海嶺
額に汗。
手に擦り傷と切り傷。
肩に打撲。
ダウンジャケットの羽毛がいくらか抜けた。フェリー五階の通路に散っている。
ここは、同じく五階にあるフェリーのエントランスだ。
「抜け穴は見つけましたわ。これから塞ぎます」
スマホから耳に綺麗な声が届いた。
「うういんやうのうだのどこりがどぅぐぬぁい……」
「何ですの?」
こちらは声が枯れている。
「お札が足りないって」
ナギーが代わった。
こいつには、髪の毛がほつれている以外にダメージが無い。体に触れようとした幽霊男は弾丸ライナーで結界による防護壁に叩きつけられ、遺品を武器にする幽霊はその資産を失ったショックに打ちのめされ、その他の幽霊は平手打ちを喰らって昏倒した。
「どれが足りないのかって」
三種類で各一枚、すなわち三枚の札を片手で持って扇状に広げ、そのうちの一つをもう一方の手で指し示す。
「封印用だって。……うん、うん。これからどうするの?」
俺にスマホを戻さず、ナギーが通話を続ける。
その間、制服を着た一人の女性船員が大きな欠伸をしつつ、俺の隣を歩く。
「わかった。じゃあ切るね」
ナギーがスマホを返してきた。
スマホの動きを見て女性船員は激しく目をこすった後、飲料の自販機コーナーに向かった。
「ぬぁんだっで」
「何か飲みましょう」
缶コーヒーを買った女性船員の背中を見送ってから、自販機でスポーツドリンクを買った。
中央階段に移動し、座って飲む。
ひんやりとした冷たさが喉に心地良い。
「はー。い……いけるな」
危うく『生き返る』というところだった。
「喋れる?」
「何とか」
「残りの幽霊少ないから、補充しないって」
「残り二枚だぞ」
「それで足りるみたい。あっちでも何人か封印したとか言ってたし」
沢山いたんだな。結界の抜け穴って、どこにあったんだろう。
さっきの女性船員がプロムナードの方からやってきた。あそこで休んでいたらしい。螺旋階段をのぼっていく。
後を追うように、航海士風の男が現れた。女性船員とは色の違う制服を着て、帽子をかぶっている。七階前方にあるブリッジへ行くのだろう。
ドリンクを飲みながら、何気なく男の背中を見つめる。
左肩甲骨のあたりに、穴があった。
ぼろい制服だ。染みまである。穴の周囲の汚れが特にひどく、そこからスープか何かが垂れ落ちたように、染みが下方向に広がっている。
帽子にも左側に穴が開いている。汚れ方は制服と同様で、染みが顔にまで広がっている。顔にまで……。
「日焼け……じゃないよな」
「この船が動いてるの、ほとんど夜……」
「血痕だ!」
ナギーが駆け出した。俺は出遅れた。
階段を数段飛ばしで一気にのぼり、ナギーはすぐ男に追いついた。
「ねえ、ちょっと!」
ナギーが話している間に、俺も男に近づく。傷からみて幽霊の疑いが濃厚だが、男の体は透けていない。
「離セ!」
男が叫んだ。
「あっ!」
悲鳴を上げたナギーが転げ落ちてくる。
「糸につかまれ!」
俺の左小指とナギーの右手首をつなぐ赤い糸が姿を現す。あたれあたれ、ととっさに念じ、右手に糸を巻きつけた。ナギーも右腕を素早く回して糸を引っ張ったので、転落は途中で止まった。糸は透明になって、また見えなくなった。
「あれも封じて! 船を乗っ取る気よ!」
赤いミサンガのある右手で、ナギーが男を指差した。男は六階と七階の間の踊り場まで到達している。
遠い。
封印用のでは駄目だ。呪符で撃とう。呪符の射程は封印用のものより長い。
男を見据えて、意識を集中させる。目だけに頼っていては当たらない。風と冷熱を皮膚から感じるように、霊気の流れを全身で感じ取り、それから呪文を唱えた。
「壱ノ焔、弩ノ理ヲ以テ彼ノ者ヲ天ニ――」
札から発したバレーボールほどの丸い緑の炎が凝縮し、炎の矢に変わった。
矢は空を切って飛ぶ。
「グウッ」
手すりをすり抜け、男のふくらはぎに刺さった。
それでも航海士の男は歩みを止めない。
二発目だ。
「弐ノ焔、弋ノ理ヲ以テ彼ノ者ヲ封ゼ――」
二の矢が飛ぶ。これには封印用のものと同じく、緒が付いている。
反対側のふくらはぎに刺さった。男が膝をついた。
二人で螺旋階段を上り、間合いを詰める。
「ウタレタ。マタウタレタ」
「また……」
ナギーが言葉を繰り返した。
「身代金……安カッタノダロウカ……。ワタシノ命ハ……ソンナニ安カッタノダロウカ」
「うっ」
人質にされたのか。
「悪いが大人しくつかまってくれ! 海賊の亡霊なら、またぶちのめしておくから!」
生きてる奴は海保か国連軍に頼んでくれ。
札を封印用に持ち替えて構える。
「壱ノ焔、梏ノ理ヲ以テ彼ノ者ヲ符二――」
「手枷ッ!? ウアアアアーッ!」
「しまっ――」
男が突っ込んできた!
「ごめんなさいっ」
ナギーの左拳が男の右頬に入った。男がよろける。
「グッ。デモ、銃弾ヨリ痛クナイ……ッ」
炎に腕をとられつつも、男がナギーに体当たりした。
「うわっ」
今度は止められない。
ナギーは階段の手すりをすり抜けて、どこかへ吹っ飛んでいった。
しかし、追いかけるわけにはいかない。まずこの幽霊を止めなくては。
「弐ノ焔、桎ノ理ヲ以テ彼ノ者ヲ封ゼ――」
足に畳み掛ければ、堪え切れないはず。
火の輪が男の足首を捉え、引き寄せてくる。
「マタ船ヲ……、ウウ」
閃光と一緒に、航海士の霊が札の中に消えた。やっと封じたか。
勝ったとはいえ、どうにも気分が重い。悪人を叩きのめしたんじゃないしな……。
ともかく、あいつを探しに行くことにしよう。以前に学校の三階から投げ飛ばされたときも、怪我はしていなかったはず。くたばってはいないだろう。




