冠礼:メドゥーサ・ブレイクダウン
水槽の中に刑場があった。
「ご覧なさい姫様。魔法とは、こういうものなのですよ」
魔法と呼ぶに値しない、簡単なつくりの装置だ。
置くだけで水棲生物を破砕する器具である。
ウニの棘が折れる。
カニの殻が破れる。
クラゲの触腕が千切れる。
自ら罠に向かって漂う。
危険から離脱を試みては、かえって生き延びる術を失う。
他ならぬその回避行動を、器具は動作の一部に組み込んでいる。
抵抗むなしく、引き込まれてゆく。
罠は殺意を模っている。
魔法は強固なイメージで発動する。
古い理論では、イメージを固めるためのデザインを、魔法の中核としていた。
使い魔ホタルが青白く部屋を照らす。
ここは魔女の塔である。
今となっては神話に近い、歴史の中の一幕だ。
好奇心あふれる姫に、魔女は恐ろしい魔法の一片を示した。
魔道に誘ったのではない。
魔法のことは忘れなさい。願わくば、必要とする時が来ないように。
遠ざけようと、抵抗を試みたのだ。
目の前で小さな生命たちが次々に砕けてゆく。
愛らしく美しい生き物が肉片に変わってゆく。
王の娘は、ただ水槽を見つめる。
頭の先からつま先まで固まっていた。
水槽越しの光が瞳を照らす。
丸い頬を照らす。
そして、垂れ下がるねじれた角を照らす。
彼女は口を開いた。
「きれい」
固まっていたのは怯えのためではない。忌避のためではない。
恍惚のためだ。
生き物たちは自ら罠に向かって漂う。
折れる。破れる。千切れる。
抵抗むなしく、引き込まれてゆく。
幼い姫にとって、模られた殺意は美しかった。
今となっては神話に近い、歴史の中の一幕だ。
魔王の前日譚である。
まじない使いの入門儀礼において、水が据え置かれた後について述べる。
入門者の頭上で、師は手を右回りに回してかざす。
師とは、じつは太陽である。
かつて太陽が最初の人間を導いたとき、右回りに影を落とした。
師は手を右回りに回してかざすことで、入門者を導くことになる。
師は「お前は恋の涙を落としてはならない」と唱える。
というのも、ある人々は、恋は「私によってお前は動く」と語って人の力を損なうから、と言う。
またある人々は、見惚れた者はより弱い者となるから、と言う。
かくして、師は入門の祭詞を唱える。
魔女は王の娘に教えを授ける。せめて、より穏当な魔道を歩むように。
「姫様。『お前は恋の涙を落としてはならない』」
唱えながら、未来を憂えた。
姫が恋する者とは、『死にゆく者』か『殺しにくる者』だ。
魔女は再び、小さな頭をそっと撫でた。
ここは迷宮である。
樹上積層都市郊外の学園迷宮、〈時空円周城コーギトー〉である。
「それではタイムトラベルでいろいろな魔王を見ていくのです」
教師が紐をたぐって、真っ白な活動画幕を広げ下ろす。
背が低く、所作の一つ一つが危なげだ。
当世の聖女の一人である。
ただ一人の生徒がいた。
亜竜人ヴィクロム・インヴィットである。
メモに「ホワイトスクリーン」と記し、傍に「弱いオス」と添えた。
「大丈夫なのです? 聴いているのです?」
「俺はいつも大丈夫ですよ」
学術と教育を司る当世の聖女は、半眼でぐっと睨んでみせてから、言った。
「以上でお話したように、史上の魔王の伝承は、文字資料が得られる年代の上限で既に半ば以上伝説と一体化しているのです。伝説にしても、今知られている多くはごく最近、魔王を自称した僭主の時代以降に流布したもので、それ以前での扱いは『聖人伝のやられ役』か『別の英雄伝のガワを変えたもの』がほとんどなのです。
というわけで投影を開始するのです」
そして、過去が再生する。
傑出した個人の活躍が戦場に見出されていた、歴史の中の一幕だ。
歴史上少なくない僭主や簒奪者や抵抗者たちが、古の魔王を継ぐと主張した。
ある男が、抜きん出て有名である。
「以上のように古の魔王の行状をお前は知った。他ならぬこの真実にかけて、魔女メドンツィアの名において、お前の王位にあるを宣言する」
古びた塔に立っていた。
二人きりの即位式である。
魔女が洗練された所作で冠を授ける手振りをした。
「君は未練を解消してくれた。私はあの子に何も与えてやれなかったから」
幽霊は土地の因縁を語る。
旅人は歩みを止め、耳を傾けなければならない。
心を繋ぎ止めるものが解け、満足すれば、幽霊は消えてゆく。
古の魔王の時代を生きたという、物語の魔女は、光の粒となって消えようとしていた。
「誰が消えていいと言った」
新生した王は呼び止めた。
のちに魔王と名告って世に知らしめる、一僭主である。
「私は消えなければならない。私は諸悪の根源だよ。すべての荒廃は私に由来する」
「全部自分が悪い、と。調子に乗るなよ女、一人間が諸悪の根源などであってたまるか」
「古の魔王とは、かつて私が魔道に堕とした貴種なんだ」
「いいや。お前はそのクソガキに何も与えはできなかった」
「はっ。できたんだが? あの子の所業はぜんぶ私の影響なんだが?」
言い合いは程度を落としてゆく。
青年は挑発した。
「ほう、では同じようにこの俺に覇道を歩ませることもできるのかな」
「できるわけないだろう。君などあの子の器には到底及ばないね。せいぜい死後に美化してもらえるような宣伝でも打てばいい」
魔女の幽霊は主張を変え続けた。
人の言うところ、じつに、人間は相矛盾する思考や感情を抱くものである。
やがて魔女は投げやりに言った。
「もういいよ。何が浄化だよ。たった一つの想いが人間を形作ってたった一つの行動が霊を解放するなんてバカらしい。私は好きにやらせてもらう」
「それで?」
「ありがたく思え。君は優秀な助言者を獲得したぞ」
僭主の配下に、出自の知れないまじない使いの女がいた、と記録されている。
種々の歴史物語は想像を膨らませた。傀儡王権や、ロマンスや、真の出自や、未知の魔法を、こと寄せた。
歴史上少なくない僭主や簒奪者や抵抗者たちが、古の魔王を継ぐと主張した。
この男が抜きん出て名を馳せたのは、生前からのイメージ戦略と、死後の多くの創作によるところが大きい。
古の魔王に託けて一般に語られることがらのほとんどは、「かつて魔王がこのようにしたので、今このようにする」との語りに起源をもつ。
このようにして、魔王は魔王になった。




