6 こんにちは、王都のひかり 3
少し日が傾き始めたころ、大通りの空気が、ほんの少しだけ変わった。
昼の喧騒に、ほんのりと夕方の慌ただしさが混ざり始める。店じまいの準備を始める店もあれば、これから賑わいを増す店もある。
りんは、ひとまず満足げに息をついた。
「ねぇネネ。王都って、思ってたより“こわくない”かも」
「まだ表通りしか歩いてませんからね。油断しなければ、このくらいで済みますが」
ちょうどそのときだった。
少し先の十字路で、大きな掛け声が上がった。
「どいてください! 荷が通ります!」
木箱を山ほど積んだ荷車を、若い男が必死に押している。
石畳の段差に、車輪ががつん、と引っかかった。
「うわっ」
男の足がもつれる。
荷車がぐらりと傾き、上に積まれていた箱のひとつが、大きく揺れた。
りんの頭に、魔界の廊下で見た光景がよぎる。
(あ、これ、前にも──)
反射的に手が上がりかけて──
「お嬢」
ネネの手が、今度はほんの少しだけ早くその腕をつかんだ。
「ここでやったら、絶対バレます」
「……っ」
りんは、ぐっと唇を噛んだ。
荷車は、何とか倒れずに踏みとどまる。
けれど、バランスを崩した箱のひとつが、横に滑り落ちた。
「危ない──!」
周囲の誰かが叫ぶ。
箱は、通りの端を歩いていたひとりの男の脚に、勢いよくぶつかった。
ごつん、と嫌な音がした。
男はその場に崩れ落ちる。
「いってぇ……っ!」
ズボンの布が破れ、血がにじむのが見えた。
「誰か! 治癒師を呼んでくれ!」
「教会はここから少し離れてるぞ!」
周囲に、慌てた声が走る。
りんの心臓が、どくん、と跳ねた。
男の顔が、苦痛に歪んでいる。
さっき、助けた子犬の顔と、重なった。
(助けないわけには──いかないよね)
考えるより先に、足が動いていた。
「お、お嬢!」
ネネの声が聞こえたけれど、もう遅い。
りんは、人混みをするりと抜けて、怪我をした男のそばにしゃがみ込んだ。
「ごめんね、ちょっと触るね」
男は、驚いたようにりんを見た。
「な、なんだ、お前……」
「痛いの、そこ?」
りんは血で濡れた布の上から、そっと手を添えた。
「……痛いの、どこか遠くに行ってて」
その瞬間。
りんの指先から、金色の光があふれ出した。
今までの“こっそり”とは、比べものにならない。
夜明け前の群青の空に、無数の星が一度に瞬くみたいな光。
金の粒子が渦を巻き、男の脚を包み込む。
誰かが息を呑んだ音が、はっきりと聞こえた。
「な、なんだ……?」
「光って……」
血で汚れていた布が、光の下でさらさらと乾いていく。
その下にあった傷が、みるみるうちにふさがっていった。
男の表情から、痛みが消えていく。
「……あれ?」
彼は自分の脚を見て、目を瞬かせた。
さっきまで動かせなかったはずの脚に、そっと力を入れてみる。
「痛く……ない」
周囲がざわめいた。
「今の、見たか?」
「回復魔法……だよな、あれ」
「でも、あんな早さ……」
「一瞬で、だぞ……?」
りんは、光が静かに消えていくのを見届けると、ほっと息をついた。
「よかった……ちゃんとくっついた」
男は信じられないという顔で、何度も足を曲げ伸ばししてみせた。
「本当に……治ってる……。おい、痛くねぇぞ」
その時だった。
人混みのどこかから、小さな声が上がった。
「……聖女様、じゃないか?」
その一言が、火種みたいに空気に落ちた。
「聖女……?」
「教会の光より、綺麗だったぞ……」
「さっきの金の光……“神の奇跡”って、こういうのじゃ……」
「いや、でもあの子、見たことない顔だぞ」
「きっと、遠い国から来られた聖女様だ……!」
噂は、瞬く間にまわりの人の口から口へと広がっていく。
りんは、何を言われているのか、よく分かっていなかった。
ただ、自分がやったことが、よかったのかどうか、胸の中でぐるぐるしている。
「大丈夫? もう、歩けそう?」
「お、おう……。あんた、一体……」
男が何か言いかけたそのとき、りんの腕をひっぱる手があった。
「お嬢。ここから離れますよ」
ネネだ。
その顔は、完全に青ざめていた。
「え、でも──」
「今、“聖女”って言葉が出ました。ここにこれ以上いたら、絶対に面倒なことになります」
ネネは周囲の視線をさらりと避けながら、りんを人混みの陰へと導いた。
りんは一瞬だけ、男の方を振り返る。
男はまだ、自分の脚を信じられないというように見つめていて、その周りでは、何人もの人が彼とりんのことを興奮気味に話していた。
「金色の光だったぞ」
「髪も、金色だった」
「名前、聞いたか?」
「りん、って呼んでたような……」
「“金の光の聖女”さま、か……」
そんな言葉が、風に乗って、りんの背中にかすかに届く。
◇
大通りから一本外れた細い路地に入り、ようやく人の波から抜け出した。
りんは、そこで足を止める。
ネネもまた、壁に背を預けて、深く息を吐いた。
「……怒ってる?」
りんが、おそるおそる尋ねた。
ネネは少しだけ目を閉じてから、首を振った。
「怒ってはいません。予感は、してましたから」
「予感……?」
「お嬢は、きっと、目の前で困っている人がいたら、放っておけない。だから、“ああいうこと”は、いずれ起こるだろうなって」
ネネは肩をすくめた。
「ただ、思ったより早かったですね」
「ごめん……」
りんは、素直に謝った。
「助けないで、見てるだけっていう方が、りんにはちょっと……こわくて」
「分かってます」
ネネは、小さく笑った。
「わたしも、あの人の顔を見たら、何も言えませんでした。だから、もう起きてしまったことに関しては、責めるつもりはありません」
「じゃあ……」
「問題は、“これから”です」
ネネは、耳のあたりを軽く押さえた。
さっきまでかけていた幻惑の魔法が、あまりの緊張で少し弱まっていた。
「さっきの広場にいた人たちの口から、“金色の髪の女の子の聖女様”の噂が広がるのは、時間の問題でしょう」
「……りんのこと、かな」
「他に誰がいますか」
「だよね……」
りんは自分の髪を、指先で少しだけすくった。
陽の光を受けて、金色のローツインテールがかすかにきらめく。
「でも、助けてよかったって気持ちも、本当なんだ」
りんは、ぽつりと言った。
「だって、あの人、すごく痛そうだったもん。あのまま放っておいて、“安全な”りんでいるだけだったら、それもきっと、こわかった」
ネネは少しの間、りんの横顔を見つめていた。
「……お嬢」
「なに?」
「こうなると分かっていても、手を伸ばすお嬢だからこそ、わたしは護衛を引き受けたんだと思います」
それは、ネネにしては少しだけ照れくさい本音だった。
りんは、目をぱちぱちと瞬かせる。
そして、ふわっと笑った。
「ありがと、ネネ」
「お礼を言われるようなことはしてません。ただ、これから忙しくなるなぁって覚悟を固めただけです」
「忙しくさせちゃうのは、ちょっと悪いなぁ」
「では、お嬢が一切魔法を使わない人生を選んでくだされば──」
「それは無理」
即答したりんに、ネネは苦笑した。
◇
路地の向こうから、大通りのざわめきが、まだかすかに届いている。
さっきの場所では、きっとまだ、あの男と、“金色の髪の女の子”と、“光”のことが話題になっている。
「金の光の聖女様」
そんな言葉が、今日の夕方を境に、この街のどこかで、初めてささやかれ始めるのだろう。
その呼び名の本人は、そのことをまだよく分かっていない。
ただ、りんは、人の声と匂いと空の色に、胸を高鳴らせたまま、初めての王都の一日を歩き始めたばかりだった。
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