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魔王の娘  作者: 星空りん
7/10

6 こんにちは、王都のひかり 3

 少し日が傾き始めたころ、大通りの空気が、ほんの少しだけ変わった。


 昼の喧騒に、ほんのりと夕方の慌ただしさが混ざり始める。店じまいの準備を始める店もあれば、これから賑わいを増す店もある。


 りんは、ひとまず満足げに息をついた。


 「ねぇネネ。王都って、思ってたより“こわくない”かも」


 「まだ表通りしか歩いてませんからね。油断しなければ、このくらいで済みますが」


 ちょうどそのときだった。


 少し先の十字路で、大きな掛け声が上がった。


 「どいてください! 荷が通ります!」


 木箱を山ほど積んだ荷車を、若い男が必死に押している。


 石畳の段差に、車輪ががつん、と引っかかった。


 「うわっ」


 男の足がもつれる。


 荷車がぐらりと傾き、上に積まれていた箱のひとつが、大きく揺れた。


 りんの頭に、魔界の廊下で見た光景がよぎる。


 (あ、これ、前にも──)


 反射的に手が上がりかけて──


 「お嬢」


 ネネの手が、今度はほんの少しだけ早くその腕をつかんだ。


 「ここでやったら、絶対バレます」


 「……っ」


 りんは、ぐっと唇を噛んだ。


 荷車は、何とか倒れずに踏みとどまる。


 けれど、バランスを崩した箱のひとつが、横に滑り落ちた。


 「危ない──!」


 周囲の誰かが叫ぶ。


 箱は、通りの端を歩いていたひとりの男の脚に、勢いよくぶつかった。


 ごつん、と嫌な音がした。


 男はその場に崩れ落ちる。


 「いってぇ……っ!」


 ズボンの布が破れ、血がにじむのが見えた。


 「誰か! 治癒師を呼んでくれ!」


 「教会はここから少し離れてるぞ!」


 周囲に、慌てた声が走る。


 りんの心臓が、どくん、と跳ねた。


 男の顔が、苦痛に歪んでいる。


 さっき、助けた子犬の顔と、重なった。


 (助けないわけには──いかないよね)


 考えるより先に、足が動いていた。


 「お、お嬢!」


 ネネの声が聞こえたけれど、もう遅い。


 りんは、人混みをするりと抜けて、怪我をした男のそばにしゃがみ込んだ。


 「ごめんね、ちょっと触るね」


 男は、驚いたようにりんを見た。


 「な、なんだ、お前……」


 「痛いの、そこ?」


 りんは血で濡れた布の上から、そっと手を添えた。


 「……痛いの、どこか遠くに行ってて」


 その瞬間。


 りんの指先から、金色の光があふれ出した。


 今までの“こっそり”とは、比べものにならない。


 夜明け前の群青の空に、無数の星が一度に瞬くみたいな光。


 金の粒子が渦を巻き、男の脚を包み込む。


 誰かが息を呑んだ音が、はっきりと聞こえた。


 「な、なんだ……?」


 「光って……」


 血で汚れていた布が、光の下でさらさらと乾いていく。


 その下にあった傷が、みるみるうちにふさがっていった。


 男の表情から、痛みが消えていく。


 「……あれ?」


 彼は自分の脚を見て、目を瞬かせた。


 さっきまで動かせなかったはずの脚に、そっと力を入れてみる。


 「痛く……ない」


 周囲がざわめいた。


 「今の、見たか?」


 「回復魔法……だよな、あれ」


 「でも、あんな早さ……」


 「一瞬で、だぞ……?」


 りんは、光が静かに消えていくのを見届けると、ほっと息をついた。


 「よかった……ちゃんとくっついた」


 男は信じられないという顔で、何度も足を曲げ伸ばししてみせた。


 「本当に……治ってる……。おい、痛くねぇぞ」


 その時だった。


 人混みのどこかから、小さな声が上がった。


 「……聖女様、じゃないか?」


 その一言が、火種みたいに空気に落ちた。


 「聖女……?」


 「教会の光より、綺麗だったぞ……」


 「さっきの金の光……“神の奇跡”って、こういうのじゃ……」


 「いや、でもあの子、見たことない顔だぞ」


 「きっと、遠い国から来られた聖女様だ……!」


 噂は、瞬く間にまわりの人の口から口へと広がっていく。


 りんは、何を言われているのか、よく分かっていなかった。


 ただ、自分がやったことが、よかったのかどうか、胸の中でぐるぐるしている。


 「大丈夫? もう、歩けそう?」


 「お、おう……。あんた、一体……」


 男が何か言いかけたそのとき、りんの腕をひっぱる手があった。


 「お嬢。ここから離れますよ」


 ネネだ。


 その顔は、完全に青ざめていた。


 「え、でも──」


 「今、“聖女”って言葉が出ました。ここにこれ以上いたら、絶対に面倒なことになります」


 ネネは周囲の視線をさらりと避けながら、りんを人混みの陰へと導いた。


 りんは一瞬だけ、男の方を振り返る。


 男はまだ、自分の脚を信じられないというように見つめていて、その周りでは、何人もの人が彼とりんのことを興奮気味に話していた。


 「金色の光だったぞ」


 「髪も、金色だった」


 「名前、聞いたか?」


 「りん、って呼んでたような……」


 「“金の光の聖女”さま、か……」


 そんな言葉が、風に乗って、りんの背中にかすかに届く。



 大通りから一本外れた細い路地に入り、ようやく人の波から抜け出した。


 りんは、そこで足を止める。


 ネネもまた、壁に背を預けて、深く息を吐いた。


 「……怒ってる?」


 りんが、おそるおそる尋ねた。


 ネネは少しだけ目を閉じてから、首を振った。


 「怒ってはいません。予感は、してましたから」


 「予感……?」


 「お嬢は、きっと、目の前で困っている人がいたら、放っておけない。だから、“ああいうこと”は、いずれ起こるだろうなって」


 ネネは肩をすくめた。


 「ただ、思ったより早かったですね」


 「ごめん……」


 りんは、素直に謝った。


 「助けないで、見てるだけっていう方が、りんにはちょっと……こわくて」


 「分かってます」


 ネネは、小さく笑った。


 「わたしも、あの人の顔を見たら、何も言えませんでした。だから、もう起きてしまったことに関しては、責めるつもりはありません」


 「じゃあ……」


 「問題は、“これから”です」


 ネネは、耳のあたりを軽く押さえた。


 さっきまでかけていた幻惑の魔法が、あまりの緊張で少し弱まっていた。


 「さっきの広場にいた人たちの口から、“金色の髪の女の子の聖女様”の噂が広がるのは、時間の問題でしょう」


 「……りんのこと、かな」


 「他に誰がいますか」


 「だよね……」


 りんは自分の髪を、指先で少しだけすくった。


 陽の光を受けて、金色のローツインテールがかすかにきらめく。


 「でも、助けてよかったって気持ちも、本当なんだ」


 りんは、ぽつりと言った。


 「だって、あの人、すごく痛そうだったもん。あのまま放っておいて、“安全な”りんでいるだけだったら、それもきっと、こわかった」


 ネネは少しの間、りんの横顔を見つめていた。


 「……お嬢」


 「なに?」


 「こうなると分かっていても、手を伸ばすお嬢だからこそ、わたしは護衛を引き受けたんだと思います」


 それは、ネネにしては少しだけ照れくさい本音だった。


 りんは、目をぱちぱちと瞬かせる。


 そして、ふわっと笑った。


 「ありがと、ネネ」


 「お礼を言われるようなことはしてません。ただ、これから忙しくなるなぁって覚悟を固めただけです」


 「忙しくさせちゃうのは、ちょっと悪いなぁ」


 「では、お嬢が一切魔法を使わない人生を選んでくだされば──」


 「それは無理」


 即答したりんに、ネネは苦笑した。



 路地の向こうから、大通りのざわめきが、まだかすかに届いている。


 さっきの場所では、きっとまだ、あの男と、“金色の髪の女の子”と、“光”のことが話題になっている。


 「金の光の聖女様」


 そんな言葉が、今日の夕方を境に、この街のどこかで、初めてささやかれ始めるのだろう。


 その呼び名の本人は、そのことをまだよく分かっていない。


 ただ、りんは、人の声と匂いと空の色に、胸を高鳴らせたまま、初めての王都の一日を歩き始めたばかりだった。


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