始まりのもみじ狩り
「来ちゃった。聖女ちゃん元気? お邪魔しまーす」
「まず聴講届を提出して、受理したら、靴を脱いで入室するのです」
時空円周城コーギトーは万人に開かれている。特に年に数回の催し物の時期は、魔除けとしての規則上の入構手続きも必要ない。教室の戸口までなら、伝説の人物がいてもおかしくなかった。
薄暮のコーギトー全域で、灯明が足元を照らしていた。夏至祭を前身とした祭の時期である。
余裕を持たせて白シャツを纏い、なめらかなスカートで靴までを覆う。
癖のついた二つ結びが音もなく揺れる。
魔王である。
「元気してた?」
「詠唱を開始するのです。
緑の海より吹く風が
青き山々に水運ぶ
集うは四方の学士たち
生より長きは知の系譜
たたえよ我らが学舎を」
攻撃性の呪文詠唱が返答だった。
「わたしもまた詠唱を開始する。
息災なれ館の主人、賓客は祝福す、主人の栄誉は高められよ、接待礼の重きゆえなればこそ」
古代世界の周縁部にあたる通商地域において、賓客接待は信仰上の義務だった。
館の主人は賓客の手または足を水で洗う。
賓客とは、じつは火である。火の手または足を水で洗うことになる。
かつて火神の手足たちは神々の頭領より逃れ、水神に援助を求めた。水神は火の眷属たる諸神の不満を癒した。
ゆえに、館の主人は賓客の手または足を水で洗う。
二つの呪文が、学術の聖女と魔王との間でぶつかり、火花を散らした。火花は教室の床に届く前に中空に溶けた。
「木々は天へと生え育ち
魚は瀬に淵に水を探る
志ある者きたれ
生より長きは知の系譜
たたえよ時空円周城」
聖女の詠唱は続く。
「学においては懸命に
行においては慈悲深く
向上向下の使命もて
生より長きは知の系譜
たたえよ我らが学舎を
ああ我が学究、我が修練、我が使命」
対して、魔王は短い決まり文句を唱えた。
「経典の一節をだに、朗唱する者、暗記する者、書写する者は、限りない福徳を積むものである」
聖俗を問わず、多くの古伝承の冒頭や末尾に決まり文句が記される。複製の霊験について追記された本ほど、よりいっそう、写字者たちの複製するところとなった。
文字を知り閑暇を有した者が、当世よりも少なかった時代のことである。
大昔の詩人や学僧に、その人自身の魔術師伝説が生まれるに至った時代でもある。
繰り返し読まれ語られることで死後も言語活動を続けたのは、魔術的な長命である。
なお、文字資料を多く残さない魔王が蘇るのは、また別の流れである。
学知を守る聖女と、踏破されざる未知そのものである王とが、力をぶつけようとした。
詠唱が完成し、魔法が宣言される。
「知を増大せしめよ。魔法・迷宮〈コーギトー〉」
「詩節の経を読誦せよ。魔法・迷宮〈アーバスキュール〉」
そして、何も起こらない。
すでに顕現しているからだ。
ここは迷宮である。
〈時空円周城コーギトー〉であり、〈毒樹枝節経アーバスキュール〉である。
睨み合う。
見つめ合うといった方が近い。剣呑な大技を用意しながら、緊張した様子がなかった。
「魔法を撤回するのです」
「撤回を受け入れる。魔法を撤回する」
「撤回を受け入れるのです。どうぞ、お入りになるのです」
魔法は撤回され、来訪者は招き入れられた。
「ヴィク、わたしのヴィク。こちらへ来て両膝をつけ。また、両肘をつけ」
「何だ。俺に」
「指図するなと言うのか。あなたが知る限り、願う限りの魔王像に、わたしは反することができない。あなたがなければ、わたしはない。
恥を知れ。跪け」
ヴィクロム・インヴィットは教室入り口へ向かい、両膝をつき、両肘をついた。
「いい子ね」
小さな王は、跪いた背中に右の靴底を置いた。
わずかにスカートを持ち上げて紐をほどき、足を取り出す。
「でれっでれに甘えた声でよく、恥を知れなんて言えるものなのです」
「ロリ声はどっちよ」
ちゃかす聖女に応じ、右足を床につけて、左の靴をも背中に置いて脱いだ。
左足を床につけ、右足で男の髪を軽く撫でてから、言った。
「今後とも励みなさい。立ってよい」
ヴィクロムは立ち上がった。
「扱いが雑なのです。いくら彼が欲しているからといって、見よいものではないのです」
「擁護する体で、俺が足蹴にされたがっているみたいに言わないでください、先生」
亜竜人は竜のイメージを扱う。人が仰ぎ見たものと亜竜人が思うものとが一致する限りにおいて、強力な魔法を喚起することができる。
魔王譚文脈の亜竜人は、願うところの魔王像に従わせて喚起することができる。従わせずにおくことはできない。
魔法はイメージで動く。魔法を外に具現化することは、使い手の思いを晒すことである。
「聖女らしくもない、誤った推論ね。彼が欲したのは足蹴にされることではなく、特定の枠組みにおいて、特定の人物に、特定の目的で、踏みつけられることである」
「笑いたけりゃ笑えよ」
ヴィクロムはぶっきらぼうに言った。
魔王は彼の方を向き、目を見上げた。
「あなたの考えるわたしは、あざ笑うか」
ヴィクロムは目をそらそうとして、失敗した。
「今日、答えを、聞きにきた。あなたの考えるわたしについて答えよ。
先日わたしは、あなたの話なら紅葉が舞う季節にまた聞く、と言った」
「今は初夏だろ」
夏至祭を前身とした祭の時期である。
「じゃあ、紅葉を舞わせてあげたら、答えて」
魔王は歩き出し、窓に近寄った。カーテンを開けるため下げられた紐を手に取った。
「彼がわたしについて知ったという、他ならぬこの真実にかけて、木々の葉は色を帯びよ」
カーテンが開く。
はたして、窓越しの景色の中では、植えられた木々が、暖かな色に染まっていた。
薄暮のコーギトー全域で、灯明が足元を照らしていた。木の葉は色を帯びた。
亜竜人は言った。
「綺麗だ。たしかに木の葉が色を帯びている。紅葉が舞うと言えないこともない。
俺は、以前に思っていたのと違って、魔王様があざ笑うとは、思わない」
「そう。あなたは、甘くたしなめられ、優しくあざけられるのを、好まないの?」
「ぜんぜん好きとかではない。いや。好む。好みます。
あなたがあざけるとは、思わない」
素直な答えに、魔の王は微笑んだ。
「あざけるのだと、わたしが言っても、思わないか」
「あなたはあざけらない。愚か者を愛し、かつ慈しむんじゃあないのか」
しばし二者は沈黙した。
魔の王は言った。
「合格ね。今のはあなたを試していた」
「上位存在の気まぐれ試練やめろよ」
「もしあなたが、あざけらないと言わなかったなら、わたしは消えてしまうところだった」
「そっちの存否がかかるのかよ」
薄暮と灯明が部屋に差し込む。
ここは初夏の教室である。
「あなたは、夕日と灯明とが葉を染めて赤く見えるのだ、と言わんとした。これは偽りの紅葉である。
偽りなどない。わたしが、紅葉が舞うと言ったら、紅葉が舞う。
今、それを示す。
わたしの亜竜人が、わたしのあざ笑わないことを知った。
この真実にかけて、紅葉はここに舞い込め」
魔王は言って、窓を開けた。
すると、紅葉が舞い込んだ。
教室内へ風が吹き、正真正銘、緑色を失った葉がおびただしく入った。
樹上都市の蒸し暑い空気を、秋色の葉が埋め尽くしていた。
「ガス灯、なのです」
「よくぞ今まで言わないでおいてくれたね」
聖女は褒められて、にへ、と笑った。
聖女は、古い時代の巫女たちにつらなる者である。
かつて、洞窟に閉じこもった巫女たちは、甘い空気を吸って陶酔状態に至り神託を降ろしたという。洞窟の中はいわば死者の世界である。
秋の木の葉は色づいて地に落ちる。熱を持たず燃える葉は、生者と死者との世界を渡る火の粉なのだ。
換喩の原理に従って、腐った果実は隣り合う果実を腐らせる。
換喩の原理に従って、死者の世界の燃える香は、葉に燃える色を与える。
「信じるか、魔王譚文脈の亜竜人ヴィクロム・インヴィット」
当世を生きるヴィクロムは知っている。
古代祭儀の世界観を改めた諸学を知っている。
「あなたは、魔の王たるわたしを信じるか」
外からの風を受け、ツインテールが揺れる。
熱気の中を紅葉がただよう。
彼女が木々の葉を染めたことに、とてつもない魔法を見出す必要はない、と知っている。
少女は偶然の一致を、偶然でなかったと後付けすることもできる。
彼は答えた。
「信じるよ」
それが、魔法の完成だった。
「俺は、魔の王たるあなたを、信じる」
魔法の完成で、物語のささやかな始動だった。




