暗渠
「釣レナイ……」
釣竿が窓ガラスをすり抜けて、外に突き出ている。
ガラスは破られていないが、結界に縦十数センチ、横五センチほどの小さな裂け目がある。その裂け目の部分だけ、白い霊気が薄く光っている。
釣り人の男はフェリー五階、プロムナードのソファに座っている。消灯時刻を過ぎて照明が弱くなったことに加え、帽子を深くかぶっているので、顔は見えない。
近づいて様子を見に行く。
「調子はどうですか」
「全然」
釣り人幽霊はそっけなく答えた。
「この穴、自分で開けたんですか」
幽霊は首を横に振った。
「一人でやってるんですか?」
「アア」
通りすがりのようだ。でも、どこから入ってきたのだろう。この結界の裂け目は小さい。通り抜けるのは無理に思える。
「餌ガ良クナイノカ」
場所もだろ。大体、何を釣るつもりなんだ。
「アノトキモ魚、釣レナカッタ」
「大変ですね」
会話を続ける。どこかに侵入口があるのなら、それを聞き出しておこう。
「蛸モ蝦蛄モ海老モ、モウ沢山ダ……」
「それ、悪くないと思うんですが。おいしいですよ」
「私ハオイシクナイ……私ノ体ハオイシクナインダ」
窓の外を見たまま、幽霊が呟く。
「えーと、その、すいません」
後ずさりして距離を取る。
こっち向くなよ。頼むから向くなよ。
釣り人の幽霊とは別の位置から、ポタッ、ポタッ、と水の滴る音がした。何かを引きずる音もする。
音が徐々に大きくなってくる。
水音……。
ここから最も近い水場は、シャワールームだ。同じ階にある。ナギーが調べているはずだが……。
誰かが通路を歩いてきた。五階の最後部にある、レストランの方向からだ。レストランは展望デッキの真下に位置している。
「漁ノ邪魔バカリシクサリオッテ。デカ船ハ、ホンマ腹立ツワ……。食ウトル魚、誰ガ獲ットルト思テンノヤ。モウ沈メテマエ」
爺さん漁師が濡れた網を手にして、俺の横を通り過ぎようとする。この音だったのか。
通りすがりの釣り人は放って、こちらに話しかける。
「えーと、そこの漁師さん。沈めるって、本気?」
冗談か、本気か。その答えで、俺のすべき対応が異なる。
「アン? ワシガ嘘ユートルトデモ言ウンカ。ヤルト言ッタラ、ヤッタルワイ」
「一人で?」
「一人デデケルカイナ! ミナデ底引キ網ヤ。元締メノネーチャンハドコヤロ……」
幽霊漁師がエントランスに向かって歩き出した。呼び出しのアナウンスをしてくれるわけでもないのに。
悪いけど、アンタが地引網だ。
札を手にして構える。
全身に自分の霊気を感じる。少し板についてきたかな?
「弐ノ焔、桎ノ理ヲ以テ――」
突然、腕が引っ張られた。
札が舞い上がり、床に落ちた。
「オイ! 釣リノ邪魔スルナ」
俺の右袖から、銀色の糸が伸びている。
糸を辿った先にあるものは、ふやけた皮膚、ところどころ千切れた顔の筋肉、濁った右目、崩れかけの飛び出した左目玉、歯並びの悪い――を通り越している、歯茎並びの悪い口。
「だからこっち見んなって! それにそっちこそ邪魔すんなよ!」
袖に引っかかった釣り針をつまもうとしたが、指がすり抜けた。
気合が足りなかったか。でも、素手で針を持つと危なそうだな。
「何ヤ、ドシタンヤ」
漁師幽霊が振り返った。
「針ガ引ッカカッタ」
「オワッ。顔ニ引ッ掛ケタンカイ……。無闇ニ振リ回シタラアカン。ソナイナコトジャ釣レヘンワ。ソヤ、ワシト一緒ニ来ンカ。魚ヨウケ獲レルヨウニナルデ」
「勧誘するなよ」
「釣リノコーチデモスルノカ?」
釣り人幽霊が尋ねた。
「チャウ。魚ヲ増ヤスンヤ。コノ船沈メテ、餌ト漁礁ニスルンヤ」
漁師幽霊がふざけたことを言っている間に、俺は別の札を取り出し、それで針をつまんで外した。
「蛸ハモウイイ。坊主ハモウ嫌ダ」
「蛸ダケヤナイ。魚モ獲レルデ」
「本当ニ?」
「アア、ソヤ」
「ソレナラヤロウカ……」
意気投合するんじゃねーよ。
「弐ノ焔、桎ノ理ヲ以テ彼ノ者ヲ封ゼ――」
釣り人も封印だ。右手で札をかざす。
「キャアッ」
また釣り糸を何かに引っ掛けて転んだのか、相手はいつのまにか倒れている。その体に、札から出た緑の炎が飛んで行く。
火輪が細い脚をとらえた。脚は、濡れた赤いワンピースのスカートから出ている。
……あれ? 何か違う。
「ウ、ア、ア」
女の人が吸い寄せられてくる。引きずられながらも、二メートル以上ありそうな長い髪を、火輪の緒と俺の腕に巻きつけてきた。
俺の手に毛が触れた。
「いや、あの、これはトリートメントしすぎでヌルヌル……」
バシュッと音を立てて、札が謎の女幽霊を吸い込もうとする。
「ウ、ウ、ホテルニ、女ト二人デ……ユ・ル・サ・ナ・イ……」
女幽霊は髪の毛でしがみついてこらえようとする。滑って外れそうになるたびに、新たな髪の毛を伸ばして巻きつけてくる。
「カットしまーす」
赤い光を放つ手刀が、俺の右手首を通過した。
「うおっ!」
「すり抜けてるから、だいじょーぶ」
いつの間にか、ナギーがやってきていた。
「丸ごとリストカットかと思ったじゃねーか」
長い毛が切れ、緑の光と一緒に女幽霊が消えた。髪の毛が俺の手元に残った。
「ア、来タンカ。呼ビニ行コウトシテタトコヤ。デ、今ノ何ヤ。コノ人ノ女カ?」
漁師が釣り人をあごで示しながら、ナギーに訊ねた。
「いえいえ。どこにでもいる、ただのホテルの都市伝説です。幽霊用の結界だけじゃ駄目だよね」
幽霊じゃなかったのか。
「どこにでも……ってのはともかく、都市伝説相手の結界張ったら、お前も締め出されるだろ」
髪の毛を振り払って捨てた。毛は赤い糸くずに変わり、すぐに溶けて消えた。
「あ、そうでした」
ナギーが自分の頭に片手を当てた。
「何ヤヨウワカランケド、ネーチャン、エエカナ。アノ話ナンヤケド」
「ん? あっ、あれは中止ね。中止します!」
ナギーが両腕をクロスさせて、バツ印を作った。
「エエッ!? 今サラカイナ。ワシモ人集メシトルンヤデ」
「釣リタイ……。魚食ベタイ……。釣ラレルノモ、食ベラレルノモ御免ダ……」
「君ィ、コッチノ都合モ考エテクレタマエ。海底別館ノ建設ガデキナイジャナイカ。ウチノホテルハ、バブルガ崩壊シテカラズット資金ガ足リナイノダヨ!?」
何か一人多いぞ。
「仕事ガ終ワラナイ……。休ミガ取レナイ……。出張……。ウウ……皆デ休メバ……」
「フカイ……足ガツカナイ……。声ガ届カナイ……。コノ船ノ浮キ輪、モラウネ。ドコカナ……」
「大会マデアトスコシ……練習……遊バズニシテキタノニ」
背広姿、水着姿、Tシャツ姿……全員とも、体と服が透けている。一人どころじゃない。霊が増えてきた。こんなにも一体、どこから!?
背後から大人びた声がする。
「ソコノ君、我ガ部ニ入ルンダ。歓迎ノ儀式トイコウ。マズハ、コッチノ世界ニ入学シナイトナ」
「危ないっ」
ぶおん、と耳元で音が鳴った。
ナギーの突き出しを受けた俺の体が軽く吹っ飛び、床を転がる。
複数の幽霊、天井、薄暗い廊下、床。景色がめまぐるしく変わり、壁にぶつかって体が止まった。いてててて。
「お前が危ねーよ!」
と言ったものの、それとは別の意味でナギーが危ない。幽霊たちに包囲されている。ナギーはオールを持った体格のいい男と対峙している。
「私が攻撃を引き受けるから、どんどん封印するのよ!」
「合点」
身を起こし、体勢を立て直した。
「鮫……ナゼアンナトコロニ……納得イカナイ……ナゼ俺ダケ食ワレル」
また数が増えた。下半身のない幽霊がこっちに来る。
「オ前モ鮫モ皆……スリ身ニナッテシマエ。蒲鉾ニナッテシマエ」
冗談じゃない。板についてたまるものか。
「終ノ焔、鉗ノ理を以テ、穢、縛シメタマヘ――」
炎が飛び掛かる。
首輪をつけられた霊が呻きを上げ、緑の閃光の中、収監される。
まずは一体。
残りは数えていられない。
通路が霊に満たされていく。催眠用の結界が効いたのか、俺以外の乗客がこの場にいなくて良かった。
フェリー五階、この場所が戦場になった。
船の現在位置を知らせるテレビモニタが、ぼんやりと光る。見ている暇はない。ただ、播磨灘をとうに過ぎたことだけは、確かだった。




