8 星灯りの宿と、テンプレ冒険者ギルド 2
翌朝。
王都の空は、雲ひとつない青だった。
星灯りの宿の食堂には、焼きたてのパンとスープの匂いが満ちている。
りんは窓際の席で、パンをかじりながら外を眺めていた。
朝の大通りには、昨日とはまた違う慌ただしさがある。
荷車を押す人、店の準備をする人、教会の方角へ歩いていく人。
「ほんとに、パンの匂いがする街だね」
りんが呟くと、向かいの席のネネがパンをちぎりながら答えた。
「“パンの匂いのする王都”という表現、本でよく見かけましたけど、まさか本当にここまでとは思いませんでした」
そこへ、宿の主人がポットを持ってやってくる。
「おはようございます、りんお嬢さま。今日のご予定はお決まりで?」
「昨日歩ききれなかったところとか、もっと見たいです。あと、いっぱい食べたい!」
りんの即答に、主人は思わず笑った。
「でしたら、大通りをまっすぐ進んだ先の広場や、屋台が並ぶ通りなどがよろしいでしょう。人も多く、でも比較的治安も良い場所です」
「屋台……!」
りんの目がきらりと光る。
ネネはその横で、やれやれといった顔をしながらも、主人に一礼した。
「貴重な情報をありがとうございます。お嬢の胃袋が王都に負けないよう、注意して見張っておきます」
「そこまでしなくていいよ!」
りんは抗議しながらも、心の中ではわくわくが止まらなかった。
◇
朝食を終えると、二人は準備を整えて宿を出た。
今日のりんの服は、黒を基調としたシンプルなドレスに、昨日より少しだけ軽めのフリル。
ローツインテールの金色の髪は、大きな白いシュシュでまとめられている。
ネネはいつものようにフードをかぶり、猫耳の輪郭をぼかすために、軽い幻惑の魔法をかけた。
「よし。今日こそ“見るだけ・食べるだけ”の日です」
「うんっ」
二人は、大通りの人波の中へと歩き出した。
◇
屋台が多く並ぶ通りは、まさに色と匂いの洪水だった。
串に刺さった肉が香ばしく焼かれ、油のはねる音がする。
揚げパンの甘い匂い、スパイスの効いたスープの香り、果物を切る音。
「ネネ、あれ見て! お肉串! あ、こっちは丸いパン揚げてる! あっち、果物山盛り!」
「お嬢、一度に三軒同時に行くのは物理的に不可能です」
それでも結局、二人は少しずつ色んな屋台で買い食いすることになった。
肉串をひと口頬張れば、肉汁がじゅわっと溢れる。
揚げパンは外はかりっと、中はもちもち。
丸い果物を切ってもらえば、口の中いっぱいに蜜のような甘さが広がる。
「幸せ……」
りんは完全にとろけた顔になっていた。
ソースが串の先からたれそうになったとき、思わず指を動かして浮かせそうになり──
「お嬢」
ネネのすかさずの低い声に、ぴたりと動きを止める。
「……ちゃんと拭く」
りんはポケットからハンカチを出して、素直にソースを拭った。
(便利な魔法は、ぐっとがまん)
心の中でそう念じる。
異世界転生してまで、ここまで“がまん”を意識することになるとは思わなかった。
でも、目の前の食べものたちが十分に幸せなので、それはそれでいいかとも思う。
◇
ひとしきり食べ歩いたあと、りんは少し落ち着いて、通りの周囲を眺めた。
ふと、近くの屋台の兄ちゃんが、隣の客と話している声が耳に入ってくる。
「この先の角を曲がったところに、冒険者ギルドがあるんだよ」
「お、今日も新しい依頼、貼り出されてるかな」
その単語が、りんの耳にばっちり引っかかった。
(……出た、“冒険者ギルド”!)
前の世界で読んだ小説や漫画のシーンが、一気に頭の中で再生される。
依頼掲示板。酔っぱらいの冒険者。謎に有能な受付嬢。
そして──絡んでくるテンプレ集団。
(ほんとにあるんだ、この世界にも……!)
胸の奥で、期待と嫌な予感がごちゃ混ぜのわくわくが弾けた。
「ねぇネネ」
りんは、何でもないふりをしてネネの袖を引いた。
「その“冒険者ギルド”って、この辺?」
「さっきの話を聞く限りでは、角を曲がってすぐの場所ですね」
ネネはあくまで冷静だ。
「ただ、お嬢にはあまり縁のない場所だと思いますよ。荒事専門ですし」
「でも、ちょっと面白そうじゃない?」
りんは、目を輝かせながら言った。
「どんな人たちがいるのか、見てみたいな〜。……見るだけ、ね。今日は見るだけ」
「……“見るだけ”という言葉を、お嬢の口から聞くたびに不安になるのは、なぜでしょうね」
ネネは肩をすくめた。
(うんうん、“見るだけ”から始まって、だいたい巻き込まれるんだよね、そういうの)
りんの脳内で、前世の本のシーンがまた一つ再生される。
でもそれは、口には出さない。
「護衛の視点から言えば、治安の拠点でもありますし、場所を把握しておくのは悪くないですね」
ネネはしばし考えた末に、そう付け加えた。
「……分かりました。見るだけ、ですよ?」
「うん、見るだけ!」
即答するりんの声は、期待で少し弾んでいた。
◇ ◇ ◇
冒険者ギルドは、大通りから少し外れた、太い道沿いに建っていた。
二階建ての大きな建物。入口の上には、剣と盾と杖を組み合わせたようなマークが描かれた看板がぶら下がっている。
扉の前には、剣や槍を背負った人たちがちらほら行き来していた。
「……それっぽい」
りんは、小さく呟いた。
手汗がじんわりと出てくる。
(ほんとにあるんだ、冒険者ギルド……。受付のお姉さんもいるのかな……)
胸の高鳴りを抑えきれないまま、ネネと並んで扉を押し開ける。
中は、木の匂いと、人のざわめきと、酒と汗と革の混じった空気で満ちていた。
広いホールの奥には長いカウンターがあり、その前には受付らしき人たちが立っている。
壁には大きな掲示板があり、紙がびっしりと貼られていた。
丸テーブルでは、鎧を着た者やローブをまとった者たちが、くつろいだり地図を広げたりしている。
(完全に、前に読んだやつ……!)
りんは心の中で叫んだ。
ネネはそんなりんの内心を知る由もなく、現実的な目で中を見回している。
「酔っぱらって暴れている者はいなさそうですね。武器の持ち込みも、入口でチェックしているようですし」
「ネネの基準が現実的……」
りんはぼそっと呟いた。
◇
ホールの隅の方から、受付同士の小声が聞こえてきた。
「昨日の話、聞きました?」
「どれです?」
「大通りで、足を怪我した男が、一瞬で治ったってやつですよ。金色の髪の女の子が、光の魔法を使ったとか」
「……またその話? うちのギルドにも、“その子を治癒師としてスカウトしたい”なんて言ってた人、いましたよ」
「教会が黙ってないでしょうねぇ」
りんの背筋に、ひやりとしたものが走った。
(ギルドまで来てるの、噂……!?)
ネネも同じ会話を聞いていたらしく、ほんの少し眉をひそめる。
「情報の回り方が、予想以上ですね」
「りん、けっこう目立っちゃった?」
「“けっこう”で済めばいいんですが」
ネネはそう言いながらも、声の調子はあくまで冷静だった。
◇
りんは、依頼掲示板の方へと歩いて行った。
紙がぎっしりと貼られたその板には、文字と数字と簡単なイラストが並んでいる。
「えっと……“近郊の森に出没するスライム討伐”……“商隊護衛”……“薬草の採取”……」
読み上げながら、頭の中でまた異世界物のワンシーンと重ねてしまう。
(ほんとにあるんだ、“スライム討伐”。どこかで絶対出てくるやつだよね、これ)
隣でネネが、じとっとした視線を送ってくる。
「お嬢、字が読めているのは素晴らしいですが、依頼の内容を吟味する必要はありません。わたしたちは“見るだけ”です」
「見てるだけだよ〜。ほら、ちゃんと手は出してない」
りんは両手を掲げてみせた。
その仕草が、余計に目立つ結果になるとは、そのときは思っていなかった。
◇ ◇ ◇




