嵐
五階に下りた。
あいつ、どこまで飛ばされたんだろう。
中央階段の前に立ち、見回す。
乗客も乗員もいない。幽霊も都市伝説もいない。さらには陰陽師も式神もいない。俺だけだ。
音は暖房のものしかせず、どこか心細い。
汽笛が鳴った。
この音、寝ているときにはうるさいだろうけど、不安なときにはいいかもしれない。力強さを感じる。
汽笛が鳴り止んだ。
すると今度は、スマートフォンから音が鳴った。メールの着信音だ。
三つの文で書かれたメールを読んでいると、誰かに手首を掴まれた。透き通るほど白い右手で。
「うおっ!?」
「そんなに驚かなくてもいいでしょう?」
やたらと落ち着いた調子で言われた。見上げると、ナギーの顔があった。
「怖いって」
「そう?」
「どこにいたんだよ」
「駐車場です」
駐車場? 床をすり抜けて落ちたのか。ここの螺旋階段は、五階から七階まで。駐車場がある四階以下へは、別のルートを使わなくてはならない。
「怪我は」
「ありません」
妙に冷静だ。
「服は?」
ブレザーの上着を着ていない。暖房があっても、半袖カッターシャツでは寒いだろう。
「……失くしたみたいです。いつの間にか、どこかに」
左手で右ひじから右手首までをさすりながら、赤毛の少女が言った。
桜の校章が付いている半袖シャツから出ている両腕も、右手と同様に白い。指先から袖に隠れる部分まで、右腕、右手、左腕、左手、すべて綺麗な純白。これが何で、暴威を振るう理不尽な拳になるんだ。
「下は空気がよくありません」
「駐車場だからな」
「行きましょう」
「どこに」
「もう大橋です」
瀬戸大橋か。
「よし、見に行こう」
中央階段を上り、六階へ。船の後部に向かい、二人で歩く。
「やっぱり、一番見晴らしがいいところだよな」
「ええ」
静まり返った通路を進む。浴場もすでに閉じられている。
展望デッキに出るドアを開ける。
簡単に開いた。ドアの外は、デッキに備え付けられたライトによって薄く照らされている。
俺から先に出た。
外の空気が冷たい。風も強い。
暗さが増した。
頭上の空間を、巨大建造物が覆う。
船が進むと、大橋の車道が見えた。交通の要衝であるこの橋は、午前零時を過ぎても往来が絶えない。ヘッドライトによる小さな光が、右から左に流れる。
その下に、動かない光がある。車道の下、線路の上だ。目を凝らすと、橋に蒸気機関車とそれに連結された客車が停まっていることが見て取れた。列車全体は弱い白光に包まれており、俺から見て機関車の左斜め上の位置に、縦三つに並んだ赤い光が強く輝いている。
「何だあれ。あんなところに停まるのか?」
「あれは幽霊列車の最高峰、『イーハトーヴ・オリジナル』。最も優美な列車です」
物静かな口調で返事が来た。
「幽霊列車なのか。最高級の……。何だか普通の列車より小さく見えるし、そうは思えないな」
変な触手がないだけで最高級になるのだろうか。
「あれこそが至高なの。コピーやアレンジメントより、オリジナルの格が上。そう思わない?」
「何のオリジナルか知らないけど、まあ、そうかもな」
二人で歩みを進める。
展望デッキ右舷側、その中ほどまで移動した。俺の前方には大橋、右には船の煙突がある。
「切符が欲しいでしょう? あなたにも持たせてあげます。みんなで一緒に乗りましょう」
「今すぐ?」
「そう」
「離れてくぞ」
「心配ありません。転移装置がありますし、船は停めます。先に乗りなさい」
どこか厳かに少女が言った。
「どこから」
「そこです」
白い手が海面を指差した。
「断る。ゴージャスな列車じゃないからな」
「離れて!」
陰陽師少女の声がデッキに響いた。
俺はすぐ、姿勢を低くして一気に駆け出した。背後から風を切る音がしたと同時に、背中に風圧を感じた。冷たい空気がダウンジャケットの中に侵入してくる。
振り返ると、右拳を握った赤毛の少女が体勢を崩している。
北風が煙突にぶつかり、跳ね返された。
風に含まれた無数の羽毛が、牡丹雪のように赤毛少女に降り注ぐ。その羽が床に落ちきらないうちに、陰陽師が呪文を唱える。
「壱ノ焔、梏ノ理ヲ以テ彼ノ者ヲ符二――。弐ノ焔、桎ノ理ヲ以テ彼ノ者ヲ封ゼ――。終ノ焔、鉗ノ理を以テ、穢、縛シメタマヘ――」
詠唱が素早い。滑らかに、流れるように、言葉が紡がれる。
俺と赤毛少女の斜め上、七階後部デッキに鮮やかな緑色の火球が三つ、正三角形に並んで浮かび、即座に撃ち出された。
三つの火球はそれぞれ自動車のタイヤ並の大きさの火輪に形状を変え、互いに位置を入れ替え、鎖の環の像を描いて飛ぶ。
目標に命中し、霊気の火焔が火の粉を散らした。
「う……?」
三つの輪が少女を縛った。一つ目は両腕ごと胴を、二つ目は両足首を、三つ目は首を捉えている。
赤と緑が混ざった霊気の軌跡を残して、縛られた少女が陰陽師の手元に引き寄せられる。
そして、擦れるような音を残して、消えた。
「封印した……」
「何を?」
声がした。封印された少女が立っていた場所から、その少女の声が。
ナギーの顔が俺を見ている。
髪の毛が黒い。オレンジ色の灯火に照らされている髪の毛は、確かに黒い。
服装も変化している。半袖カッターシャツと制服スカートだったはずなのに、クリーム色のセーターと狐色のロングスカートになっている。コートを着ていて、首にマフラーも巻いている。さらに手袋を嵌め、ブーツを履いている。コート以下は、全て茶系統の色だ。
「距離を取って!」
陰陽師アニーが叫んだ。それから彼女は七階後部デッキから六階展望デッキへ、軽快に飛び下りた。
黒髪少女の霊がそちらを向いた隙に、俺は走って間合いを広げた。
展望デッキ上において、アニーが右舷前方寄り、俺が右舷後方寄りに立ち、右舷中央にいる少女の霊を挟み込んでいる。
「挟み撃ちね。ならば、ここから」
霊が左右を警戒しながら、展望デッキ中央にある煙突に向かって歩き出した。底部が長方形、側面が台形の煙突は、南極大陸の火山のように煙を噴いて、フェリー後部に聳えている。
「これは……」
霊が呟き、煙突の壁に手を伸ばす。
火花が散って、手が弾かれた。
「そこからは、もう入れませんわよ。コーティングもありませんものね」
アニーが言った。
よく見ると、床上十五センチほどの高さで、煙突を囲むように注連縄が張り巡らされている。幽霊を弾く結界だ。
「コーティング? あの赤い、妙な霊気のことね。まとわりついてくる……」
霊が険しい表情で言った。
「阿仁女様あっ! こっちも全部張りましたよおっ!」
赤靴が叫ぶ。
六階の船室につながるドアの前に立ち、片手を挙げている。
一瞬だけ首を振り向け、それからすぐ霊に視線を戻してアニーが言う。
「言い直しますわ。これでもう、どこからも入れませんわね。渚さん」
「まだ彼らが中にいるでしょう?」
「貴女の友人方なら、全て封じて差し上げましたわ」
「そう。でも、また増やせばいいだけね」
「いいえ、貴女もここまでです。成仏していただきますわ。陽が昇って法要が始まれば、この世との縁が切れます。わたくしが貴女の霊力を弱めて、お手伝いいたします」
「一人で去るつもりはありません。生が分かち合うものならば、死も分かち合うもの。生を分かち合えないのならば、死を分かち合いましょう。あなたも来なさい」
霊がアニーに歩み寄る。
「貴女に武術の心得はなかったはずです。怪我をしますわよ」
アニーは半身を引いて構える。
「霊魂の戦いは精神の戦い。それは武道家だけが行っているものではありません。私に王手はかからない」
霊の周りに黒い霧が生じ、照明からの光を遮る。
幽霊少女の姿が闇に溶けていく。
その闇はデッキ上をゆっくりと滑り、アニーを飲み込んだ。
俺のダウンジャケットの背が裂かれたときと、同じ音がした。
「あっ。阿仁女様あっ!」
黒霧が晴れた。
アニーが手首のところで腕を交差させた形で、両拳を額の前に振り上げていた。
その両腕交点の上に、幽霊少女の左手首が乗っている。手首が太い。拳も大きい。左の手袋が、黒いガントレット――西洋甲冑の籠手に変わっていた。
「赤靴おどきなさいっ!」
「はいいっ!」
陰陽師の命を受けた式神の少女が、慌てて左舷に走る。
「渡会流・一本背負い!」
投げ飛ばした。
ドア、壁、窓の三つを覆う結界が、青緑に閃いた。
防犯シャッターに自転車が激突したときのような音が、騒々しく鳴った。
頭を下にして、前面をこちらに向けて、幽霊少女の全身が結界による防護壁に張り付いている。
黒く長い髪が重力に従い、床に流れる。
しかし、コートもロングスカートも、捲くれない。垂れ下がらない。それらは形状を保ったまま、いや、形状は保ったまま、火花を散らしつつ薄く光る防護壁に、磔にされている。
「色が……」
黒い。
セーターも変色している。
ということは、あれらも手袋と同じく……?
霊が一八〇度回転し、ゆるりと床に降り立った。
「後ろから回り込んで下さい!」
言うや否や、アニーが霊に突っ込んでいく。
今度はこっちに投げ飛ばすのかもしれない。
俺も駆け出した。展望デッキ上の最後部から左舷側に回り込む。
赤靴がいた。
左舷側の階段の途中で、かがんでいる。黄色いレインコートが白色に、赤い靴が紫色に染まっている。赤靴は護符で青色に光る霊気の盾を作り、それに隠れているからだ。階段の手すりの隙間から、戦いの様子をうかがっている。
俺はその隣に移動した。
「お札を構えてください。危ないですよう」
攻撃用の呪符を構えることにした。
右舷側では、アニーが一方的に幽霊少女を攻め続けている。
左ひざ蹴り、右水平チョップ、右後ろ回し蹴り、右ジャブ、左フック、右掌底打ち、左裏拳、右後ろ回し足払い……と、次々に繰り出す。
幽霊少女は両腕で頭部をガードしている。
攻撃はその両腕と脇腹と足に全て命中しているが、倒れたり吹っ飛んだりすることはない。ガードが弾かれることもない。とはいえ、霊は少しずつ後ろに下がっているので、全く効いていないということはないはずだ。
「くっ。硬いですわね……」
攻めているはずのアニーの顔に、焦りの色が浮かぶ。
「攻めが切れたのね」
攻められている側は落ち着いている。
「いいえ。コーナーに追い詰めた以上、ここからですわ」
霊は結界による壁際にまで引き下がっていた。
「あなたには金気が足りません。その軽い攻めでは、端にきても私を必死にすることはできない」
幽霊少女が、わけのわからないことを言っている。あいつの本体だけのことはある。
霊が反撃に出た。
右手でアッパーカットを放った。
「つっ」
アニーはひじを曲げた左腕の内側を下にして、それで拳の衝撃を受け止めていた。整った造作の顔がわずかに歪んだ。
幽霊少女のさらなる攻撃が続く。今度はガントレットつきの左拳で、左斜め下から右上方向に振り上げた。
アニーは上半身を反らせてかわし、その左腕を自身の両腕で捉える。
「打撃が効かないのなら、関節技ですわ! 渡会りゅ……う!?」
ねじりあげる途中の姿勢で固まった。なぜ?
「このまま心臓も止めてあげましょう。海水は後で飲ませてあげます」
「致し方ありません! 渡会流・ドロップキックッ!」
霊の腕をつかんだまま飛び上がり、至近距離から両足で蹴りを放った。
反動でアニーはデッキ右舷側中央に跳び、ダイナミックなキックで霊は再び防護壁に叩きつけられる。
さっきとほぼ同じ質の音が鳴った。金属のような、陶器のような、硬質の響きだ。音量は大きく増している。今度は効いただろう。
「撃って下さいっ!」
赤靴が叫んだ。
「え?」
聞き返しても、心配顔の赤靴は振り向かない。
「術式で治療しないと」
赤靴の視線の先を追う。
すると、そこにいたアニーの両手と左腕から、血が流れ落ちていた。嵌めていた黒い手袋が裂けている。白いジャンパーの左袖も内側が大きく破れていて、血で赤く染まっている。
「何で流血が……」
「早く!」
とにかく援護射撃だ。
「壱ノ焔、弩ノ理ヲ以テ彼ノ者ヲ天ニ――」
緑色の火矢が飛ぶ。
幽霊少女の肩に当たった。
しかし刺さらない。弾かれて、消えてなくなった。
もっとも、予想通りではある。気にせず連射だ。
「弐ノ焔、弋ノ理ヲ以テ彼ノ者ヲ封ゼ――。終ノ焔、浄ノ理を以テ、穢、払ヒタマヘ――」
あるだけ撃ちまくろう。
呪文を唱えながら、階段で七階後部デッキに上る。斜め後ろの高所に当たる位置から撃てば、確実に相手の注意がアニーたちから逸れる。
「壱ノ焔、弩ノ理ヲ以テ彼ノ者ヲ天ニ――。弐ノ焔、弋ノ理ヲ以テ彼ノ者ヲ封ゼ――。終ノ焔、浄ノ理を以テ、穢、払ヒタマヘ――」
舌を噛みそうだ。
矢の雨――と呼ぶには少なすぎる。だが、時間稼ぎにはなるだろう。幽霊少女は振り向いて、頭部に飛んでくる矢だけは払い落としている。
この間に、赤靴はアニーの側に駆けよった。アニーの叱り声がしたが、内容を聞き取っている暇はない。
撃ち続ける。
「終ノ焔、浄ノ理を以テ、穢、払ヒタマヘ――」
霊気製の炎の矢は柵をすり抜けて飛び、俺を見上げている幽霊少女に迫り、そしてことごとく弾かれ、振り払われた。
五枚目か六枚目かの呪符を使い終えたときに、幽霊少女が含み笑いをして言った。
「ふふ……いい趣味ね」
イヤミだな。俺は飛び道具、割り込み、不意打ち、斜め後ろから、柵付きの高所から、と卑怯じみた攻撃をしているだけに。
「そいつはどーも」
皮肉っぽく投げやりに言ってやった。
「私も付き合ってあげましょう。それでこそ本格です」
あの世逝きデートなら、憑き添ってくれても嬉しくない。それに何が本格なんだ? 俺の霊感は付け焼刃だ。
烈しい水音がした。
幽霊少女のずっと後方、フェリー後部の右側の海からだ。
海面が高く盛り上がっていく。
あれは……物凄くシャレにならない威力の攻撃なのでは……。
「つっ、つなっ、つなつなつなつなっ、津波ですうううっ!」
「そこまでの力があるはずはっ……!」
赤靴とアニーが叫ぶ。
津波なら死ぬ。間違いなく俺も死ぬ。
津波にしては海面の盛り上がり方が小さく、いや、細くなった。その代わりに高さが増してゆく。
水柱になった。
その水柱はすぐに水の球になり、海上に高く浮かび、凍り始めた。球の直径は、大型乗用車の長さぐらい。凍結が進むにつれて塊は膨張し、球形が崩れる。
何だ、津波じゃないのか。
よかったよかった。多分あれが飛んでくるだけだ。あのでかい氷の塊が。
――それで十分死ぬ。
「衝撃と冷たい海……あなたも味わいなさい」
護符ではおそらく駄目だ。
下へ逃げよう。ここ七階の出入り口部分は細く、船内へ逃げても壁や天井が崩れてきそうで、心もとない。
階段へ全力疾走。
展望デッキ左舷側の階段を下りる途中で、背中を強く風に押された。
「バンプを!」
知らない言葉を聞いた瞬間、体の側面から階段前の床に激突した。
「ぐお――」
自分の絶叫がかき消された。
壊れた七階の柵の残骸が床に落ちる音。
彼方で氷の塊が海面をえぐる音。
生じた高波が落ちる音。
残響が消えた。
「雅弘さんっ! どこですか!」
アニーの声がする。煙突の陰になっていて、互いに見えない。
声が出ない。起き上がれない。
煙突と七階船室の間から、船の右方で高く盛り上がってゆく海水の様子が見える。
二本目の水柱が立った。
「こっち狙ってますよおっ」
霊は、赤靴の声がした方向に体も顔も向けている。
攻撃対象を変えたのか。それともフェイント? どっちだ。
大球が飛ぶ。
船に当たった。水が弾けて、デッキ右舷側を広く覆った。凍らせていない?
「あっ、また凍っちゃいますっ」
再び赤靴が叫んだ。
水を撒いてから凍らせる……二発目は足止め目的か!
三本目が立つ。
狙いは――。
幽霊少女がゆっくりとこちらに歩いてくる。
瞳に射すくめられる。
少女の真後ろ、北からの風に黒髪が靡く。
霜のついた少女の服は、靡かない。
コートは関節部分だけを残し、スカートは数本の縦溝を残して、凍りついている。マフラーとセーターも凍っている。コートの左袖とガントレットの手首部分には、赤黒い染みがある。
少女が一歩こちらに近づくごとに、吹きつける風が冷たさを増してゆく。
「次は受け止めなさい。粛然と」
少女が宣告した。
氷塊が形成される。フェリー最上階をも超える高さに浮かぶ。
煙突の陰に走ろうとしたが、痛みで立てない。
階段の手すりにつかまって、どうにか身を起こし、支える。
護符で防ぐしかない。
「壱ノ焔、壕ノ理ヲ以テ我ガ身ヲ地ニ――。弐ノ焔、塁ノ理ヲ以テ我ガ身ヲ蔽イ――。終ノ焔、護ノ理ヲ以テ、穢、閉ザシタマヘ――」
緑色に光る防護壁から、氷塊が透いて見える。緑白色の物体が加速しながら迫ってくる。
異様な重量感と大きさ。近距離では氷山と変わらない。
潰される――。
少女の左側の横顔が、目前に見えた。
その少女は長い金髪を振り乱し、反時計回りで氷塊に振り向いた。黄金色の光が十字に閃く。
「『切磋琢磨』ーーーっ!!!」
切断音、破砕音、溶解音、蒸発音が同時に響き、氷塊が四つに割れて吹き飛んだ。
左上と右上の破片は俺の後方の海上に飛び、右下の破片は柵にぶつかってから展望デッキ左舷側を滑り、左下の破片は船室を守る結界の防護壁、護符による防護壁、煙突を覆う防護壁の順に跳ね返り、右舷側に滑っていった。
破片といえども、重い。衝撃の名残で手が痺れる。
正面では、金髪の少女と暗緑色の髪の少女が対峙している。
金髪の少女が叫ぶ。
「帰るのよ! 一緒に! 家に!」
「帰ってどうするの? 二人の悲しむ顔を見るだけ」
「だからって」
「この船のこと? 構わないでしょう? 同じときに、同じ様な客を乗せて、同じ道を通る。事故のことは忘れようとしている。考えたくもないのでしょう」
事故死した少女の霊は、船室のある方向を見据えている。
「死を軽んじることは命を軽んじること。私が、いえ、私とあなたが失ったもの、人の命とは良いものです」
暗緑色の髪の幽霊少女が、さらに言葉を続ける。
「彼らにはその味が、その良さが、よくわからない。だから私が貰って上げるのです。この船を送り出した者たちにも、あの貨物船を送り出した者たちにも、こちら側に来てもらいましょう」
「私は嫌。僻んで、妬んで、怨んで終わるだけなんて絶対に嫌!」
視界を覆う緑色のフィルターが薄くなっていく。盾が溶けてゆく。
護符の霊力が切れたのだ。
暗緑色の少女の髪が徐々により黒く、それと並行して金髪少女の髪が橙に、そして赤に変わる。
「あなたはもう見つけたの? 命に代わるほどの価値を。体の温かさを失っても惜しくないものを」
元の黒髪に戻った幽霊少女が問いかける。
問いかけられた都市伝説の少女は黙っている。
「どきなさい」
幽霊少女が近づく。
「嫌よ」
「何度やっても同じことです。本体である私が持つのは、魂の力と根底の意志。偽りの力、虚像でしかないあなたには、止められない」
吹き抜ける北風とその音の中で、風を切る音がした。
鈍い、密度の高い物同士がぶつかるような音がした。
二つの拳がぶつかっていた。
黒いガントレットに覆われた左拳。赤いミサンガを巻いた手首の先にある、右拳。
「ぐっ」
赤髪少女が先に手を引いた。右拳を左手で押さえる。
その拳と激突したガントレットには、小さな亀裂ができている。
「復讐からは何も生まれない。そう言う人は、何を生み出してきたのでしょう。何を失ってきたのでしょう」
幽霊少女は自身の首に巻いているマフラーを、巻くときと逆回りに、ゆっくりと剥がしてゆく。
黒く染まった氷の欠片が飛び散る。
少女は取り外したマフラーを、細長く折りたたんだ。
「私の顔、私の分身、赤い穂のような髪……。あの物語のこと、あなたも知っているでしょう?」
右手でマフラーの端寄りの位置を掴み、左手で右親指の近くの位置からマフラーを撫でていく。
撫でられた箇所はより黒くなり、あらためて硬さを加え、しかも鋭さを帯びた。
「赤穂の義士は、冬に、雪とともに、刃を振るった」
剣を振り上げた。
「来るぞ!」
「させませんっ!」
ナギーが右腕を振るう。氷塊を砕いた十字の閃光がデッキを赤く照らし、甲高い反響音が鼓膜を烈しく刺激する。
冷たい風が俺の顔を打つ。
光と音が消えた。
ナギーの放ったアッパーカットが、剣を持った少女の鳩尾に決まっていた。




