誘惑者の通過儀礼
わたしは歌おう、と言って、物語詩が始まる。
体と心との動きを、詩は伝えない。
そして、舞踏衝動は、動き出す。
「カー学生。辞書の扱い方をお教えします」
乾いた空気に埃が舞う。
地上階の光が射し込む。
ここは書庫である。
「書棚をご覧なさい。背表紙の上に棘が生えているのが見えましょう。背表紙に指を掛けて引き出すことがないように、棘を設けているのです」
「背表紙に指を掛けて引き出してはならないのですか。師よ。何故なのか、仰ってください」
当世にいう書籍は、紙を束ねて作られる。最初の一枚に表紙を付す。束ねた側面の一つに背表紙を付す。最後の一枚に裏表紙を付す。一体になった直方体形のものである。
表紙代わりの紙と合わせて糸で綴じた、簡単なものも出回っている。
「というのも、次のように詩節に言います。『背の天に触れずにおけば、背とページとの接合は長く保たれよう。指で引けば接合はたちまち潰え、その者は知識を得ない』」
表紙とページとの接合部上下は傷みやすいため、布で補強される。扱う者も注意を払わねばならない。
カーは辞書を取り出し、机の上に置いた。
「表紙にまで棘が生えては、いませんよね」
無造作に表紙を捲ろうとし、痛みに指を離した。
表紙の内側には棘が生えていた。
「なんでだよ」
表紙を捲ろうとすれば、棘が刺さるではないか。非難がましく教師の方を見た。
「表紙を上に置いた状態で開こうとすると、刺さります。悪い開き方です」
「紙の接合を傷めるからですか」
「ご明察です。まず、背表紙を机に載せ、中程のページを開きます。ページの付け根、いわゆるノドへの負荷が軽くなるのです」
古く価値が高い書物は読み手を拒む。ときには物理的に拒む。
「大きな書物に共通するやり方ですよ。さらに、ある種の辞典を引くには特別の能力を問われましょう」
今机に伏せた背表紙には題字があった。
先古典期半島諸語辞典、魔王宮廷語の巻、と書いていた。
男の子は、魔王譚が好きだった。気高く哀しい戦士たちが好きだった。
魔王の将たちも、数人だけの討伐者たちも、滅びを定め置かれていた。
カーの友人付き合いの中に、ある女の子がいた。
「猛者カー! あたしが! 相手をつとめよう!」
木の枝を振る。
あるときは槍、次の瞬間は斧槍、次は薙刀、ひょっとしたら弓として振る。最後には決まって剣として掲げる。
イメージが魔法を動かす。子供らは魔法使いだった。
人間の集団生活に、外から危機が迫ることがある。
成長とともに木の枝を木剣に持ち替え、ごっこ遊びは訓練と名を変えた。
「あんたって弱いのね。あたしが稽古をつけてやるんだから」
男の子は一度も勝たなかった。
二人は変わらず踊り続けた。
二人は変わらなかった。最初から、見落としていただけだ。
少年には彼女以外があり、少女には彼以外がなかった。
女の子は強かった。強かったから、泣かなかった。
「やって、みろ。あたしは逃げないぞ! 食いたきゃ食え!」
真っ黒で真っ赤な怪物が大口を開けていた。
恐ろしく笑って、こぼれ落ちるよだれは地の草に触れるや否や、煙を上げて枯らしていた。
引けない。
背後にただ一人の大切な人を庇っているからだ。
小さな女戦士は観察した。その身体は落ち着いていた。
戦う技術の訓練は、動物としての人間の怯む性質を壊すことから始まる。
恐怖はある。恐怖しながらでも心身は動く。
よく観察した。
肉をずたずたに引き裂く歯が整然と並ぶ。
毒液の源は口腔の脇にある。口と連動して開くらしい。
口を開くのは獣の示威行動によくある。なるほど威嚇になるわけだ。
姿勢には一切の遊びがない。筋肉の一筋に至るまでが、いかに第三者の脅威を警戒しつつ確実に彼女を食うかを計算していた。
そして、彼女の動きを奪うのは、恐怖ではなかった。
恍惚だった。
見とれた。きれいだった。
口内は恐怖を模っている。
あまりにも美しいと、思ってしまった。
いつまでも見ていられる。
牙が迫り、彼女のすべてを永遠に閉ざしてしまおうとした。
次の瞬間、怪物はのけ反り、口から血を吐いた。
小さな女戦士は現実に覚める。危機を脱したと遅れて気づく。
「失せろよ」
庇っていた少年、彼女より弱いはずの彼が、一撃を与えた。何をしたかもはっきりしない。
「ただ強いやつに興味はない」
倒した。
怪物は容易く崩れ落ちた。
この後、カー少年はヴィクロムという名によって認められる。
守られた少女は、後日、ふらふらと町の外へ出て行き、帰ってこなかったという。
少年には彼女以外があり、少女には彼以外がなかった。
「少年は少女が知っているよりも戦えた。ふだんは手を抜いていたのか、と思ったろう。じっさいに手を抜いていたのかどうかは知られない。
彼女には見とれなければ怪物を倒す力量ぐらいあったかもしれない。彼には彼女を相手に戦いづらい要因があったかもしれない。二人がそれぞれ何を思っていたのか、わたしにはほとんど知られない」
祀る女が遥かな未来を語る。
大いなる祭火が夜を照らす。
ここは祭儀場である。
「唯一無二の友が、彼女が寄せるほど大きな好意を返さなかったのは、いくらか確かだろう。事件ののち、彼の対応は、仲間の一人が怯えていた、と捉えてのものに留まる。
彼女は怯えたという評価を嫌ったし、仲間の一人という扱いも嫌った」
相槌が入る。
「我が友なる王よ。どちらも瑕疵があり、対して結果がやや重い。死なずに済んだといえど、女の子は町を出て行く。
戦闘を身につけたとはいえ結婚もしないうちの、まだ子供であり、私には過失を責められない」
「さて、客人よ。未来において、町を出て行くというのは、今ほど重大で危険なことではない。未婚うんぬんも、未来においては今と同様には通用しない。
とはいえ二人にとっては重大な結果だったし、未熟だったので責められないというのも、理がある」
「二人は再会することがあるのだろうか。語りたまえ」
「当人らは記憶を薄れさせているかもしれない。もちろん、過去に対して重荷を感じているかもしれない。忘れたまま肉体および言語および精神の活動に反映させているかもしれないし、今の話はわたしの作った話で、未来に起こることはないのかもしれない」
「それでは彼および彼女がいるかどうかすら分からず、再会するとはいえないではないか」
ふふ、と魔王は笑った。
喜んだか。悲しんだか。それとも愛おしんだのか。
「再会するよ。わたしが物語を示したという、支配者の真実にしたがって、二人は再会せよ」
それが、魔法の完成だった。
お約束だ。劇の中で予言が実現するのは、聞いた人間が予言を前提に行動するからではない。予言として語られたからである。
このようにしてひとつの魔法が、時間の秩序を超えて効果を約束した。




