海峡
フェリー六階の左舷側に位置する喫煙サロンの窓から、大阪湾が望める。
船が大きくUターンして向きを変えたので、ここで何か飲みながら神戸の夜景を、とはいかなかった。まあいいか、どのみち飲み物は買えないし、夜景を見ている場合でもない。
今は船内ライブの真っ最中。
飲料の自動販売機を打楽器にした、前衛的な演奏だ。
「埠頭ニハ何デガードレールガネーンダヨ! 畜生! 畜生! 畜生ッ!」
ヘルメットを被った作業着姿のおっさんが、情熱的に自販機を蹴り続ける。
通りかかった六十代ぐらいの別のおっさんが音に驚き、喫煙サロン前の通路で立ち止まった。不思議そうに自販機を眺めている。こちらの生きてるおっさんは身なりがいい。髪は整っているし、セーターも柔らかそうだ。靴も綺麗な革靴。
「えーと、なんか故障しているみたいなんですよ、これ」
近寄らせないようにしなくては。
「ほう、どれどれ」
「見セモンジャネーゾ、コラア!」
「危ないですよ。爆発するかもしれないですから」
もうしてるけれど。
「ふむ、それなら船員さん呼んでこようか」
「あ、すんません。よろしく頼みます」
六十男が中央階段に向かって歩き出した。
「待テヨ。コッチガ安月給デ死ンデルホド仕事シテルッテノニ、優雅ニ退職金ト年金デ旅行カ? フザケンナヨ!」
作業着幽霊が六十男に掴みかかろうとする。
「まあまあ、怒らないで」
ナギーが割って入った。
「ドイテクレヨ! 大体、ナンデアンタガ止メルンダ」
封印には新しい札を使おう。
首に仕掛けるのは気が引ける。これ以上怒らせると、後で供養するのも大変そうだしな。
「壱ノ焔、梏ノ理ヲ以テ」
札に霊光が灯る。
「ウン? ソコノ、何ヲブツブツ……」
「気にしない、気にしない。一緒に船旅を味わいましょう」
ナギーがその両手で霊の両手を合わせ、外側から握った。顔には練習バッチリの、天使の笑み。この悪魔め。
「エ、アア、アンタガソウ言ウナラ」
デレデレすんな。自分を見ているようで恥ずかしい。
ぽふん、と霊気がしぼんだ。
気が散ったか。やり直しだ。
「ソロソロ離シテクレナイカ」
「いえいえ、遠慮なさらず」
「壱ノ焔、梏ノ理ヲ以テ彼ノ者ヲ符二――」
今度は上手くいった。霊の両手首に、霊気の手錠がかかった。
「ア! ハメヤガッタナッ」
「ごめんなさい」
ナギーが頭を下げて謝る。
「ゴメンデ済ムカッ」
どのみち激怒だった。
札を霊の背中に押し付けた。『強』運転の空気清浄機に吸い込まれる煙草の煙のごとく、霊が札に取り込まれた。
「これで三人目か。あとどれぐらいいるかな」
札の数にはまだ余裕がある。
「一緒に船旅……。悪いことしちゃったなー……」
「降りたわけじゃないんだ。狭い部屋に入ってもらった程度に思えばいいよ」
「うん、そうだね」
力の無い返事だった。
さて、見回りの続きだ。同じ階の後部寄りにある、浴場を調べることにする。左舷側に女湯、右舷側に男湯だ。
まず女湯。
ナギー一人が、服を着たまま壁をすり抜けて浴室に入っていった。
浴場の入口付近に怪しい気配は無い。浴場を出入りする人の数は多いが、体が透けていたり、宙に浮いている者はいない。
三分くらい経ってから、ナギーが出てきた。
「いないよ」
次は男湯。
「よし、行ってくる」
ここは俺一人でしなければならない。気合を入れて霊視して、浴場調査を遂行する。
霊はいなかったが、悪夢にうなされそうだ。予想以上に大盛況だったので、沢山のシンボルが嫌でも目に飛び込んでくる。網膜に焼きついて離れない。
浴場を出た。
「どうだった?」
「見なかった。俺は何も見なかったんだ。いい旅になりそうだな」
目頭を指で押さえて言った。
「そ、そう」
「次行くか。どこだ」
「そこ……」
ナギーが顔を向けて示した先には、屋外へ出る扉がある。扉を抜ければ、乗客にとって最も眺望の良い場所、展望デッキに着く。
「外か。二人で大丈夫かな」
不安だ。すごく嫌な気配がする。正直なところ、行きたくない。
「まだ大丈夫」
ナギーが先に進んだ。急いで後を追う。フェリー後部にある展望デッキへの扉は、左舷側・右舷側に一つずつあり、そのうちの右舷側を使う。
扉がやけに重い。隙間から見える外の空間は真っ暗だ。
「強い霊気……」
ナギーが呟いた。
全然大丈夫じゃねーよ。俺の背筋に緊張が走る。
「くるか」
扉を抜けて進む。
空気がやたらと重い。水中を歩いているような抵抗がある。
さらに進むと、明るくなった。
奇妙な空気抵抗も消えた。風が、冷たく湿った空気と潮の匂いを運んでくる。
左側の視界が開けた。
黒い海と、雲に覆われた空が広がる。星も月も見えない。その代わりに、市街地の明かりが海と空の境界線上に並ぶ。無数の光点で作られた帯が、天の川の如く、闇を二つに裂いている。
他の乗客の姿は見えない。
展望デッキ中央に聳え立つ煙突の反対側にいるのかもしれないが、それでも人が少なすぎる。時刻は二十時半を過ぎ、これから明石海峡大橋に差し掛かるのだ。見物客が集まるはずなのに。
「まさか全員落とされたんじゃ……」
凄い勢いでナギーが振り返った。
「まだよ」
目つきが鋭い。
「まだ……。次の橋です」
目から鋭さが消えた。物悲しさに入れ替わった。
「すまん、悪かった」
足音がした。
「あら、もう終わりましたの?」
右側から聞き慣れた声が飛んできた。
煙突と船室建物部分の間を、陰陽師アニーが歩いてくる。何だ、強い霊気って、こっちのことか。
北からの風にナギーの赤い長髪が靡く。ナギーは頬と唇に触れる毛髪を手で払い、アニーに答える。
「六階まではやったよ。あとでもう一回りかな。そっちは?」
「七階は済みましたわ」
アニーが自身の左上方、俺から見れば右上に当たる場所を見上げる。そこには、七階の後部デッキがある。六階の展望デッキからは左舷側・右舷側両方にそれぞれある階段で上ることができる。
「霊はいましたか?」
視線を戻して尋ねてきた。
「三人いた。掴まえたよ。駐車場に二人、六階に一人」
「駐車場と六階……。場所が離れていますわね。トラックが船に乗る前からいたのか、結界の隙が幾つもあるのか、よくわかりません。調べる必要があります」
「俺も?」
「結界の調査はわたくしたちが。貴方はこれまでどおり、ナギーと一緒に霊を探してください」
「わかった」
「阿仁女様あっ、こっち閉じますよおっ」
赤靴が七階後部デッキの柵の間から頭を出して、叫んだ。閉じるといっても、ドアじゃないだろう。結界か。
「誰もいませんわねー」
「これから見まあすっ」
柵の中段の横棒に手を掛けたまま、赤靴は勢いよく答える。
「えーと下はですねえ」
「頭打ちますわよっ」
時すでに遅し。ごん、という音が悲劇を告げた。
「くあうっ!」
「はあ……まったく……」
「痛そう……」
「豪快に入ったな」
様子を見に三人で階段を上る。
「あう~」
幼い悲劇のヒロインは、しゃがみこんだ状態で後頭部に札を当てて、それを両手で押さえていた。札は穏やかな青い光を発している。
「冷却シートみたいだね」
ナギーが札を覗き見て言った。
「冷却シートよりも効きますわ。もう治ったでしょう?」
従者のことを全く心配していない。冷却シートよりも冷たい主かもしれない。
「あ、赤靴はもう駄目ですう。大橋を見るまで治りませえんっ。赤靴に構わず、皆さんは先をお急ぎ下さあいっ。必ず後から……」
「わたくしの頭が痛いですわ……」
主が頭痛をともにし、従者の病状を嘆いた。嗚呼、麗しき主従愛。
「橋を見たいって気持ち、わかるよー」
ナギーも赤靴の隣にしゃがんだ。
俺とアニーが顔を見合わせた。俺は表情で『どうする?』と語り、アニーは表情に加え、首を傾ける仕草で『どうしましょう』と答えた。
赤靴がチラチラと俺の腕を見る。腕時計がある。
「二十時四十八分だな」
「もうすぐだね」
予定ではあと二分だ。
「少しだけですよ。安全のためとはいえ、他の方は出られないのですから」
「はあい」
さっきのは人払い用の結界か。
狭い七階後部デッキと異なり、六階展望デッキは長さ二十五メートルを超えている。幅も二十メートル以上あるだろう。学校のプールより、一回り広い。中央に大きな煙突があるので歩ける場所はその分狭くなるが、それでも両側に釣り船が一隻ずつ収まるほどのスペースがある。今は誰もいない。
歓声が上がった。
七階からだ。乗客たちが、それぞれ部屋に付属の専用バルコニーから身を乗り出して、船の前方を眺めている。バルコニー外側には立ち入り禁止のサイドデッキがあるので、海に転落することはない。
橋梁を支える二本の白い光の柱が太さを増し、高さを大きく増し、間隔を広げながら迫ってくる。
連峰の稜線の形に並べられたライトが吊り橋を飾る。二つの頂は夕陽が照らすように紅く、そこから下るにつれて橙、黄、黄緑と色を変え、麓と鞍部は緑に輝く。
「おおー」
「おおー」
「やっぱり綺麗だね」
「華がありますわ」
巨大な橋の下を船がくぐる。一瞬、暗くなった。
「ずっと見ていたくなるよね」
頭上に光が戻る。俺の隣に立って橋を見つめるナギーの顔と髪が、仄かに照らされた。
「今なら自称しても文句ないぞ」
「んー? 何ー?」
「何でもない」
一つ目の大橋が遠ざかる。
船は二つ目の大橋と事故現場に、刻々と近づいてゆく。




