プロローグ:学士は忘れない
すべてが神聖になった瞬間を、学士ウァコルは忘れない。
低い歌が歌詠者の喉を出る。儀仗兵の剣が揃う。
厳密な形式が高速舞踊の情熱を統御する。
軽重の金属音が、膜を打つ音が、規則正しく中空を揺らす。
木々がざわめく。水が流れる。そして火が燃える。祭火が、燃える。
世界で感じうるすべてのことを学士はいちどきに感じた。
学士は生まれて初めて、正しい祭儀を目の当たりにした。
近古の時代の事典が記す。
ヨリアジスのウァコルは、マリニア生まれの歴史家・地誌家・占星術師である。著書の多くが散逸し、引用および影響を与えた書物から内容を推察するばかりである。魔王戦役について貴重なマリニア側の証言を多く提供したものと考えられる。
魔王戦役下のマリニアの地で土着の樹木数秘術とともに東方の諸学を修め、西都連合による併合後は学芸の中心地ヨリアジスに移住した、と『ヨリアジス学士列伝』が伝える。西都連合とは普遍帝国のことである。
近古の事典編集者が閲覧しえた学士列伝も、当時残存した著書も、当世に至るまでに失われた。
学士ウァコルは不服だった。
形骸だけの堕落した祭儀が気に入らなかった。
大帝国の誕生以前、魔王が台頭する直前の、歴史の中の一幕だ。
神々は社会制度の中に消えつつあった。
祭祀集団は落ち目で、古い形式に固執するのはまだいい方だ。
目新しい式次第を作り出して頭領たちに金をせびる。
不殺生や友愛という当たり前の美徳を南方的として退ける。
軍礼において殺人が称賛されるからといって、日頃から殺し合いを行なってどうするというのか。
先の連合戦争で敗色が濃厚となったとき、盟主は神秘実践にのめり込んだ。
必要なのは正しい祭儀のはずだったのだ。
個人の神秘実践は重要な行為ではあっても、連合のための祭儀とは無関係だ。戦況を変えなどしない。
祭祀集団は複雑な祭儀を売り込んでおいて、何の効力をも王に与えなかった。
神意は不可知だとかいった知的怠惰の言葉を並べるばかりで、瑕疵を気にも留めない。
祭儀によって神々を祀って施主に効力をもたらす、という原則すら蔑ろにされた。
学士ウァコルは奮闘した。
祭儀の復興を目指した。堕落して滅びを待つか南方に迎合するかしかない、はずはない。
中北部は盟主をなくし互いに争う。足を引っ張り合う。学士は再統合を志した。
試行を繰り返した。失意を繰り返した。
あるはずの対応策は、侵略の手が及ぶまでに実現しそうにもなかった。
そこに、魔王が現れた。
先の盟主の娘には、何も期待されていなかった。
愚かな頭領たちは、征服される前に利用して目先の利益を得ようと企んだ。
敵が影響下に育て、部族間に不和を起こして各個撃破すべく送り込んだものと学士たちは評価した。
王権を証する角までも落とした小娘に、何ができようか。
「頭を垂れよ」
そして都城は崩れ落ちた。
学士は正しい祭儀を見た。生ける神話を見た。王を立てる神威を見た。魔王が執り行なった祭儀のうちに、その瞬間を経験した。
だから学士は忘れない。
世界のすべてが神聖になった瞬間を、学士ウァコルは忘れない。
学士は祭祀の儀軌を知っている。機序の存在を知っている。感動を起こす作用を知っている。
霊的体験は一瞬で過ぎ去る。日常の泥に埋もれる。
学士は忘れない。
瞬間の感動を忘れても、感動の存在を忘れはしない。だから何があっても絶望しない。学士はその瞬間のためにあり続ける。
祭儀がすべてを神聖にしたという真実にしたがって、ウァコルはウァコルであり続ける。
【迷宮管理系作動中】
【召喚が成功しました】
「久しぶりね。祭祀者ウァコルよ。最後に会ったのはハシュペフチャ劇団の劇中かしら」
石や苔が光を放ち、広間を幽かに照らす。
ここは迷宮、無形魔王城である。
癖毛のツインテールが垂れる。魔王である。
「やはりあのときお会いしていたのですね。我が王。劇中で魔王とウァコルとが語ったのは単なる虚構かとも思っておりました」
中近世から近世にかけて数度、魔王の下の学者ウァコルは世界市民・祭祀改革者・放浪作家として脚光を浴びた。演劇の役となった。
ウァコルは魔王の傍らを指して言った。
「我が王。それは何ですか」
傍らに控える鎧の男を、それと言った指した。
「これが何か、誰かという答えを聞きたいのではないのでしょうね。なぜこの男がここにいるのか、ここにいるのは正当でない、とあなたは言いたいのでしょう」
「然り。その下賎な糞喰らいの犬をそばに置くのは、ふさわしくありません」
糞喰らいの犬とは、牧畜生活に根ざした侮蔑表現である。
犬は人糞や畜糞を喰らう。ものによっては、これから脱糞しようとするところに鼻先を近づける。
犬が人畜の尻を追う情景になぞらえて、性衝動をあらわにし汚く振る舞う人間を糞喰らいの犬と蔑むのである。
意味の薄い単純な罵倒としても用いる。
「わたしはあなたの口から、そのような揶揄ではなく、わたしの死後のできごとを語らせようかと考えていた」
「そんなことはどうでもよいのです。なぜよりにもよって一の家来に、それを呼んだのですか」
「呼んでいない。その辺にいたの」
「学士にして祭祀者ウァコルが魔王陛下に請願いたします。どうかお願いいたします。捨てましょう」
「嫌よ」
すると傍らで鎧の男が口を開いた。
「我らが王が仰せである。己のことはどうか気にするな」
「黙れ。人がましく口を叩くな」
「ウァコルの言うとおりよ。利剣。誰が喋ることを許した」
剣士は沈黙した。
怒り収まらないウァコルがさらに言った。
「我が王。これは最初から無礼だったようではありませんか。口にするも憚られる行状に対し、あなたはいかに報いたのでしたか」
「祭祀者ウァコルよ。わたしは、この者が近づけた顔面に頭突きを加えた。脇腹を叩いた。顎先を殴った。鳩尾を蹴った。腎臓を肘で突いた。
するとこの者は涙を流し、自身の行ないを悔いた。わたしは頭を右回りに撫で、頬に鼻を当てて、臣下として受け入れた。
受け入れてから、股を強く打ち、二度と妙な気を起こすなと言い含めて鼻を殴った。
あなたには不満なのでしょう」
「手ぬるすぎます。王に相応しくありません」
ウァコルは答えた。望むと望まざるとにかかわらず、死をもって侮辱に報いる当たり前の義務が王にはある。魔王は、剣士を後遺症もない苦痛で済ませ、そばに置いた。
甘い対応だった。南方で育って惰弱になったとしか思えない。
付け加えると顔面への頭突きも、相手の体液で尊顔を汚すため瑕疵となる。
「わたしの対立候補たちは、死の裁きや報いを課した。結果として一帯を束ねた王はその誰でもなく、わたしだ」
「他ならぬ寛大さにより諸部族を統合したとは認めます。あなたのもとでなら、すぐさま殺されることがない。だから人々は支持した。生かしてもらったから、命を懸けて戦った。ああ。時代なのでしょう」
学士の祭儀改革は限界にぶつかった。
魔王の国家祭儀は活路を見出した。
ウァコルにとって、理想の完全な実現ではなかった。
「よき伝統を懐かしむか。
わたしはわたしのために死ななければならなかった人間のことを覚えている。死んだ人覚え歌で覚えている。
これも後世の者には冒涜に聞こえるものよ」
歌に名声を残す戦士の誉れも、はるか後代の耳には人の死を弄ぶ侮蔑と聞こえる。
歌や踊りは低められ、歌や踊りになることを志した古い英雄たちは讃えられ続けた。敬意を表明する様式は移り変わってゆく。
伝統は変化を余儀なくされる。歌の中の神は廃れてゆく。
神々は社会制度の中に消えつつあった。
推測されるところ歴史上の魔王は、儀礼を復活させながら南方との折衷を図った。
残虐死の習慣を改めた。失敗者に挽回の機会を与えた。
傷つけ合うな。裏切るな。殺すな。当然の美徳を尊んだ。
あるいはそれが、のちの帝国による同化を助けた。
一説には、帝国時代中期にあって初期の強大な敵が忠実な建国の十傑とされたのは、そのためである。




