たった一人の騎士のために
山は異界だ。
異界には恐ろしいものが待ち受ける。
「しょォがないにゃァ〜ア。ヨルムンガンドのガンダーラ、夜摩界陀羅」
猫の耳と尻尾とを持つ人物が立ちふさがる。
呼びかけに応じ、大地を割って蛇が現れる。
限りなく長く大きな蛇である。
ゼロにして極大なのだ。
蛇が、相対する少女を睨みつける。
見た目には普通の少女だ。
癖毛を二つに結んだ少女を、油断ならぬ敵と認める。
「しょォがないにゃァ〜ア。自己紹介いる? 名はミランディ、魔法は付与にゃ」
名前は最も短い呪文である。
堂々たる名告りには、魔法を引き起こす力がある。
ツインテールが応える。
「わたしミランダ荘産のトマトとかバナナとか知ってるよ。その怪獣も付与術なの?」
「ヨルムンガンドのガンダーラにゃ」
夜摩界陀羅が鎌首をもたげる。飛びかかる予備動作だ。
「とすると上にいる鳥みたいなやつは、ひょっとして、デュアルコアの」
「デュアルコアのケツァルコアトル、比翼輝地!」
少女は、まだ姿を現していないもう一頭の正体を看破しようとした。〈猫の人〉は慌てて、比翼輝地に呼びかけた。
ネタ潰しを避けたのだ。
高い声を響き渡らせ、空から鳥が降りる。
とても大きく恐ろしい鳥だ。
すべての部位を対とする。
蛇と鳥とが臨戦態勢をとる。
〈猫の人〉も、力を抜いたような姿勢から、いつでも戦闘に移れるはずだ。
獣の耳と尻尾とを備えた者は、一般に敏捷で身体動作に優れると知られている。
獣の耳を持つ者は、音を利用して周囲を探る技を使うという。
獣の尻尾を持つ者は、短距離高速移動術〈縮地〉を使うという。
地域によっては、威圧的なネコミミを飾るのが戦士の装いとなる。
三者とも油断ならぬ相手だ。
鳥よりも蛇よりも、〈猫の人〉が手強かろう。
「邪魔」
倒した。
「気になる男の子のために、ここにいるトカゲさんとお話し合いをする必要があるの。通してね」
怪物をどちらも退け、〈猫の人〉をも無力化した。
髪を揺らし、少女は悠々と山を歩いてゆく。
「しょォがないにゃァ〜ア。負けたにゃ。ところで今度甘い芋が出るから買ってにゃ〜」
〈猫の人〉を置いて、異界の奥を目指してゆく。
数日前の迷宮都市でのことだ。
樹上積層都市〈毒樹枝節経アーバスキュール〉である。
「バナナください」
「はいよ。野菜のバナナでいいんだね?」
「ええ。野菜属性があるやつ」
陽光の下で、買い手たちと売り手たちとの声が雑多に混じる。
ここは市場だ。
ツインテールの少女が、店主と話をしていた。
「市場って何でも買えちゃうのね」
「本当に何でも買ってもらえるなら店は安泰だね。お金で売り買いできるのは、みんなが必要なものだけだよ」
店主は華奢な身体の女の人だ。所作は豪快だった。
商品を扱う手つきは、丁寧ながら迷いがない。
「職人さんが丹精込めて作った鑑賞用の綺麗な皿は?」
「日用の皿しかないよ。芸術品はお金というより偉い人のコネとかで手に入れるもんなの。ブランド付与された品も含めてね」
魔法は強固なイメージで発動する。
人は物品に、性質や来歴の確定のため、記号を付す。
適切なイメージに基づいて記号を振るのが、ブランド付与である。
「〈君守り人形〉さんも、烙印を押されるのかな」
陳腐なイメージに魔力はない。
出自や霊的な性質を暴く「暴露殺法」は古典的な魔法破りである。
暴走する魔道具の封印に、付与による魔法破りが使われる。
「自分から分かりやすく示してあるでしょう。暴くようなものもないっての」
店主は少女の不安を笑い飛ばす。
「値札はつけられるかも」
「だったら私が一生で稼ぐ程度はつけてもらわないとね」
〈君守り人形〉は多くの人を危機から守った。
過剰な暴力によってではあれ、守ってきた。
「そうじゃないと、釣り合わないよ」
店主は歯をみせて笑みを作る。
かつて〈君守り人形〉に命を救われた一人なのだろう。
店主に向かって少女は尋ねた。
「一生で稼ぐってどのぐらい? ふだんの買い物みたいに賤貨で換算はできないよね。金貨で十万枚とか?」
「もう何倍かするだろうね。なんだこの程度、って思っちゃうような値段じゃ、釣り合わないよ」
「その通りね」
少女は上機嫌に同意する。
店主は、実際に値段が出て彼女が落胆しないかと考えて、付け加えようとした。
「お嬢ちゃん。助けられた私らはみんな分かっている。本当の値打ちは量れない。だから」
「誰かが低い値段をつけても平気、って言いたいの。大丈夫よ。骨董にしてもすごい品に違いないもの。ひょっとしたら古代の秘宝とかかも」
少女は夢を広げる。
店主は寂しく笑って答えた。
「すごい品なんかじゃあないよ。私は知ってる。地元の、はずれにある何もないところに立っていた鉄の塊だよ。ただの鉄の塊で、私にとっては思い出深いんだ。大好きな男の子がいてね。いつも私を守ってくれた。〈君守り人形〉は、ってこんなこと言っても信じないか」
「信じるよ」
目の前の少女がそう言ったと、店主は判じかねた。
いくつもの冬に耐えた大樹だった。
動くのをやめて終わりを待つ猛獣だった。
ずっと昔から伽藍に響く定型句だった。
幼い空想を語ったのと同じ声が、老成した感慨を響かせていた。
すべての新奇を楽しむのと同じ目が、すべての想い出を懐かしんでいた。
「信じるよ。騎士さんが店主さんを守った。守り続けた」
彼女は喜んでいたか。
彼女は悲しんでいたか。
「わたしは信じるよ」
彼女は、愛おしんでいたか。
少し昔、歴史に残らない庶民生活の一幕だ。
何の変哲もない場所に縦長の鉄板が立っていた。
子供たちが度胸試しに使った。
現在では、その場所がどこだったか分からなくなっているそうだ。
はたして、鉄の塊などというものが立ててあるのが、何の変哲もない場所であったものだろうか。
山は異界だ。
異界には恐ろしいものが待ち受ける。
異界のさらに奥である、山の洞窟の中ともなればなおさらだ。
「神話の時代も遠くなったというものではないか」
人の声がある。
〈鉱脈の亜竜人〉ガノッススである。
ガノッススは亜竜と対峙していた。
人の背丈ほどもある目が睨みつける。
爬虫類の目だ。
亜竜は、ドラゴンらしいドラゴンの姿をしていた。
亜竜人は竜のイメージを引き起こして魔法を使う。
一方で亜竜とは、無形の竜が形をもって表現されたものだ。
竜とはたとえば、水脈である。
竜とはたとえば、山脈である。
竜とはたとえば、血脈である。
とても大きな一連のものを、人は仰ぎ見て生きていた。
「神話の時代が遠い昔なのは今に始まったことじゃあないよ」
第三の、ガノッススとも亜竜とも異なる人物が、洞窟にすすみ入ってきた。
「どちらさまかな。魔王さまか? ここは寒い。身体を冷やすよ」
ガノッススが茶化しながら警戒を強める。
見た目には普通の少女だ。
二つ結びの癖毛が似合う、彼女は支配者だった。
「お久しぶり。あなたは、〈アイスドラゴン〉を討伐しようと考えている」
「そうとも。小金稼ぎにね」
「わたしもお小遣いが必要なの。邪魔だから離れていてちょうだい」
少女の声が浸み透る。
神霊を鎮める鈴の音だ。
「魔王軍、総勢一名参陣」
これから一つの神話が終わり、一つの神話が始まる。




