禊
天に向かって伸びる空洞に、鐘の音よりも重い衝撃音が響き渡る。
振動が煙突から甲板に伝わり、足下が揺れた。
ダイヤモンド・ダストのような、煌く氷の礫が降る。
それが三度、続けざまに繰り返された。
「外れた……?」
「また来ますわよ!」
四発目、これも外れた。
今度は前のものより弾道が低い。氷塊は俺たちの頭上二メートルほどの高さを通り過ぎ、煙突左舷側の真横にぶつかった。
煙突を守る結界が霊気の火花を散らし、氷が割れて落ちる。
「わわわっ」
赤靴が護符を頭上にかざし、落下する氷片を防いだ。
「三方向から攻めるつもりよ!」
ナギーが叫ぶ。
「三方向って!?」
正面、頭上、あと一つは?
「左!」
その左、フェリー後方の海に一本の水柱が立った。これまでと同様、柱は水の大球、氷の塊、と順に形を変え、こちらを狙って飛んでくる。前進するフェリーはその攻撃から遠ざかろうとするが、加速する氷塊に瞬く間に追いつかれた。
「これは……?」
アニーが護符を持ち構えていた手を下ろした。霊気の盾が一つ消え、合成された防御壁が薄くなった。
「何を!?」
「阿仁女様!?」
幸運なことに、またしても氷塊は俺達からそれた。これまでと同じく、煙突にぶつかった。
氷の落下音が消えれば、水の音。
幽霊少女は執拗に氷塊を作り続ける。
水音の発生源は俺たちがいる場所とは反対側、フェリー右側の海だ。
「向こうからなら大丈夫ですう」
「そうだな」
煙突が壁になる。
「それじゃ駄目!」
ナギーが叫んだ。
「三方向というのは――」
正面、頭上、左、背後のことだろう? あれ、四つある。
煙突に六度目の衝撃が加わった。
ピシピシピシピシと、聞き覚えのある、嫌な音がした。
「あっ! 結界がっ」
赤靴が悲鳴を上げた。
「狙いは最初から煙突ですわ!」
「煙突?」
「水を入れるのよ」
「水……エンジンを故障させる気か!」
「攻撃するしかありませんわ。赤靴、貴女は結界の補修を!」
しかし、こちらから攻撃を仕掛けるよりも早く、幽霊少女の足が床を離れた。
宙にゆっくりと浮き、それから柵の上に降り立った。
「僧侶……いえ陰陽師ね。あなたの攻めは届かない」
「蹴落としますわよ」
「どうぞ。あなたも一緒に落としましょう」
足首を掴めば……?
俺がやろう。
「弐ノ焔、桎ノ理ヲ以テ彼ノ者ヲ封ゼ――」
「無駄なことです」
札から飛んだ炎の輪は、氷の霊剣で切り払われた。
ならば別の札だ。
「壱ノ焔、弩ノ理ヲ以テ彼ノ者ヲ天ニ――」
炎の矢が相手の顔面めがけて飛ぶ。
霊は籠手のある左手で払った。
その隙にナギーが、黒のロングスカートに覆われた霊の脚めがけて、蹴りを放った。
「ぐっ。硬いっ」
脚はびくともしない。飛び蹴りをしたナギーのほうが床に倒れた。
自らの足首を手で押さえつつ、ナギーが霊の足を見る。凍結した黒いブーツが、氷によって柵に固定されていた。
「諦めなさい。あなたたちの力では、私は倒せない」
「そうですわね。わたくしの苦手な場所ですから」
一瞬だけ左横を向いてから、アニーが霊に答えた。あっさりと言わないでくれ。
「助けを呼んでもいいですかしら? 貴女も沢山のお仲間がいらっしゃったことですし」
「誰が来るの? この時間に、この海に。あのときも、来るのは遅かった」
「慰霊祭会場にお越しのご両親と、生前のご友人を呼んで差し上げますわ。真心を込めて、御魂の一部を割いてくださるのです。本望ではありませんこと?」
「な――――!?」
霊の顔に、初めて動揺の色が浮かんだ。
「ナギー、もっと離れなさい! 邪念と一緒に貴女の体も吹き飛びますわよ!」
アニーが両手で印を結ぶ。
「明キ浄キ直キ真心以テ――」
フェリーの遥か後方で、白い光が生じた。
あそこにあるのは瀬戸大橋。橋にいるのは幽霊列車……と、おそらく陰陽師。慰霊祭会場にいるのとは別の、渋滞で乗船できなかった陰陽師だ。
「悪シキ風、荒キ水ニ相ハセ賜ハズ――」
橋から、白い光が高速で迫ってくる。
太く眩い光の帯が、同じ顔をした二人の少女の間を通過した。
「角度と転送のタイミングが……当てにくいですわ……」
アニーが呟く。
ナギーが駆け出した。本体である霊にしがみつく。
「早く!」
「離れなさい!」
ナギーの頭に霊の肱打ちが入った。それでも猶、ナギーは離れない。
その分身の姿を見下ろして、幽霊少女が沈んだ声で言う。
「そのままだと、あなたは消える。私はあの家に帰れても、あなたは帰れない」
「それで十分よ!」
「本当に? 私が戻っても、あそこには何も無い。人としての命も、未来も無い」
「そんなことない! 実際の体がなくても、わけのわからない存在になっても、実際に生きてる人たちと、そうでない人たちとも、楽しんで、楽しませて、笑って、笑わせて、たまには笑われて、それでも高らかに生きるのよ! あなたもそう思ってたでしょ!? 違うの? 忘れたの!?」
「夢よ。それは私の手には届かない夢。儚く消えなさい」
話している間にも、五本の水柱が立つ。それぞれが今までのものより倍以上の高さと太さを持って、フェリーの後方に。あれではただでさえ遠い大橋の位置が、よりわからなくなってしまう。
「あ、あ、あわわわわ。水、水が。あ、阿仁女様ああっ」
水柱が凍らずに、高さを保ったままで押し寄せてくる。
「無駄撃ちはできませんっ。エンジンがやられたらボトルシップを出して支えます! あなた方も逃げて!」
パニックを起こした赤靴を抱きかかえて、アニーが七階を目指して駆ける。
俺も駆け出そうとしたとき、声がした。
「あなたも逃げるの?」
振り返った。
少女が見つめている。
「逃げるのよ!」
同じ顔をした少女が、問いかけてきた少女の腰にしがみついたまま、叫ぶ。水音が近づく。
「私をおいて?」
「早く!」
どうする。どうする?
「もう一人の私もおいて?」
ナギーもおいて?
「残る」
「死んじゃうよっ」
「大丈夫。滝行の成果を見せてやろう」
ハッタリだ。
何かに懸けてきた人生じゃないんだ。こいつの夢に付き合ってやろう。楽しい夢だ。
煙突下部に張り巡らせている注連縄を引っ張り上げ、これと壁の隙間に、無理やり体をねじ込む。
「いい心がけね。でもまだ準備が足りません。煙突を砕きましょう」
水の柱が幾つも増えた。増えた分の柱は、氷塊に変わった。船の後部を遠巻きにしている。
「本気なのっ!?」
ナギーが俺に向かって叫ぶ。
「くどいっ」
「死ぬ気!?」
「死んだら一緒に都市伝説やってやるよ! 幽霊でもいいけどな!」
どっちがいいんだろう。まあいいか、どっちでも。
「……ありがと」
珍しく殊勝だな。
「つまり、結婚して欲しいのねっ?」
前言撤回だ。この期に及んでバカなのか、こいつは。
「その通りっ」
愚問には愚答。これがセオリー。
「もういいでしょう?」
幽霊少女が言った。少しうんざりした表情で。
「最後に一つ」
ナギーが言った。妙に自信ありげな表情で。
「被告人、久坂雅弘に大事な質問ですっ」
俺が被告かよ。どこからどう見ても、お前らが加害者だ。
「私とあなたが最初に会った時のことを述べなさい!」
また愚問かよ。何の意味があるんだ、その質問。
赤い糸が浮かび上がった。
糸は真っ赤に染まっている。夕焼けのような、赤い色。夕焼けのような。
――まあ、どうでもいいことだ。
俺の命は風前の灯。俺は今、死後の世界へ逝く覚悟を固め直すことで忙しい。適当に答えておこう。
「『登校中に食パンを咥えて走ってきた美少女と、偶然ぶつかった』……」
ひどい答えだ。
「そんなことは起き得ない……」
幽霊少女が呆れている。もっともだな。
「フフフフフ」
分身の少女も笑った。お前が変な質問したからだろ。
「よくできました! 異議はありませんっ!」
「は?」
正解? これで?
どこからともなく生じた赤い濃霧が海上と夜空に満ち、船を包んだ。これは一体……。
「霊感が乱される……! 撃てませんわっ!」
アニーが叫んだ。
げっ、捨て身の陽動作戦は失敗かよ。霊の注意がそれて、少しは当てやすくなると思ってたのに。逆に味方の足を引っ張るとは。
「だいじょーぶ!」
ナギーが本体から離れている。声のする位置が変わっている。
「強がりは無益です。戯れ言も夢も人生も、終わりにしましょう」
氷塊の群れが、赤い霧の中にゆっくり現れた。
加速を始める。襲い掛かってくる。
「チッチッチ! 『食パン』と『赤い糸』を相乗作用させて――」
赤い霧が一挙に集い、視界が晴れる。
霧が凝集したところは、右拳を掲げたナギーの右手首、赤い糸で編まれたミサンガ。
左手で右手首をつかみながら、ナギーが右手の平を氷群にかざした。
「私の都市伝説力は『完壁』よッ!」
壁。
フェリー後部全体を覆う防護壁が現れた。船の左右・後部・上部を、海と空から隔てている。
半透明の硬質な壁は、鮮烈に赤く輝く。
英王室の王冠の前面、十字紋様中央に嵌めこまれた、《黒太子の紅玉》と呼ばれるスピネルのように。
氷塊が次々と壁にぶつかる。
壁は反対側が透けて見えるほど薄く、氷塊は重く大きい。
――割れた。
氷の塊が割れた。軽い衝突音と鋭い研磨音、さらに派手な蒸発音を残して、飛来した氷塊はことごとく消え去った。
赤い壁に傷は無い。偽りの力でできた壁が、攻撃を完璧に阻んだ。
「高熱ね。熱に浮かされていては、見えるものも見えなくなる」
攻撃を防がれても、幽霊少女は動じない。少女は壁の反対側にある海に両目の焦点を合わせてから、俺たちに向き直った。
半透明の壁に阻まれて夜の海はよく見えないが、音は聞こえる。滝のような音が徐々に大きくなる。音源が近づいてくる。
「水柱がそのまま来るぞ!」
「同じことです! 防ぎますっ」
向かってきた五本の水柱が壁となって、赤尖晶石の壁にぶつかる。
しかし、水は氷と同じように蒸発音を残して、消えた。
「次も防げる? できないのなら、押し込んであげましょう。泰然と」
また五本の柱が来た。
単調な攻撃……なのだろうか。
「エネルギーは十分! 問題なしっ」
ナギーが気合を込めて言った。半透明だった体や、色が薄くなっていた髪は、元に戻っている。
再び、防御壁の外側が大量の海水で洗われた。
白砂か細雪のように、塩の結晶が防御壁を覆う。
赤い光を放つ外壁を背景に、黒い衣に身を包んだ絵沢渚の霊が、ゆっくりと歩く。ナギーに近づいていく。
それを見たナギーがかざしていた手を下ろし、構える。防護壁は赤い濃霧に戻り、ミサンガに吸い込まれた。
デッキ上では……。
見えない。
また霧だ。
冷却された水蒸気。
今度は白い普通の霧と黒い霊気の霧が、デッキを覆っている。体から炎のような赤い気を立ちのぼらせているナギーの周囲だけが、どうにか見える。
「護符を!」
七階後部デッキにいるアニーの声だ。
護符で盾を作る。
ナギーはジャンプやバク転で、見えない位置から突然くる攻撃をかわし続けている。
「アニー! あの力を私に!」
「あれは貴女にとっても危険だと言ったでしょう!」
「当てられるのは私だけ! それに、これは私の問題なの! 早くっ」
「橋からますます遠くなる……。やりますわ! 赤靴、貴女がナギーに『沈霊』を使いなさいっ」
たぶん、日本海でやった技のことだ。ナギーの腕に霊気を込める技。
「あのお姉さんにですかあっ!? 赤靴じゃ無理ですようっ」
霊の攻撃は続き、ナギーはなおも激しく動き回っている。
「ナギー、拾えますかっ」
「片方だけっ」
どうする?
どうやってナギーに霊気を?
「これは邪魔ね。切ってしまいましょう」
「させませんっ」
赤い糸が引っ張られた。俺の体も引っ張られそうになった。
どうにか踏みとどまったが、スマホがポケットから落ちて転がった。煙突の根もとに当たって止まった。
糸、スマホ、煙突。
これだ。
護符から封印用の札に持ち替える。
「それは無理!」
「私には効かない」
分身と本体の意見が一致した。
だが知ったことじゃない。詠唱だ。
「終ノ焔、鉗ノ理を以テ、穢、縛シメタマヘ――」
札に霊光が灯る。
「いくぞ渡会流陰陽師のお兄さんっ!」
大声で叫んだ。
「何ですって!?」
ヒステリックな怒号がした。
その方向に炎の輪が緒をつけて飛んだ。狙い通りに、輪は七階後部デッキの床から一メートルぐらいの高さにとどまった。
「っと! 危ないじゃありませんかっ」
「寝返ったんですかあっ」
「その通り! 俺も一緒に沈む! まず俺からにしろ!」
「……なるほど、いいですわ! 貴方から沈めて差し上げますわ! 赤靴、わたくしの腕からあの不届き者に撃ちなさい!」
「いいんですかあっ」
「構いません。波長をわたくしに合わせて!」
「はいですうっ」
赤靴が呪文を唱える。
「壱ノ焔、楔ノ理ヲ以テ彼ノ者ヲ地二――」
七階後部デッキに青い炎が浮かんだ。
「弐ノ焔、槌ノ理ヲ以テ彼ノ者ヲ封ゼ――」
青い炎が緑色に変わった。
そしてエメラルドグリーンの光を迸らせながら、緒を伝ってくる。
すぐに左小指から出ている糸を緒に絡ませる。
伝われ、伝われ、伝われ、伝われ、伝われ!
光が緒から糸に移る。
迸る閃光が、エメラルドグリーンから黄金色に色彩を変えた。緑の炎は黄金の炎となって、今度は赤い糸を伝っていく。
中継塔作戦、成功だ!
「ナギー、行きますわよ! 赤靴、続けなさいっ」
「えっ!? あ! うん」
「わかりましたあっ」
意図を読み取っていた陰陽師が呪文を唱える。
「天下四方国ニハ、罪ト云フ罪ハ在ラジト――」
フェリー後方から、例の白い光が闇を裂いて飛来する。
重厚な武装にも関わらず、幽霊少女は機敏にその軌道から逃れる。彼女は俺の横、煙突を守る結界に背中をぶつけ、そこで止まった。
近くにいたナギーは右手を黄金に輝かせ、光の前に立った。
「これで決着よ!」
「やってみなさい。あなたの攻めは続かない!」
「科戸之風ノ、天之八重雲ヲ吹キ故ツ事ノ如ク――」
白い光がナギーの右腕、手刀に宿る。煙突を背にした幽霊少女に迫る。
「切る!」
縦に振り下ろした手刀が、受け止めようとした黒いガントレットに当たった。
黒い破片と赤い粒子が飛び散り、白い閃光の中で消えた。
籠手が砕けた。
ナギーの右腕も。
籠手は元の手袋に戻り、ナギーの右腕があった場所には、何もない。
「次!」
ナギーの纏っていた赤い気が萎み、右腕とミサンガが再生された。
「終ノ焔、浄ノ理を以テ、穢、払ヒタマヘ――」
「朝ノ御霧・夕ノ御霧ヲ、朝風夕風ノ吹キ掃フ事ノ如ク――」
「磋る!」
一撃目と同様の手順で力を宿した右手の手刀で、左から右に薙ぎ払った。
横一文字の白い光の周りに、赤と黒の飛沫が散る。
剣が砕けた。邪気と怨念の装甲を失ったマフラーが、だらりと垂れ下がる。
再生と転送と攻撃が、繰り返される。
「壱ノ焔、楔ノ理ヲ以テ彼ノ者ヲ地二――」
「大津辺ニ居ル大船ヲ、舳解キ放チ艫解キ放チテ、大海原ニ押シ放ツ事ノ如ク――」
「琢つ!」
輝く白光が弧を描く。
右フックからのコークスクリュー・ブローが幽霊少女の左脇腹に入った。ひび割れが、打たれた部位からコート全体に広がる。この装甲も砕かれ、消え去った。
「弐ノ焔、槌ノ理ヲ以テ彼ノ者ヲ封ゼ――」
「彼方ノ繁木ガ本ヲ、焼鎌ノ敏鎌以テ、打掃フ事ノ如ク――」
「磨く!」
白光が床をかすめて舞い上がる。
右アッパーが鳩尾に決まった。
セーターを覆う黒い霊気が消し飛び、幽霊少女の体も上に吹っ飛び、煙突を守る防護壁に激しい音を立てて衝突した。残った部分の装甲の欠片が、パラパラと落ちてくる。
四度右腕を失ったナギーが叫ぶ。
「あと一撃!」
だが――足りない。ナギーの右腕を構成するための材料、赤い気、都市伝説力が。ナギーが纏っていた分の気は、三回の再生で使い果たしている。
「体の分を腕に」
右腕が再生された。
「そんな力の無い攻撃など」
煙突に磔になったまま、霊は半透明になったナギーを見下ろしている。そして、装甲の外れたマフラーを自身の右腕、右拳に巻き始めた。スカートやブーツに残っていた邪念の気が解け、それがマフラーに集まる。船上を漂う黒い霧も同じところに集まった。硬質化してゆく。
これに勝てるのか?
失敗すればまた船が危ない。それにナギーも消える。カタストロフ。終末。
力、赤い力……血だ。俺の血。貰い物だ。
――腹を括ろう。ボンクラで終わってたまるものか。殻が壊れたからにはお前も生まれ変われ、絵沢渚。
「いきますわよ!」
陰陽師と式神からの霊気が届く前に、糸を自分の胴に巻きつけた。
行け、行け、行け、行け、行け!
「体に力が!?」
「いいから行け! あとでご褒美でもくれ!」
ナギーが小さく微笑んで頷いた。拳を構えてジャンプした。
俺の体から力が抜ける。斬られた右の脇腹が痛み出す。思わず床に膝をついた。
「終ノ焔、浄ノ理を以テ、穢、払ヒタマヘ――」
「遺ル罪ハ在ラジト、祓ヒ給ヒ清メ給フ事ヲ――」
空中で、虚像であるナギーが、白光で輝く右拳を後ろに引く。
本体の霊魂がそれを見据える。
最後の攻撃が放たれる。
夢の実現のために自らの魂を磨く一撃――。
「真・切磋琢磨ーーーーーーっ!!!」
ナギーの拳が、相手の拳を弾き飛ばした。
凝固していた邪念の気が砕け、マフラーから飛び散る。
ナギーの拳は相手の顔面めがけて飛び、そして鼻先一センチで止まった。
手は止まったが、そこに宿っていた光は止まらない。
ナギーの手から抜け出た白い光が、霊を中心にして上下左右の十字に広がり、怨念と邪気の残骸がその光の中で溶け出した。
黒い長髪が舞い上がり、幽霊少女の顔があらわになる。
額の傷と目尻から黒い液体がとめどなく流れ出しては蒸発し、消えてゆく。
十字の光が眩さを失い、穏やかになり、薄くなり、やがて消えると、ナギーの黄金色の右拳の前には、茫然自失の態をした少女の魂が残った。
マフラーが落ちてくる。
風に吹かれて、俺の頭にかぶさった。
温かかった。
階段から陰陽師主従が降りてくる。
煙突の壁にもたれて座っている俺とナギーのところに歩いてきた。ナギーは、安らかな寝顔をしているもう一人の自分、絵沢渚の魂を抱きかかえている。
陰陽師アニーが、寝ている少女の顔を覗き込む。
「まだ霊力がありますわね。これは当分成仏しそうにない……。ふふ、よかったですわ」
「どうしてですかあ」
「大きな貸しにできますもの。この人たちがどれだけの厄介になったか、考えてもごらんなさい」
「阿仁女様、何だかブラックですよう」
「債務不履行の心配はありません」
ナギーが呑気な口調で言った。
「私には、連帯保証人がいますから!」
連帯って、俺のことか?
「もうなくなってるぞ、糸」
赤い糸も、赤い糸で作られていたミサンガも、消えている。
「あれ? 最後のときに使っちゃったかな」
自分の右腕を眺め回しているナギーは放って、アニーと赤靴に話しかけることにする。
「あのー、これ、治して欲しいんだけど」
右脇腹の、仮止め箇所に血がにじんでいる。貧血で死にそう。死んだら怨むぞ。
「そうですわねえ。医療費は高くつきますわよ。貸しでよろしいですわ」
「え? 福利厚生は?」
「もう契約満了日ですのよ。先程のこともありますし」
お兄さん発言のこと、覚えてるのかよ。
「さ、赤靴、さっさとなさい。まだ結界の回収もしないといけませんのよ」
「はううっ!? 休む暇ないですよう。ロードーキジュンホー違反じゃないんですかぁ……。やっぱりブラックですぅ」
よく知ってんな、お前。
「寝返った人なんて治さなくてもいいですよお」
「信じるなよ。ネタでもこんなときに持ち出すな」
下らないやり取りを命がけでしていると、眠っていた幽霊少女が薄目を開けた。
「ここは……」
「まだ船。九州の港まで乗ってから、一緒に帰りましょう」
ナギーが手を握って答えると、霊が頷いた。ナギーの右手に残っていた金色の光が、霊の手に移る。
エメラルドグリーンの閃光の中で、ナギーが消えた。
髪の毛が赤く染まった、少女の霊を残して。
その後、あるフェリーに乗った乗客たちの間で、四人の少女と一人の少年が悪霊達と戦っていた、という話が流行ったという。
また、不思議ちゃんと呼ばれていたある女子中学生の乗客は、怨霊が銀河鉄道に乗って天に召された、と語ったという。
真相は、定かでない。




