をふるって賢い策を実行して、人が黙って従えば世の中はよくなる。と、そう思う者たちを知っているのではないか。
自身が思わないとしても、人々がそう願うことが貴様には想像できるはずだ」
賢い君主への期待が、期待させる状況がある限り、魔王は何度でも望まれて現れる。ハシュペフチャはそう示唆する。
亜竜人ヴィクロムは答えた。
「だいたい分かった。たしかにお前は賢い支配者なんだろうな」
魔王僭称者は満足げに頷く。目の前の探索者のことを、中途半端に学のある人物と評価していた。確たる原則も持たず、自分のことを賢いとだけ思っておろう。
ならば言葉によらない所作ですごい王を演出しつつ、言葉ではすごい王を人が求めることを納得させる。衆愚への軽蔑をほのめかせば賢人気取りに効く。ハシュペフチャはそう捉えた。
ものごとを分かっていると気取るなら、ハシュペフチャを評価するはずだ。
「おまけの質問をいいか。上古代の魔王はお前にとって何だ」
おまけの質問なわけはない。亜竜人にとって最後の策に決まっている。下手に答えればハシュペフチャは滅ぶ。上手く答えれば魔王としての権限は完全になる。
魔王僭称者は答えた。
「尊敬すべき先人だ」
この答えしかない。合理の王が、まさか上古代の魔王を崇拝しているわけもない。
民心を束ねて支配権を正当化するのに都合がよいから魔王を理想像に選んだ、と答えることもできる。率直にそう言っては魔王譚文脈の亜竜人とやらの心情を損ねて、足をすくわれないとも限らない。だから、先人として敬っていたと述べる方を選んだ。これもまた事実である。
「どうだ。貴様に俺が否定できるか」
すると、ヴィクロム・インヴィットは答えた。
「できる」
「何だと」
「優れた王は被治者を愚民呼ばわりしないんだよ」
すると、魔王僭称者ハシュペフチャの身体が光の粒になって消え始めた。顕現の根拠をなくしたのだ。目の前の人間は、かれを王と認めていない。
「何だ、それは。理由になっていない。もちろん、民草に向かってお前は愚かだなどとは、俺も言わぬぞ。愚者を愚かと思って何が悪い。賢人を相手に愚民を論じて何が悪い」
「だって、ふつうに考えてそうだろ」
僭主の想定では、敗北するとすれば論駁によるものだった。雰囲気で呑めば、理詰めでしか対抗しようがない。相手の言葉を堂々と肯定し、あるいは些細な点として笑い飛ばせばよい。そのはずだった。
王にふさわしい美徳などという素朴なものを、賢人もどきが信じているとは思わなかった。ハシュペフチャも信じていないのだ。
「おまけの質問は何だったのだ。その前の時点で答えが出ていたではないか」
「お前は開き直ればよかったんだ。理屈をこねるまでもなく、現にいるのだから仕方がない。そう言えばよかった」
探索者ヴィクロムは知っている。本物の方の魔王は、理によらずして、自分はここにいると信じさせる。
【探索者は、魔王僭称者を破りました。】
【迷宮管理者の権限において、探索者による第三階層の突破を認め、これを賞します。】
【あなたは称号・愚かなる英雄の業を獲得しました。】
ハシュペフチャには開き直ることができない。賢明な王は因習や無用な争いを排除してきた。理は理、不合理は不合理だ。現にそうだから仕方がない、などと開き直ることが絶対にできない。
だから僭主は、理由を要しない信念に敗れた。
ハシュペフチャは再び目を開いた。
「魔王ハシュペフチャとは、生前の宣伝活動と死後の伝承の結果作られたイメージね。
後の時代、世が乱れたとき、人は強大な権力を求めた。愚かな大衆とか気にくわない奴を黙らせてくれる、頼れる王様を望んだ。昔の僭主ハシュペフチャを語り直した」
そこに、王がいた。
石や苔が光を放ち、広間を幽かに照らす。
ここは迷宮、無形魔王城である。
玉座の背景に蔦の文様があった。左右対称に近く、ところどころで対称性を崩してある。
ハシュペフチャに一つの思考が浮かんだ。もし、北方の聖堂に見られる異教の名残りが、すぐれた洗練を経たなら、これを作り得ただろうか。
北方にも工芸家たちはいる。とても大きいものをも制作した。とても細かいものをも制作した。そこには洗練がなかった。北方の芸術は垢ぬけなかった。南方の建築や彫刻と比べて、有無を言わせない美とか凄味というものに欠けた。
蔦は王の頭上からはるか高く伸びる。枝分かれし、渦を巻き、動植物や財物を模る。
全体として模っているのは世界に対する主権だ。この下に座す者が、お前たちすべての王であると知れ。
「ふふ。メアちゃんのドキドキお説教タイムの始まりよ」
「×××××のドキドキお説教タイム?」
僭主は復唱した。認識阻害を受けた状態にあると把握し、無効化を試みて、失敗した。
「我が弟弟子よ。お前はわたしを読み解いてくれたね。わたしは性格の一部を、生前に表出することがなかった。自由を愛する少女をお前は見出だした。お前は私を自由にした」
玉座に彼女はいた。癖毛の二つ結びが似合う。
傍らで祭祀者ウァコルが声を荒げた。
「お前のせいか!
生前の王はポンコツの振る舞いを見せませんでした。王は甲高い声を上げて笑いません。照れ隠しに残虐行為を演じません。それに、拙僧ふぜいの生命を惜しむ人でもなかったはずです」
今いる魔王は生前と異なる振る舞いを示す。ウァコルには思うところがあった。
「待ってくれ。ウァコル師。我が王は残虐行為を、照れ隠しに演じていたのか?」
利剣が疑問を呈した。ウァコルは無視した。魔王も無視した。僭主は、「ウァコル師」という呼びかけの部分に反応を示した。
「おや。そちらにおわすのはマリニア生まれの、〈仮面の不可知論者〉ウァコル師か。噂はかねがね聞いている」
僭主は近古代のイメージでウァコルを知っていた。
「仮面の不可知論者だって。かっこいいじゃあないの」
「蔑称ですよ」
「知っている。祭祀者の仮面をかぶって不可知論を垂れるという意味でしょう」
祭祀者は、祭祀を行なって神々の効験を雇い主の上に実現し、報酬を受け取る職である。少なくとも建前上、雇い主は祭祀の効験を信じている。聖なる知識を備えた祭祀者だからからこそ実現できると信じている。
上古代のウァコルが生きた頃にいう不可知論とは、祭祀の効験について祭祀者を含め人間たちが知りうることを厳しく限定する立場である。責任ある祭祀者ならその立場を取りえないとされた。
最初に〈仮面の不可知論者〉と呼んだのは、悪く言う者たちだった。
「蔑称だったとは知らなかった。失礼した」
時代がくだって近古代では異なる意味を持った。天教における不可知論は、聖堂に従わない修行者の主張の一種である。
ある人々は、聖堂が理で割り切れないものを正当化すべく論に論を重ねるのを、非難した。僭主ハシュペフチャも賛同した。
当時の天教徒が〈仮面の不可知論者〉と聞いて思い浮かべるのは、責任を放棄した祭祀者ではない。聖堂の権威を表面的に認めながら真の信仰を追及する修行者をまず想像する。蔑称でなく、むしろ尊称に近い。
「それで、俺はなぜここにいるんだ。俺は消滅したのではないのか」
「お前がそこにいると、わたしが知っているからだ」
「俺はお前など知らない」
「わたしのことは師姐上と呼べ」
魔王は楽しげに命令した。ハシュペフチャは魔王の師に教えを受けたため、弟弟子にあたる。
「上古代にお前のような魔王がいるものか」
「わたしのことは師姐上と呼べ。呼ばねば力でねじ伏せる」
「面白い。騙りなら斬り伏せるとして、騙りでなければ、俺は伝説の魔王と刃を交える誉に与るわけだ」
僭主は大きく息を吸った。
「ハシュペフチャ十二将をここに招集する」
すると、ハシュペフチャ十二将が現れた。魔王僭称者ハシュペフチャに仕えたと伝承される、超人的英雄たちだ。
「チャルマニーゴ、馳せ参じた」
騎士チャルマニーゴは蜥蜴乗りの名手である。駆ければ誰より早く、城壁を平地同然に乗り越える。僭主の城攻めではいつも手柄を上げた。
髪は短く、背が高く、独特の歩き方をした。また名剣エルバールを使いこなしたという。
「ポップ、参上」
矮躯のポップは斥候である。襲名制で、どのポップがハシュペフチャに仕えたのかはよく分かっていない。伝説では初代と言われ、実際には時代が合わないため否定されている。
「ディオジェトス」
「プラジェトス」
「オルジェトス」
ディオジェトス、プラジェトス、オルジェトスは地獄の三兄弟である。
ディオジェトスは現在を監視する。プラジェトスは過去を監視する。オルジェトスは未来を監視する。契約を交わした人間に知恵と破滅とを与える。
どれも大柄な体格で、似た顔つきである。本当はそれぞれ眼の数が異なる。見かけの眼の数を変えてごまかすことができ、その間は地面に影を落とさなくなる。
「カテラパテラ参上」
竜主カテラパテラは亜竜たちと会話することができる。東方の伝説の女王アルストトに助言した経歴もある。古い異教の儀礼ではカテラパテラを祀ることで水害を免れるとされた。
髭の長い老人で、魚籠を持ち歩く。聖賢ウラギリスよりも頭一つ分背が高い。
十二将が集うのを眺め、魔王は退屈そうに言った。
「いくついける、利剣?」
「十三です」
「やれ」
一太刀にて十三体を斬って捨ててみせよ。
すると利剣は答えた。
「すでに」
大剣は振り抜かれていた。
そして、チャルマニーゴ、ポップ、ディオジェトス、プラジェトス、オルジェトス、カテラパテラ、エムラール、カトニア、ハジュルール、ケルムネージュ、カンラバンラ、コホンソームは倒れ伏した。
「一つ足りんぞ、利剣」
ハシュペフチャがいない。利剣は慌てて見渡した。主君の背後に見つけたときには、僭主は刃を振り上げていた。
「我が王!」
「うろたえるな」
魔王は無防備に背を晒したまま、剣士を戒めた。
「この三下にわたしが討たれかねんとでも言うのか」
次の瞬間、ハシュペフチャは、魔王の正面、階段の下に這いつくばっていた。
「何ッ!?」
僭主ハシュペフチャは今の今まで魔王の背後にいたはずだった。
「今、何をした、ぐぬっ」
立ち上がろうとして、右の手足が折れていることに気づく。
「兄に勝つ弟や妹はいる。姉に勝つ妹もいる」
魔王は低く唱える。しなやかに玉座から立ち上がり、階段を降りる。倒れた僭主に近づく。
「そして、覚えておきなさい、ハシュペフチャ。姉に逆らえる弟などない」
ハシュペフチャは本当の魔王に勝てない。自分などその足の塵にも及ばないほどの、最強の君主と位置付けたからである。
「ご教示感謝つかまつる、師姐上。一人っ子で甘やかされていたものでね」
北のユーモアだ。僭主は幼くして親族を皆殺しにされている。北方文化では笑えないジョークが好まれた。
魔王は、ハシュペフチャの角に足を置いた。伏した顔面を地面に押し付けた。
「我が王! やりすぎでは!?」
「やりすぎではありません。踏み折っても問題ありませんよ。拙僧が認めます」
利剣が叫び、ウァコルが冷静にコメントした。
少女のつま先が角をなぞる。
「これ透かし彫りね。なかなか綺麗じゃあないの。もろくて、すぐ壊れそうで素敵よね」
「足をどけろ」
「どけてください、でしょう」
ハシュペフチャは沈黙した。足が角をなでてから、体重がかかり始めた。僭主は屈辱を隠しきれない声で言った。
「どけて、ください」
魔王の足は角を離れ、そして、もう片側の角の上に載せられた。
「貴様っ!」
「師姐上だ」
激昂する僭主に対して、踏みつけたまま呼び名を正す。
「師姐上。おみ足を、どけてください。お願いします」
魔王は沈黙した。つま先で角の彫刻を撫でる。足下のうめき声を黙殺する。
一通り撫でまわしてから足をどけた。
「面を上げよ」
「この仕打ちは何なのですか、師姐上」
僭主ハシュペフチャは非難がましく睨みつけた。
「なぜですか。あなたには分かるのではないのか。角を踏みつけられるほどの屈辱が他にありますかッ!」
後ろで利剣が息をのんだ。僭主は知らないのだ。
「角を踏みつけられるほどの屈辱? 角を踏みつけられるほどの屈辱ね。それは、もしかすると」
少女はツインテールの片方を持ち上げて見せた。
「こんな形をしているのではないのかしら」
僭主の顔から血の気が引いた。瞳が揺れた。予期したものを見なかったからだ。
僭主は謬説として退けていた。信じがたかった。信じるわけにいかなかった。
上古代の魔王は虜囚の時期に角を切り取られた、との伝があった。
「本当に、あなたは、王の徴を、そんな」
歯は震え、呼吸は乱れ、僭主はつっかえながら喋る。
「なぜ、そんな、なぜ」
「お前がわたしに聞くのは、なぜ正当に王権を振るえたか、ということか?」
ハシュペフチャは沈黙した。その口からはとても発言することができない。
「王の威光や支配の正当化など後付けよ。わたしが裁量を有するという事実が先にある。わたしの権威のもとに命令が効力を発揮するという事実が先にある。
王権観とのつじつま合わせは、人が進んでやってくれる」
王権を振るえないはずの者が確かに王として君臨していれば、間違っているのは王権観の方だ。
臣民が王への義務を怠ったから不当にも角を奪わせてしまったと、ある人々は言う。真の意味では角を切り取られてはいないと、ある人々は言う。角がなければ王になれない時代は終わったと、ある人々は言う。どれも後付けである。
「そんな馬鹿な。いや。もしや俺も、か」
僭主は上古代の魔王を理想と掲げた。個人的な思い入れもあったとは自覚していた。じつは、理想像としての有用性や先人への尊敬の方が後付けなのではないのか。
ハシュペフチャは上古代の魔王を心から崇め奉っているのではないか。思い入れとは些細なものではなかった。今の動揺がその重さを示す。単なる便利な旗印なら、本当の上古代の魔王に角があろうがなかろうが、どうでもよい。
「いや。今の俺の動揺には、合理的な説明があるはずだ。あるのだ。
俺は歴史上の魔王の行動に教訓を求めた。だから、立脚した前提が間違っていれば、混乱もする。
理由として弱いな。まだだ」
僭主は言ってから考えをめぐらせた。ハシュペフチャの習慣だ。自身が迷妄の中にいると分かれば、抜け出す方法を考える。
「あるでしょうね。それで? 合理的な説明があったら何だというの。お前の動揺がわたしへの尊崇を意味しないとして、だから何だ。
いくら理屈をこねたところで、わたしはお前が思ったよりもすごい行動をしたと論じるに至るだけだ。お前はわたしを理想の王と認めているではないか」
有用な旗印だろうと都合のよい伝承だろうと、上古代の魔王を公式に認め、認め続けた。その時点が魔法の完成だった。
どれだけ言い繕ってもハシュペフチャはそこから逃れることがない。不合理を退ければ退けるほど、目の前の魔王を強くすることになる。
ハシュペフチャは本当の魔王に勝てない。自分などその足の塵にも及ばないほどの、最強の君主と位置付けたからである。




