村落の掟
「覚えておきなさい。教義とは、大半の信徒にとってどうでもよいものなのですよ」
学を修めたレアンは、農村の神殿での仕事が決まったとき、世話になった学僧に言われたのを覚えている。
王国という枠組みは未だ意味をなさず、聖堂が天教による支配を布く、歴史の中の一幕だ。
かつて入門した頃のレアンにとって、土地相続や結婚や連座処刑は天教の習慣と思えた。じつは聖典はこれらを否定している。本来の天教というものがあるとすれば、それに反しているのだという。驚いた。
理由を学べば頷けた。
理想的には、誰も生まれながらにして隷属を強いられない。当時、契約による小作人は土地の生産力と一体とされた。土地を相続するなら主従関係も次世代に受け継がれてしまう。
理想的には、性交渉の作為を強制されない自由が男女ともにある。当時、異性間の性交渉の許諾を含むことができる唯一の契約類型が結婚とされた。習わしに従って結婚を一族の利益で決めれば、自由を害してしまう。
理想的には、止めようがなかった他人の違法行為に責任は問えない。連座処刑では止め得たかどうかに拘わらず縁者を罪人として裁いてしまう。
いかにも天教の習慣である土地相続は、じつは農奴を肯定している。結婚は、強姦を肯定している。連座処刑は、冤罪を肯定している。
「今まで信じていた正しい教えとは、何だったのか」
レアンの学びは信仰への疑いから出発した。
天教の理想にいう自由はじつは実践不可能なのだ。小作人の子は契約の自由など行使できる立場にない。男女の性交渉には出産や育児、つまり親族との関わり合いを想定する必要がある。違法行為を止め得たかどうかを縁者同士で示し合わせるのは容易である。
自由の理想を押し付ければ族長が大きな裁量をふるい、部族的な風習をかえって強める。無制限に人を隷属させて使い潰す。よって天教が介入し、穏当な方へ導く。聖堂史は粘り強い交渉による教化の事例でできている。
「我々は善くなることができる。そうなのですよね」
お前の信仰習慣は正しくないとか、人を傷つけるのが正しいとか言うのが神学なのではない。白を白、黒を黒と言うのに適切な裏付けを探求するのが神学だ。
後世にいう第一次祭祀改革では神学が発達した。聖典には、人の役に立つことは卑しいとか、悪行で人を傷つける者を神は救うとか、理不尽で非常識な文言が書いてある。従来、理解すべき言葉ではなく意味不明なありがたい音声として崇められていた。
本当は、聖典の内容は意味不明などではない。修練を積めば、霊的素質によらず、ある程度は読むことができる。聖典を読む作法は、神懸りの歌詠よりも学者の論に近い。
神学と東都文明以来の学問伝統とが融合した。堕落する前の普遍帝国はすぐれた法体系を遺してくれた。東都の論理も西都の法律も、神を知らないなりに善くあろうとした賢い人々の所産だ。
「あなたが学んだことは無駄になりませんよ。レアンさん。我々は真摯に祈ります。あなたの上に祝福があるように」
学僧の先生方は聖俗の諸学を教えてくれた。
無教時代の賢人たちは正しい典礼に肉薄していた。古代人たちは儀礼を論じる。
〈仮面の不可知論者〉ことヨリアジスのウァコルは、行為の自己完結性をもって儀礼を定義した。
〈賭場の魔女〉ことヨリアジスのリーラエシア・オッズ・シルヴァードラゴンは、ゲーム設計として儀礼の機能を評価した。
〈四君の臣〉ことウラギリス・ソムクは、儀礼を異界への旅と称し、それまで注目されなかった巡礼を儀礼の典型と位置付けた。
そのことを思い出した。農村で聖務を行なうレアンは、異教徒の儀礼論を思った。なぜといって、農民たちは天教の名のもとに、いかにも異教の野蛮な儀礼を行なうではないか。神学上、真っ黒である。街の聖堂と村の神殿の違いを知った。
聞いたこともない聖者を祝って、賭けに興じ、獣の皮を被り、歌い踊る。聖典で厭わしく描かれる蛮族の儀礼そのものである。
申し訳程度の天教要素を添えて疑似的な人身御供を捧げる。昔は本当に人間を捧げていたことだろう。
着任して最初の収穫期の後のことだった。税金取りを詰問し、不当に村から奪った作物を取り返した。食料は貴重である。不足すれば死人が出る。
村人たちは不安がって、返ってきたものを受け取ろうとしなかった。
「よくない祟りなどが起こりそうだ」
「神官さまは、そちら側なのですか」
この神学の時代に何が祟りか、と言おうとしてやめた。神学を誇りに思い、学んだから偉いなどと傲った自身を恥じた。
そちら側とはどういうことか。村人にとって税金取りは黙ってやり過ごすべき魔物か何かで、渡り合える神官は同類だとでも言うのか。
レアンは前例を調べた。不正を改めるのは神官の規範にそぐう行動だから、前任者たちも同様の問題に直面したはずだ。
どうやら神殿が財産を譲るためには祭礼を催すものらしい。村人たちの内輪では贈り物に返礼が必須となる。神殿という絶対の権威に贈り物をもらっては返しようがないといったところか。
無教時代の儀礼論によると、儀礼は問題発生に伴う不和を解消する。小さな村の問題などたいてい解決は容易か不可能かのどちらかで、本当に困るのは問題発生に伴う不和の方だ。財産を配るという答えは決まっていて、作法を守ることで円滑にあと腐れなく配ることになる。
祭礼について長老たちに話を通しておくため、前例を挙げて切り出した。
「かつて、エニアン神官のときにも同じことがあったはずです」
食いつき方は想定外のものだった。
「レアン様は昔のできごとをご存知なのですか!」
「エニアン様のときのことを、長老方は知っておられるか」
「さすが神官様だ。何でもご存知なのですね」
この時代の村人に、知らないことを読んで知るという発想はほぼない。識字能力の比較的高い者でも、読むのは命令文書か会計文書か聖句かの、すでに知っている内容に限られる。神官が前例を挙げたのは、神秘的な力で過去を知ったのだと捉えられた。
祭は行なわれた。神官様が税金取りを懲らしめた記念らしい。神官レアンにとって不可解なのは、税金取りその人が来ていて、村人たちから贈り物をもらっていたことだった。深く追及しないことにした。あの税金取りにも家族や子分がいて、稼ぎがなければ養えないのではあろう。
村人はみな善良だった。人が喜ぶことを好み、人が苦しむことを嫌った。神を素朴に畏れ敬ってもいた。神官による典礼に村人は毎回よく集まった。
レアンは人々を思いやった。だからこそ野蛮な習慣を改めさせたかった。
「このままでは神罰がくだってしまう。神よ。どうか村の人々をお赦しください」
レアンは理知的だったし、ごく当たり前に神を畏れてもいた。
「神官としてこんな祭礼を主導したのだから、きっと自分は神罰を避けがたい。せめて村のみんなは日々の苦労に報われてほしい」
善良なふつうの人々にとって教義など意味不明なありがたい音でしかない。教えが最も効果的に訴えかけるのは社会からあぶれた者に対してである。
そこで王侯は聖俗の権力の分担を主張する。王がふつうの人々を治め、あぶれた者を教えが救えばよい。王侯は権力を拡大したいからそう言う。
聖堂勢力は譲らない。善良な当たり前の価値観とは、生贄や殺人と一体として実践されるではないか。それら野蛮な風習を止めるのは王の人望や暴力ではなく、正しい信仰だ。神に仕える者による知恵の蓄積だ。
神官レアンは日々の聖務の中で人々に正しい教えを伝えようとした。かつて神官たちや聖者たちは、はるかに迷信深い人々を教え導いてきた。レアンはその末席にいるのだ。
「よろしいですか。かりに、ある年の収穫がこれほどとします」
「そのようなことがあるのですか! それはいつですか」
村人は神官のたとえ話や仮定を事実と受け取ろうとする。
知恵が鈍いわけではない。レアンが見聞きする限りでも、村の中では将来の仮定について語られている。もし雨が長続きしたら、もしあの子の病気が早く治ったら、などと語るではないか。同様に神官が不確定な未来について語ると、なぜか理解されないのだった。
神官が未来のできごとを知っていると、村人は信じているのだ。村人からすると神官は神秘的な力で過去も未来も知っているから、仮想などない。
天教の神官には異教の神懸りの役割が期待されていた。神秘的な力で未来を知って、獣害や不作や嵐や雹を遠ざけてくれると期待された。
じっさいに神官は獣害や税金取りに対抗してくれた。雨風の害にも対抗してくれると当たり前に信じられた。だから不作や雹害があった年には、神官を棒で叩いて神殿の財産を分け合う祭が開かれる。
「冗談じゃない」
異教の儀礼そのものだった。儀礼は吉事や凶事を例外的な事態と位置付け、秩序を安定させる。
神官に不作や雹を遠ざける技能はない。天候という裁量があるはずもないことに責任を取らされることになる。代わりに人形を破壊するなどとするわけにはいかないのか。野蛮な祭礼の廃止は神官としての使命だったし、レアン個人としても痛いのは嫌だった。
被害が村全体に及ばない場合、神官は助かった。代わりに害を受けた者が非難された。
「お前の畑が荒れたのが、神官様のせいなものか。神官様は村を守るようご祈祷なされたではないか。お前が神様を敬わないからだろう」
害を受けた者が非難され、神官は無事だった。神官は日頃から村人のため悩みを聞き祈りを捧げていたから、信頼があった。
この場合の対応には前例がある。レアンは言った。
「あなたたちがその人を罰してはいけません。神殿へ行きましょう」
村人たちは心から神を畏れていた。畑が荒れた上に非難された者は、神殿で不信心を悔いた。神様に見放されると思ったようで、泣いて助けを乞うた。レアンは教え諭した。
「神様はあなたを守ります。いま、罰などなく、見放すこともありえません。正しい教えを聞きなさい」
レアンは教義をかみ砕いて伝えた。教えが最も効果的に訴えかけるのは社会からあぶれた者に対してである。
絶対によくないことをしているとレアンは思った。村の習慣の多くは天教に反しており、いわば誰もかれも不信心だ。神官に都合がいいときだけ正しい教えを持ち出すのか。苦境につけこんで吹き込むのか。必ず神罰がくだろう。
レアンの悩みを天候や収穫高は顧みない。ある年、村の大部分を雹が襲った。
雹が降る。木が折れる。穀物が倒れる。屋根が歪む。塀がかしぐ。
雹が降る。神官レアンは祈祷を上げながら破壊を眺めた。レアンが村人に殴られるのは避けられまい。
「ああ」
雹が降る。神官レアンは絶望したか。否、その逆だった。
「神は、いる」
学んできたことに適う文言がレアンの心をよぎる。村は神罰を受けて当然だ。自分は神罰を受けて当然だ。これは罰でなく正しい信仰への導きだ。どれもが正しく、どれもが間違っている。
人間の理屈を超えた威力があった。
絶対の畏怖の対象があった。
そこに、神がいた。
雹を存在させる者、世界を存在させる者、自分を存在させる者のことを、神官レアンは確信した。今まで信仰と思っていたのは信仰に満たなかったのだと初めて分かった。
すべての思考に優先して、報われた、と感じた。
北方の民間伝承に、氷を投げつける山の怪物が登場する。定番では天教の聖者が退治する。
これには合理的な解釈がある。怪物は雹のことで、土着の伝承を天教に取り入れたのだという。
気象を通した神への畏怖は天教上正しい。とはいえ人が素朴に信じるに任せては、気象を神と同一視することにつながる。それは正しくない。神でないものを神として崇めてはならない。だから神の敵と定める。害なす恐ろしい雹と、それを打ち破る聖者や神のイメージを強調する。
人々の努力を超えた事態がある。無力を覚えるほかない事態がある。天教は人々に希望を与え、神への畏敬を与えた。人々は共通の希望や畏敬のもとで困難に立ち向かったのだ。
理屈の通る解釈はもう一つある。本当にそういうのがいて、氷を投げつけてくると解釈するのである。
「げっ、〈氷柱落とし〉だ」
ここは迷宮である。無形魔王城の第三階層だ。
亜竜人ヴィクロム・インヴィットはゴブリンの群をかき分け進み、寒い洞穴を歩いていた。そして〈氷柱落とし〉に遭った。上方から氷が飛んでくる。
〈氷柱落とし〉は寒い森や山などに現れる。高所を身軽に動いて氷柱や氷の塊を下に投げ、中型の獲物を狩る。冬眠中の動物を地面越しに攻撃して蓄えを奪うともいう。〈氷柱落とし〉は雹の脅威などと混同されていくつかの怪異のモデルになった。
「天井に〈氷柱落とし〉、床にはゴか。面倒だ」
ゴブリンは名前さえも嫌悪されている。忌詞としてゴなどと呼びならわす。
常に上に注意せねばならない。かといって足元に気を抜けばゴブリンが足を引っかけてくる。
亜竜人ヴィクロムに、無条件で使える技で、隙を作らず上に向かって攻撃できるものはなかった。
氷を小さく避け続けていると、ヴィクロムの足が大きな石にぶつかった。ゴブリンがそっと運んできて置いたものだ。
「やべっ」
体勢を崩す。氷が飛来する。避けられそうもない。ゴブリンどもが大喜びし囃し立てる。人語を真似た鳴き声を上げる。
ギャハハハッ。マケイヌッ。マケッ。
「は。負けてないが?」
倒した。
〈氷柱落とし〉が床に転がり、ゴブリンどもは逃げてゆく。探索者は息をついた。
「ああ嫌だ嫌だ。まだ階層は深そうだ。嫌だな」
小さな〈氷柱落とし〉の遺骸を解体し、処理のうえで焼いた。放っておくとゴブリンが悪用する。
ヴィクロムは短い祈りの定型句をつぶやいた。当世では生き物の死骸に対してぐらいしか唱えることがない。祈りを捧げると、また深くへ進み始めた。




