湯煙聖人伝説
南西方の火山地帯には温泉がある。伝説を総合すると、六三人の聖者が、杖を倒すなどして四二九〇箇所で湯を噴出させたらしい。
「火の国ザハロン=ナハロンか。鉱業や温泉や聖山で栄えた街だな」
湯煙越しの太陽が黒い大地を照らす。ここは迷宮である。
「天教の建築様式だにゃ。なんだか時代が飛んだにゃ」
中古代から近古代だ。一帯で〈正しい教え〉こと天教が唯一の公式な宗教とされていた。
古い信仰が捨てられあるいは読み替えられる、歴史の中の一幕だ。
「昔の〈火の国〉って印象湧かないな。
異教の帝国時代なら黒き大地の巨人クロノスがいる。
祖父母の世代だと、聖地二二二箇所巡りは一箇所でも多く行っておけって風潮があったと聞く」
二二二箇所の巡礼地は天教やその他の宗教の聖地である。
本当にぴったり二二二箇所あるわけではない。数え方によって一定せず、百から四百ぐらいと言われる。
「黒き大地の巨人クロノスをご存知なら話が早いものです。ここの聖者伝説にはクロノス信仰の名残らしいものが指摘されているのです。
聖者の歩んだ土を持ち帰って畑に撒くとよく実るなどと信じられ実践されました」
クロノス信仰の神話は、死んだ巨人の身体が大地を肥やしたと伝える。
じっさいにザハロン=ナハロンの土石は畑を豊かにする。当世では合理的に説明される、単なる現象である。
上古代秩序が崩壊してから農業の改良は広く行なわれ、やがて古伝承や天教聖者の豊穣伝説も農業のための分析対象になってゆく。
現世利益が分かりやすいゆえに伝統の信仰は根強かった。神でなく実益を崇拝しているとの非難も絶えなかった。
「異教を取り込んだのか。教理剪定も聖堂教育も、ここで盛んだったよな。聖堂組織の異教への態度といっても排斥だけでなくて、想像より柔軟なものだ」
「言い訳などどうにでもなりますよ。教理は政治的な事柄ですからね。宗教組織は政治団体でも営利団体でもあります。
そしてもちろん人々の信仰のための組織です。巡礼の案内が手厚いので乗っかりましょう」
「この時代にいう正統な信徒じゃなくても大丈夫か?」
「大丈夫ですよ。話はつけてあります」
三人は丁寧な物腰のスタッフたちに導かれ、円滑に宿泊所に入った。
大きな宿泊所は、王侯貴族から布一枚で寝る行者まで対応することができる。
室内で探索者ヴィクロムは言った。
「あっという間に案内されちゃったな。作業に近くありながら、対応のぞんざいなところがなかった。さすがだ」
「部屋も綺麗で設備が整っているにゃ。これで一般クラスとは驚きにゃ。当世と大違いにゃ」
当世の巡礼宿は劣悪なサービスを提供する。当世の巡礼はみんな気合が入っているので、サービスが悪くても修行の一環として耐えてくれるのだ。
「旅館では要求があれば偉い人を通すことを勧めます。スタッフは仕事をしたくないものですから」
「船に乗ったときとは逆だな」
船への同船は下っ端たちに声をかけるのがよい。船長などは歓待の支出を惜しむからだ。
下っ端は、客がいないまま海賊に遭ったら生贄に差し出されかねないため、客を呼びたい。このとき下っ端に食事の一部を下げ渡すよう提案すると話が早い。
行きの道で知ったことだった。
「この時代の火の国だと獣人が湯船に浸かっていいはずにゃ。行くにゃ」
「いいですね。浸かった入浴着を持ち帰ってお守りにすることはできないので、ご注意ください」
古くからの習慣で、ありがたい湯を吸った衣類はお守りになる。何度か禁令が出ていた。
階層主にして案内人の学士ウァコルが先導する。
浴場である。
「この奥が浴場で、表の効能書きは地上のザハロン=ナハロンにあった実物と同じものです」
「にいちゃん、解説いるか?」
そばにいた子供が問いかける。スタッフではない。勝手にいて、効能書きを読んで客から金をとっているのだ。働きぶりが収入に直結するぶん熱心な傾向がある。
スタッフからしても仕事が減るので容認しているらしい。
「いらない。読めると思う。文法式だな?」
伝統文法による語の分析は難解で、特殊な訓練を積まなければ読めるものでない。効能書きは聖者の名前を文法式で分析している。
「これは喜捨だ。どうかお受け取りあれ」
「なんじのうえに、さいわいおおからんことを」
子供は暗記したらしい定型句を唱えた。
信仰実践を行なっているから追い出せない、という理屈で容認されているのだ。
「これ、巡礼の人たちは感動しただろうな」
探索者ヴィクロムは、効能書きに向き直って睨んだ。
「本当に湯の効能か? 魔術的に意味あるのか、これ」
学士ウァコルが答えた。
「ありませんよ」
「ないのかよ。道理でただのダジャレに見えたわけだ。
信仰心につけこんで金を巻き上げるのが宗教の務めなものかよ」
ただのダジャレだった。聖者の名前にそれらしい言葉をこじつけただけだ。
「浮浪児に寝床と食事と尊ばれる仕事とを与えるのは宗教の務めといえるでしょうか」
ヴィクロム・インヴィットは沈黙した。
当世の価値観では、宗教組織の役割といえる。
「この文法式は民間信仰の対象です。
力ある記号を並べておくと忌むべき者たちは読まずにいられないと伝えられます。その間に聖なる温泉の力で浄化されるのです」
「読まずにいられなかった。俺って忌むべき者だったのかな」
温泉に入ると、浄化されなかった。忌むべき者ではないからである。
人は湯に浸かる。
湯気を眺める。一粒一粒を観想する。
流れを聴く。一滴一滴を観想する。
すべての微細の中に宇宙がある。熱い水に浮く頭蓋も内に神を宿すであろう。
湯煙の向こうには世界の真実があるであろう。
探索者の思考を、果実牛乳が現実に引き戻した。
「風呂上がりはこれですね」
果実は豊かさである。古い書物が伝える。やせた土地の農牧民は牧草と果樹の限りない地を夢見た。
「ああ。戻ってこれないかと思ったにゃ」
「入浴は死のリスクを伴います。一方で〈公式の効験〉では入浴は霊的な清浄に寄与します。集合浴場というのは理にかなう、と土地の人は言うわけです」
「これも習わしの合理化か」
「儀礼の真実に沿った合理化です。一斉に入浴を行なう共同体の儀礼の謂れです。
まあ、儀礼と呼んでよければの話です」
「そこは自信ないんだ。儀礼の定義者として」
探索者ヴィクロムは相槌を打ってしまった。聞き流し損ねた。
「原則に従うなら儀礼です。部族や結社の会食を儀礼と呼んでいないので、それに合わせれば儀礼ではありません」
「会食というのがあって、儀礼と違うんですね?」
前提を共有しないウァコルの語りを緩めさせる。
亜竜人はなんだかんだで話を聞く態勢に入っていた。
「はい。会食は儀礼未満の社会行動です。既にある結束を強めるのに有効です」
学士ウァコルは儀礼の機能を論じる。儀礼を欠いた状態で諸部族はそれぞれの利害関心を追求していた。
裏を返すと各部族の人々はそれぞれ利害関心を共有していた。
そこでウァコルは、会食という儀礼未満の行動でも、共通性の高い集団ならば一体にすることができる、と論じた。
同じ釜の飯を食う仲間というものだ。
これでは儀礼未満とは何かという問題が新たに表に出てしまう。ウァコルは伝えたい内容のために論の整合性や簡潔さを損ねた。
伝えたかったのは、魔王が正しい儀礼をやってすごかったということである。
「一方で儀礼には共通の利害関心を作り出す機能があります」
「機能? 〈公式の効験〉と別か。
儀礼にしろ選挙にしろ、参加者は共通の利害関心を作るためとか思ってはいないんじゃあないのか。
お前が儀礼未満だという会食や集団入浴は、親睦を深めようと思ってやることもあるよな」
亜竜人ヴィクロムは異論を唱えた。
祭祀者ウァコルが答える。
「親睦を深めようと思ってできる、会食はその点が儀礼未満なのです。
儀礼を共通の利害関心のためと思っては、正しく行じることができません。機能は意図せずして発揮されるのです」
「そうなの!? 好ましい結果が意図せずして出るとはややこしいな」
「儀礼は形式のため、または形式を必須とする神のため行じるのです。設定ではないし利益を得る手段でもありません。
人間ふぜいが儀礼を手段に貶めれば、機能は損なわれます。真実は都合のいい単なる設定になるのです」
「熱が入ってきたな。そろそろ止めようか」
「政争や金儲けの道具となります。愚痴を聞きますか。神の議論がいかに政治で決まるか」
学士ウァコルからすれば、祭政一致の古代国家の中で自分は不当な評価を受けた。
猫の人ミランディが牛乳瓶を置いた。
「なんだかにゃ。気に入らないにゃ。
湯浴みして飲み物を飲んで、馴れ合いを演出しているにゃ」
ここではぶちまけた話をするものである、という浴場の演出効果だ。
ザハロン=ナハロンの共同入浴は大小様々の政治の場だった。公式の会議に先立つ根回しは浴場で行なわれる。
猫の人ミランディが不信感を口にすれば、ヴィクロムも同調する。
「俺も嫌いだな。裸の付き合いで本音を晒すとかいった茶番には」
「黙れ。本音を晒す茶番とか斜に構えておいて、自分語りに取り掛かるお前の心根が拙僧は嫌いです」
ヴィクロム・インヴィットは沈黙した。
「あほを黙らせると、愚痴とかはどうでもよくなってきましたね。どうせ今後この迷宮で聖堂史も王統史も前面に出ることがないと思います」
祭祀者ウァコルは存分にしゃべって満足した。
儀礼や神はしばしば都合がいいから信じるだけの建前となる。政争の道具だ。
学士ウァコルの時代でも、はるか未来〈正しい教え〉のもとのザハロン=ナハロンでも、教理は政治と切り離せない。貴族の縄張り争いのために教理が作られる。
貴族の縄張り争いは当時の民衆からすればどうでもよかった。
どうでもよい争いに税を持っていかれ、働き盛りの者を持っていかれ、兵士崩れの山賊を置いていかれるので、嫌っていた。
山村にせよ漁村にせよ町にせよ、多くの人々は貴族や高位の僧を侮っていた。
人々は身近な僧を敬った。神様の知識がある立派な人物で、小さな相談にも親身になってくれる。
乱れた性生活や落ち武者狩りを慎め、といういつもの説教に耳を傾け、功徳を積む行ないを教わる。
いつもの説教なのは、常にやっているからである。
また人々は王様というものに漠然と敬意を抱いた。神様に護られたはずの王様を横暴な貴族や堕落した僧がいじめる、と捉えた。
噂に聞く聖者を敬った。聖なる知恵のある、権力になびかない大人物を崇めた。
聖者が来ることがあれば、身近な僧の先生が自ら丁重に出迎えるので、聖者とはよほどすごい人なのだ、と尊敬を強める。
ある人々は建前を信じきって、厳然たる真実にする。聖者の名前を使った悪ふざけは功徳ある文言で、果実牛乳は魂を清める飲み物だった。
党派対立の結果の神像破壊令や神像建設令や教育改革と、各地の習慣とを、種々の聖者伝説がすり合わせた。
人々の信仰心を、強大な党派も無視できなかった。
時に政治が神を使い、時に神が政治を支配した。
ある村の言い伝えにいう。
かつて聖者がやってきて、聖なる像を破壊した。
村人たちは仰天した。
村一番の学識ある人を通してわけを尋ねた。
聖者様、なぜ聖なる像を破壊なさるのですか。
聖者は答えた。
私が神を念じていると、しだいに像が神に思えた。よって破壊した。
像は神ではない。いったい、魚という言葉を食べるものか。絵に描いた木から丸太を伐るものか。
神ではないものを崇めてはならない、と聖典は伝えている。
そこで像を破壊したのだ。
学識ある村人は真実を知って感激すると同時に恐怖した。今まで当たり前に崇めていた神様が嘘だったと判明したのだ。立っていられないほどの衝撃を受けた。
聖者様は正しいことを仰います。正しすぎて私たち俗人にはとうてい真似できません。
神様を敬うには、一体どうすればよいのですか。簡単に教えていただくことはできませんか。
像を崇めていたのは、知恵はなくとも、純朴で実直に働く人たちだったのです。聖典を理解する知恵がなければ神様に忠実にあることができないのでしょうか。
どうか私たちを助けてください。神様を正しく敬うことができるように導いてください。
聖者は告げた。
二日間にわたって、二十二人で地面を掘りなさい。
言われた通りにすると、地面から熱い水が湧き出た。
人々は石を積んで湯を溜めた。
とても霊験ある湯で、人が触れれば病気が治り、石が触れれば美しく輝いた。
働く人々は湯を浴びて、若々しく力強く徳高くなった。
学ある村人は僧となって聖典を読み、人々を教え導いた。
人々は聖者に感謝するため立派な祠を建てて、今でも朽ちずに残っている。
この手の起源譚はザハロン=ナハロン一帯のあらゆる町に存在する。
南西方の火山地帯には温泉がある。伝説を総合すると、六三人の聖者が、杖を倒すなどして四二九〇箇所で湯を噴出させたらしい。
伝承というものは雑多である。物語が語られる思惑は重層をなすからである。




