迷宮〈無形魔王城ヂアハトリーギ〉第一の番人・名も無き兵士
「すっぴんで戦いに出ようなんて、言うんじゃあないでしょうね。
第一の番人。両手を出しなさい」
地位のある戦士たちは戦化粧を欠かさない。顔や身体を彩って敵を威嚇し、自身を鼓舞する。
死にゆく者への手向けであり、死をもたらす猛者への敬意である。
第一の番人は両膝をついて、両手を差し出した。
盆が手の上に置かれた。
盆には鮮やかな色、暗い色、白色の粉や脂が区分けされて載っている。
ここは迷宮である。無形魔王城である。
「もっとましな顔をする。わたしが手ずから施してやろうというのだから」
名もなき兵にはあまりにも畏れ多かった。
拒む余地はない。立ち上がることもできず、盆を置かれた手を動かすこともできない。
魔王の手が兵に触れた。
人間たちの命を握るべき柔らかな手だ。
王はかれの顔面を上に向け、触れて凹凸や硬さや体液質を調べた。
王が刷毛や筆を手にとって、戦士の顔を作る間、かれは王を見ていた。
閉じた小さな口元を見た。王は力ある言葉を発する。生かし、殺す。
成果を食む。噛み砕き、呑み込む。
癖のついた髪を見た。髪は人生儀礼の中で結われ、また切られる。
怨讐や雪辱の誓いが結髪にかけて立てられる。果たされる日に結われるであろう、解かれるであろう、梳られるであろう、などと誓う。
王の髪は二つ結びにされている。何人も粗雑に扱ってはならない。
真剣で冷徹な眼を間近に見た。垂れ目をつり目に作っている。または、つり目を垂れ目に作っている。生まれながらの王に原形と細工との違いは意味をなさない。
装って作り物として在ることと、開示し自由に振る舞うこととは、少女にとって同じなのだろう。
魔王の手が、容貌を整えてゆく。筆を使い指を使って、皮膚を彩る。同時に、魂に戦士の使命が刻み込まれた。
死にたくないと兵は思った。
この方に何も返せないまま、死ぬわけにはいかない。
「眼を閉じよ」
兵は眼を閉じた。
戦化粧の要だ。
鷹の目をかたどるアイシャドウは邪視避けとなる。
視線による霊的作用の観念は沙漠と河の通商都市の発明だという。
機織りや漁師に伝わり、各々のやりかたで視線をはね除ける。
王は低く歌う。
「鷹が下界を睨むのではない。下界の者たちが、空を遊ぶ者の力ある視線を恐れる。
邪な視線はわたしに勝たない。眼で戦う者は自らの眼の大きさを自ら決めるからである」
兵は化粧の出来を判断することができない。
人は自分の眼の周りの意匠を見ることができない。
「自分は戦士らしくなれるか、と不安か。
当然よ。わたしが何だったか思い出しなさい」
第一の番人は、施された戦化粧に、絶対の信頼を覚えた。
王に形作られたからには命を懸けることができる。
「行きなさい。わたしは問う。
戦いに出て、あなたは倒れるか」
「否」
そして、使命があった。
「さて階層もそろそろ終わりであろうか」
探索者たち両人は迷宮を歩いて、大きな円い部屋に入った。
【第一階層 試練の間】
「ここが試練の間か~入ってみよ」
「もう入っておろう」
すると、その部屋の床に、中央から紋様が広がった。
光の曲線が蔓状に分岐を生やし、右回りと左回りを数度繰り返し、床を埋める。
埋めるかと思えば、出発点から順に消えていった。
床を埋めた紋様が消えると、外周から中央へ数条の線がうねって伸び、放射状の模様を作った。
蜘蛛の巣に似て蜘蛛の巣と異なる。雪の結晶に似て雪の結晶と異なる。
魔術のための記号化された紋が、ひとりの戦士を喚起した。
古代の戦士、半裸体に威圧的な紋様を入れた男が、現れた。
【第一の番人、名も無き兵士が立ち上がりました。あなたは試練を受けなければならない。】
「さぞや名のある戦士に見えるがね」
レブが軽口を叩く。
身体を彩るだけでなく顔にも化粧を加えている。
いかにも蛮族の戦士として想像される姿格好である。
いかにもな想像の源となる古代の記録は、戦争時に偏る。
蛮族と呼ばれる人々は戦いのない時、ない地で交易を行なった。毛皮や工芸品や傭兵を売り、青果や織物や金属器を買った。河に船を出し、風を読んだ。
寒冷な中北部世界には、半裸体よりもよほど適切な服装がある。戦時にのみ、荒く威圧的な姿をとる。
軍礼だからだ。獣たちは、互いに傷を負わずに縄張りを争うすべを知っている。
第一の番人が叫ぶ。
「祖霊は見よ、末裔は聞け。この戦いを一切の神々に捧ぐ。
魔王様の下、この俺が一の番人である。
勇敢なる探索者はここを進め。この俺を倒して資格を示せ」
名告りは最も短い呪文である。そして、いくらでも長く飾られる呪文である。
戦士は名告りをあげた。
二、三百年という最近の伝承にいわく、古代の戦士たちは、先祖や子孫や神々が観覧することを念頭において行動した。演劇という媒体に都合のいい創作である。
捏造ではない。古代の戦闘習慣に、命懸けの大見栄は広く行なわれた。
現在の狭い状況を離れた栄光を志した。
軍礼だからだ。
挑戦者が応える。
「俺はヴィクロム・インヴィット、魔王譚文脈の亜竜人、俺もまた同じ王を仰ぐ。
貴様を倒して、進ませてもらう!」
倒した。
古代の戦士は地に倒れた。
亜竜人は言う。
「手強い相手だった」
白々しい。
第一の試練を越え、先を目指す。
次の階層へ進もうとして、足を止めた。
進むことはできない。この試練は続いている。
声がかかる。
「まだだ」
第一の番人、名も無き兵士が立ち上がった。
「俺は戦いに倒れはしない」
「倒れてもらう」
倒した。
「倒れぬ!」
第一の番人、名も無き兵士が立ち上がった。
探索者ヴィクロムは声をあげた。
「こいつ倒れないぞ!?」
後ろに立った吸血者レブが鼻で笑った。
「階層主に一撃必殺が効くか」
亜竜人は叫んだ。
「戦闘中のところ失礼ながらお尋ねします。なんで倒れないんですか」
敵手は言った。
「答えよう。探索者よ。拝命したからだ」
亜竜人は理解した。
「あなたは倒れるか」と魔王は言った。
「否」と戦士は答えた。それが魔法の完成だった。
第一の番人は、倒れない。
「そりゃ倒れないわけだ」
亜竜人ヴィクロムは言った。
「魔力点を一〇〇ポイント消費、スキル〈道具強化〉、スキル〈身体強化〉を使用する。
聞け。俺は今から槍を突く。
この魔槍ぶちぬき丸で、お前をぶちぬく」
番人は応じた。
彩色豊かな凶相が、獰猛に歪んだ。
かれは笑っていた。
「来るがいい。俺は逃げはしない。迎え撃つ」
「スキル〈槍術〉を使用する」
探索者は番人に向けて駆けた。
昔むかし、牛にして猫の怪物がいた。
怪物は神を祀って、不死身の肉体を得た。これを殺すことは、七歳になる前の子供にしかできない。
怪物は人を食らった。
怪物を殺す試みはことごとく失敗した。
矢は通らず、槍は折れた。
人々と神々とが怪物に、殺さないよう求めた。
怪物は、毎月一人しか殺さないと誓った。
人々の間で取り決めて、毎月一人を差し出した。
ある月、父と母と子とからなる一家が、差し出す番になった。
父母は悩み苦しんだ。父を失うわけにはいかない。母を失うわけにはいかない。では、この子を死なせるというのか。
子が、「僕が行って、怪物をやっつけてしまいましょう」と言った。
勇ましげに朗らかに、腕を振り回してみせた。
父と母はさらに深く悲しんだ。
子は地上世界の恐ろしいことごとをまだ知らない。何も分からないまま、この子が怪物に食われていいはずがない。
いっぽう、子は何も知らないなりに、悲しみを思いやることを知っていた。気遣うこともでき、気遣いの失敗にも敏感だった。
子は神々に祈願した。お願いです。僕に怪物をやっつけさせてください。
月の神が槍を授けた。お前がそれを持ち上げれば、槍は敵を貫くであろう。
槍は重い。子は踏ん張った。何としても持ち上げようと踏ん張り、ついに槍を持ち上げた。
子は怪物に立ち向かった。
槍を突けば、牛にして猫の怪物を貫いた。
七歳になる前の子が、殺すに至ったのだ。
月の神は別称に「突き」と呼ばれる。
その土地は今も、牛にして猫という意味の、変わった名前で呼ばれている。
このときの槍が、ぶちぬき丸の起源である。
探索者は謂れを知らない。
番人も謂れを知らない。
決着があった。
槍は番人の手持ち盾を割り、剣を破り、身体を後ろへ吹き飛ばし、胴に穴を開けて、壁に突き刺さった。
「なあ。探索者」
【探索者は、第一の番人、名も無き兵士を破りました。】
「俺は、倒れなかったな」
末端から光の粒に消えてゆく。
槍と壁とが番人の身体を立ったまま支えていた。
「そうらしいな」
探索者ヴィクロムは見送った。
第一の番人は戦化粧を施していた。
打ち勝つ敵対者への最後の敬意である。
光の粒に消えてゆく耳に、ひとつの声が届いた。
「力がほしいか」
番人に悔いはない。全力を尽くした。
「あなたは、無名の兵士には思われない。あったのではないのか。名声をなす機縁が、あなたにありえたのではないのか」
第一の番人に、ある光景が思い出される。
経験したことのない、ありえたかもしれない光景が、思い浮かぶ。
「たしかにありえたかもしれない。あなたは何なのか。何者か」
「ひとまず私のことはレブと呼べ」
番人が戦った探索者の、後ろにいた者である。
「いや何やってんのお前」
「言ったではないか。ヴィクよ。君の前に多くの苦難を置き、危険をもたらす、と」
二者の会話が遠のき、番人は過去を幻視する。
兵士は、町の広場で冠を授かっているところだった。
一家の守り樹の枝で編まれている。
「スティリルで、私は、あった。
これよりお前が、スティリルである」
知者たちの立ち会いのもと、先代が冠と小剣を与える。
武装隊商の跡を継ぐ儀礼だ。
これは夢だ、と次代は思った。
武装隊商の生業など身につけていない。
文字と数字とを少し読み書きする程度だ。
まぼろしは続く。一人前の武装隊商として他の商人とともに、武家の指揮のもと遠くへ出た。
河を上った。河を下った。物品を交換し、客と語った。
ありえたかもしれない生活が、偽りらしく速やかに過ぎてゆく。
「あなたは負債を果たした」
声を聞いた。
凛とした、武家の娘の声だ。
輿に姿を隠して座している。
スティリル襲名者には、その声の主が判別された。
「もはやあなたは戦う義務を負わない。
好きなようになさい」
スティリルは答えた。
「はい。好きなようにします」
すると、夢の世界は砕けた。
光はなく、闇はなかった。
スティリルは武家の娘に言った。
「私がスティリルとしての職能を身につけたとして、今、私が望むのは、これだけなのです。
私は戦いたい。
王や神々のためという義務を解かれても、戦うために戦うことを、私は欲します」
厭うべきことを告げる調子で言った。
かれは愚か者だった。
娘は言った。
「きれいだ。
よく似合っているよ。
戦いのために戦う行ないは、わたしに好ましい」
野火を煽り自らを焼きながら、次なる芽を準備する花が好きだった。
脅威を知って退かない人の子が好きだった。
少女は、死にゆく者を愛していた。
「お別れです。わが慕わしい魔王様」
「お別れだ。わが愛おしい兵士よ。
最後にわたしから祝福を与えよう」
【迷宮管理者権限において、第一の番人の任が解かれました。】
【迷宮管理者権限において、固有名をもつ者としてスティリルが宣言されました。】
【迷宮管理者権限において、スティリルは祝福されてあれ。】
魔法の完成だった。
祝福すると述べると、祝福することができる。
「悪く思うな、探索者よ」
ここは迷宮である。
第一の番人だったものが動き出した。
光の粒に還りかけた身体が、再び形をなす。
「もう俺は第一の番人ではない。この戦いを戦いのために捧ぐ。
わが名はスティリル。
べつに俺を倒さずに先へ進んでもよい」
探索者ヴィクロムは言った。
「いや、倒す」
かれも愚か者だった。愚かだから、愚行に応じた。
必要もない第二戦が始まる。




