4 こんにちは、王都のひかり 1
王都の城壁は、想像していたよりずっと高かった。
灰色の石が積み上がった巨大な壁が、空に向かって伸びている。その手前で、りんたちの乗った黒塗りの馬車は、ゆっくりと速度を落とした。
りんは、窓にぴたっと張りついた。
「わぁ……」
城門の前には、荷馬車や旅人や兵士たちが行き交い、あちこちから人の声が聞こえてくる。笑い声、怒鳴り声、呼び込みの声。石畳の上を、車輪の軋む音と靴音が絶え間なく流れていた。
風に乗って、焼きたてのパンと、肉を焼く匂い、香草の匂いが混ざり合ってくる。
「匂いがぜんぶ、“生きてる”って感じ……」
胸の奥が、じわっと熱くなる。
その隣で、ネネはフードを深くかぶり、耳を押さえるように帽子の縁をぎゅっと握っていた。
「お嬢。あまり乗り出さないでください。落ちたら、王都初日から大惨事ですよ」
「はーい……でも、見たいんだもん」
りんは名残惜しそうに窓から少しだけ身を引いた。
◇
城門の前で、兵士たちが馬車の前に立ちふさがった。
鎧の擦れる音が近くなる。窓から見えるのは、真面目そうな顔の若い兵士の横顔。
「この馬車は?」
御者が恭しく書状を差し出す。
「遠方の友好国よりお越しの貴族令嬢をお連れしている。書状はこちらに」
「確認する」
兵士が書状を開き、真剣な顔で目を走らせる。
りんは小声でネネに囁いた。
「ねぇ、字、読めるのかな」
「お嬢、人間をなめすぎです」
「えー。だって、けっこう難しい字っぽかったよ?」
りんがじっと兵士を見ていると、彼は書状から顔を上げ、わずかに表情を引き締めた。
「遠国の……レリアス公国の令嬢、りん殿下。──失礼しました。ようこそ、王都へ」
「レリアス公国……」
りんは心の中で復唱した。
それは、魔王パパと側近たちが用意した、“とても便利な架空の国”の名前だ。
「本物みたいに聞こえるね」
「本物みたいに振る舞ってください、お嬢」
ネネが小声で釘を刺す。
兵士は馬車に向けて、少しかしこまった声で言った。
「遠国の……レリアス公国のご令嬢、りん様。──失礼しました。ようこそ、王都へ」
「レリアス公国……」
りんは心の中で復唱した。
それは、魔王パパと側近たちが用意した、“とても便利な架空の国”の名前だ。
「本物みたいに聞こえるね」
「本物みたいに振る舞ってください、お嬢」
ネネが小声で釘を刺す。
兵士は馬車に向けて、少しかしこまった声で言った。
「門番一同、ご令嬢のご滞在が良きものとなることをお祈りしております」
りんは、つい調子に乗ってしまった。
「ありがと〜。みんな、がんばってね」
兵士たちが一瞬だけ目を丸くし、それから慌てて敬礼する。
「は、はっ!」
「……お嬢。もう少し“ご令嬢”らしい口調の練習も、今度しましょうね」
ネネのため息を背中に受けながら、馬車はゆっくりと城門をくぐった。
◇
門を抜けた瞬間、世界が一気にひらけた。
石畳の大通りが、真っ直ぐ先へと伸びている。両側には背の高い建物が並び、窓からは洗濯物が揺れ、バルコニーには花が並んでいる。
「……ひと、ひと、ひと……!」
りんは思わず呟いた。
魔界にも街はある。でも、ここまでぎゅっと人が詰まっている場所は見たことがない。
どこからともなく、焼きたてのパンの匂いが流れてくる。
「パンの匂い、本当にする……!」
図書室で読んだ本の一文が、頭の中で鮮やかによみがえる。
王都の朝は、パンの匂いがすると書いてあった。
今はもう昼前だけれど、匂いはまだ、街じゅうに優しく漂っている。
「……本で読んだだけの場所が、ちゃんと“ここ”にあるんだ」
胸の奥が、きゅっと締めつけられて、同時にふわっと軽くなる。
ネネは隣で、周囲を警戒する目を忘れない。
「人が多い場所では、スリやら何やら、いろいろいると聞きました。お嬢、窓から腕を出さないでくださいね」
「出してないよ〜。ちょっとだけ顔出してるだけ」
「それを“出してる”と言うんです」
そんなやりとりをしているうちに、馬車は大通りから少し外れた、少し静かな通りへと入っていった。
◇
やがて、馬車は一軒の建物の前で止まった。
白い壁に深い木の色の柱、二階建ての落ち着いた建物。その入口の上には、小さなランプがいくつも吊るされていて、昼間なのに淡い光を揺らしている。
看板には、星と小さな灯のマークと一緒に、文字が彫られていた。
「……『星灯りの宿』」
りんが読み上げると、ネネが満足そうに頷いた。
「ちゃんと読めますね、お嬢」
「ふふん。図書室で、人間の字もちゃんと勉強したもん」
扉が開き、中から、ふっくらした体つきの中年の男が姿を現した。
口元に柔らかい笑みを浮かべた宿の主人だ。その後ろから、エプロン姿の奥さんが顔を出す。
「お待ちしておりました。遠国よりお越しのりんお嬢さまですね」
「う、うん。りんだよ。お世話になります」
魔界の魔族たちに呼ばれるのは聞き慣れているけれど、人間の口から“お嬢さま”と言われるのは、なんだかくすぐったくて不思議な気分になる。
主人は深く会釈した。
「長い道のり、お疲れさまでした。部屋はご用意してあります。まずは荷物を置いて、ひと息ついてください」
「はーい」
ネネが一歩前に出て、落ち着いた声で礼を言う。
「お世話になります。りんお嬢の身の回りのことは、基本的にわたしがいたしますので、どうぞよろしく」
「ええ、どうぞごゆっくり」
主人に案内されて、りんたちは階段を上がっていった。
◇ ◇ ◇
二階の角部屋は、思ったよりも広かった。
窓が二つあり、明るい光が差し込んでいる。大きなベッドがひとつ、隣に簡易ベッドを置けるスペースもある。
床には柔らかい絨毯が敷かれていて、丸いテーブルと椅子が二脚、小さな本棚まであった。
りんは真っ先に窓へ駆け寄る。
「わぁ……高い……!」
窓の外には、さっき通ってきた通りの屋根が見えた。赤茶色の瓦屋根が、でこぼこと並んでいる。その向こうには、遠くに白い城壁と、さらに高く伸びる王城の塔。
「ここからでも、王さまのおうちが見えるんだ」
りんは、頬をガラスにぴたっとくっつけた。
ネネは部屋の中を一回りして、窓の鍵や扉の金具、ベッドの下まで確認していく。
「とりあえず、変な仕掛けはありませんね」
「仕掛けなんて、ふつうの宿にあるの?」
「お嬢の常識基準を当てはめないでください」
りんは窓から離れて、ベッドの縁にぽすんと腰を下ろした。
「ここで寝るんだ……今日から」
言葉にしてみると、少しだけ現実味が増した。
魔界の黒い城ではなく、白い壁の部屋で、石畳の街の音を聞きながら眠る。
そのことを想像しただけで、心の中がそわそわ落ち着かない。
◇
ネネは、りんのポシェットを指さした。
「さて、お嬢。荷物を出しましょうか」
「はーい。じゃあ、さくっと──」
りんが指をぱちん、と鳴らしかけたところで、ネネの手がすばやくその手首をつかんだ。
「お止めください」
「えぇ〜? まだ誰も見てないよ?」
「“まだ誰も見てない”が一番危ないんです。人間界では控えめモードと、お嬢がおっしゃったはずですが」
「……半分だけ出すのもダメ?」
「量の問題じゃありません」
りんはむぅ、と頬をふくらませた。
「じゃあ……ちょっとだけ」
手をポシェットの口に突っ込んで、ごそごそと探る。普通の袋ではありえない量の荷物が、その小さな空間の中に詰まっている。
引っ張り出したのは、畳んだドレスが二着と、下着と、薄い本が数冊、それから小さなぬいぐるみがひとつ。
「この子も、枕元に置きたい」
りんがそう言ってぬいぐるみをベッドにぽすんと座らせると、ネネは少しだけ表情を和らげた。
「……それくらいなら、まあ、許容範囲です」
「でしょ〜?」
最低限の荷物だけ部屋に出して、ポシェットはベッドのそばに置いておく。
◇




