命綱
「ぐう、胃が痛い……」
「お客様、お体の具合がよくないのでしたら……」
窓口カウンターの反対側から、制服を着たお姉さんが心配そうに話しかけてくる。ここは神戸六甲アイランドにある、フェリーターミナルの一階だ。
「あー、いえ、乗れます、乗れます」
住所氏名などを記入した旅客用の乗船名簿を差し出す。名簿といっても、この段階ではまだ一枚の紙にすぎない。旅客定員は約七五〇人だから、集めれば分厚くなるだろう。
お金を支払い、乗船券を受け取った。
券は最安クラスの大部屋のものだ。本来乗るはずだった陰陽師の男の待遇は、推して知るべし。彼は今、渋滞に巻き込まれた四トントラックの助手席に座っているという。
う、いかん。まただ。
重圧を受けた腹部が悲鳴を上げる。ピロリ菌がいたら、胃ガンになりそうだ。助手の助手なら気楽なのだが、今回は助手。しかもただの助手ではなく、陰陽師の代理だ。付け焼刃の力では荷が重い。
「本当にいいのね」
俺の隣を歩いている物の怪少女・ナギーが言った。こいつは幽霊のようでいて、幽霊ではない。陰陽師の敵でもあり、味方でもある。
「現地取材する記録係が要るって言ったのは自分だろ?」
「そうだけど、あれはあのときだけ……」
「家でじっとしているだけなのも、後味が悪いしな」
フェリーターミナル二階の待合室へ移動した。
待合室の窓から見えるものは、神戸六甲アイランド発・大分行きフェリー《ムーンフラワー スノーフレーク》号の巨体のみ。船体側面に描かれた花・ムーンフラワー(ヨルガオ)は、一部しか見えない。
待合室にいるのは観光客が多いようだ。
おっさん、おばさん、じいさん、ばあさん。大分の観光名所といえば何といっても温泉なので、これらの年齢層が多い。お子様は温泉よりも、中近世のヨーロッパ風世界への冒険が好みだろう。現に天正遣欧少年使節という、その時代のヨーロッパへ行った冒険少年達がいる。大分は、彼らを派遣したキリシタン大名のうちの一人、大友宗麟が治めていた地でもある。
窓に近寄る。
アップテンポの曲が耳に届いた。
案内用のものでないことはわかっている。曲を流しているのは、最も窓際に近い席に座っている小学生ぐらいの女の子。雨も降っていないのに、黄色いレインコートを着ている。両腿の上に大きな風呂敷包みを置き、あごをその上に乗せている。手には赤色の携帯ゲーム機を持っている。
二つの効果音が曲に上乗せされた。剣による攻撃を表現する金属音と、魔法を表現する爆発音。俺には馴染みのあるものだ。
窓際に立ち、腕組みしたまま自身の二の腕をひっきりなしに指で叩いていた高校生くらいの少女が、振り返る。
「遊びに行くのではありませんのよ」
「イメージトレーニングですう」
回復魔法の効果音が鳴った。
「まったく、ゲームで何を言っているのです。油断していると防水が剥がれますわよ。海に落とされてバラバラに溶けて破れたくなければ、もっと真面目にしなさい」
「うっ……。はあい」
陰陽師少女の助手である、式神の女の子がゲームを終了させた。ちなみに俺は二番助手だ。気負ってやってきたものの、助手の助手と大して変わらないのかもしれない。
「お待たせ」
ナギーが静かに話しかける。
「いえ、時間通りですわ」
通称アニーこと、陰陽師・渡会阿仁女が答える。
彼女の服装は白いジャンパー、黒のタートルネックセーター、白のショートパンツ、黒のタイツ、白のシューズ。手には指先が出るタイプの黒い手袋をしている。髪型はこれまで会ったときと同様の、黒い巻き上げ髪。お団子と呼ぶらしい。
「雅弘さん、準備は出来ていますか?」
俺に尋ねてきた。
「大丈夫。呪符も使えるよ」
「車が間に合えば、危険な任務に参加していただくことはなかったのですが……」
四トントラックには、巨大な注連縄が積まれている。フェリーを襲いに来る怨霊たちを防ぐための結界だ。縄というより、綱と呼んだほうが似合うレベルの大きさ。フェリーには二台が乗る予定で、そのうち一台はすでに船内の駐車スペースに入っている。
「まあ、気にしないで。いざとなったらデカい結界のど真ん中に避難できるんだから、一人で家にいるより安全だよ」
糸はまだ外れていない。
霊がこれを辿って家まで来る恐れがある。俺の修行は本来、この霊やその仲間を防ぐためのものだったと、メールに書いてあった。霊の正体については陰陽師組織の守秘義務で明かせなかった、とも。
「大体、負けるわけじゃないんだろ」
「当然です」
「それならいいじゃないか」
「わかりましたわ」
午後六時五十分、乗船開始時刻になった。出港まであと一時間ある。
陰陽師アニーが、その足下に置いてある小型のジュラルミンケースを手に取った。ケースには難しい漢字の書かれたステッカーが貼りまくられている。
「乗りましょう」
「車はもう無理?」
「ええ」
フェリーターミナル内を移動して乗船する。地上二階ほどの高さにある長い通路の先が、タラップでフェリー四階につながっている。
フェリーの階層は、船底に最も近い階から一階、二階、三階と数えていく。
一階から四階までは駐車スペース。
客室は五階から七階まで。大部屋、一人用・二人用・四人用の部屋、ペット同伴可の部屋に種類が分かれている。七階だけは専用バルコニー付きの部屋が占めている。
船内施設としては、五階にエントランス、プロムナード、サロン、レストラン、売店、ゲームコーナー、キッズルームがある。プロムナードとは、船内にある景観を楽しむためのスペースだ。窓際の広い廊下に、ソファーとテーブルが備え付けられている。
浴場は六階、シャワールームは五階と六階にある。
また、喫煙サロンが五階と六階にある。
屋内で最大の売りである景観を見ることができるのは、外側に面している客室、レストラン、浴場、喫煙サロン、プロムナード。
屋外では、五階サイドデッキ、六階の後方にある展望デッキ、七階後部デッキ、七階の部屋それぞれについているバルコニー。六階展望デッキへは五階サイドデッキからの階段、六階の出入り口、七階後部デッキからの階段で移動できる。七階バルコニーの外側にもサイドデッキがあるのだが、そこはスタッフ以外立ち入り禁止になっている。
階段を上り、エントランスに着いた。
「ふーん、悪くない雰囲気だな」
フロント、絨毯、螺旋階段、観葉植物があり、ホテルのような佇まいだ。ただし吹き抜けやプールがないので、高級感では陸上の高級ホテルや外洋を往く超豪華客船には及ばない。もっとも、そのどちらにも泊まったことはないけれども。
「変わってないね」
ナギーが呟いた。
「景色見たいですう」
式神少女・赤靴がねだる。
「充電が終わるまでの間に見ておきなさい」
携帯電話を手にした主が許可した。
「はあい」
赤靴はプロムナードに走っていった。
この船は六甲アイランドの北岸に東向きで停泊しているので、右舷側にあるプロムナードからは同島の夜景が見える。出港すると大きくUターンして船首が西、窓が北を向くので、神戸市街地の夜景が見える。
「連絡してから充電すべきですわね……。雅弘さん、貴方の電話もフル充電しておいて下さい。これで連絡を取ります」
「了解」
「二手に分かれるのね」
スマホを取り出す。充電は五階中央階段の下にある電話コーナーで可能だ。そこへ三人で移動する。
アニーが通話を始めた。
相手は遅刻したトラックの中にいる陰陽師仲間だ。今回の任務には、アニーを含めて三人の陰陽師が携わっている。もう一人は船にもトラックにも乗らず、別の場所にいる。
「……もう乗りましたの。そちらはまだ……抜けられそう? でしたら、車は瀬戸大橋に回してくださいます? 高速なら間に合うはずですわ」
時刻表を確認する。
出港は十九時五十分。明石海峡大橋通過が二十時五十分。瀬戸大橋通過が〇時二十分の予定だ。
充電中に打ち合わせを行う。
「わたくしと赤靴は、七階から下に向かって結界を張っていきます。あなたがたは、一階から上に向かって見回りをして下さい。大型結界一つだけでは、隙がありますので」
「幽霊が出たらどうすれば?」
俺が尋ねた。
「これで封印できます」
お札の束を渡された。これまでのものとは別の種類だ。
「呪文を言いますわね。『壱ノ焔、梏ノ理ヲ以テ彼ノ者ヲ符二――』」
「ちょっ、ちょっと待ったっ!」
「どうかなさいまして?」
平然と言わないでくれ。
紙とペンをポケットから取り出す。新たなカンペの作成だ。
「どーぞ」
「用意がいいですわね。ゲームでなくて、こういうところを赤靴も見習って欲しいものですわ」
ゲーム貸与がバレたせいか、どこかイヤミだ。
「ではあらためて。『壱ノ焔、梏ノ理ヲ以テ彼ノ者ヲ符二――。弐ノ焔、桎ノ理ヲ以テ彼ノ者ヲ封ゼ――。終ノ焔、鉗ノ理を以テ、穢、縛シメタマヘ――』。よろしいですか?」
「もう一度、ゆっくり」
「ぶっつけですから、仕方ありませんわね」
二回目で確認まで完了した。
「弱い霊ならば、三体まで封じられます」
「強い相手なら一体だけ?」
「そうです。そこまで強いのは、おそらく一人だけですが……」
他の幽霊を誘った首謀者のことだ。
死亡した際、海に漂う無数の穢れがまとわりつき、生前の強い霊感とあいまって霊障を発したという。
この霊が襲撃する地点と日時は、陰陽師組織が予測した。リクジンなんとかだとか、キモントンコーだとかいう術と、これまでに集めた情報を組み合わせたらしい。俺が集めた情報もその中に含まれている。
会話が途切れた。
充電器を見つめていたナギーが、かたく閉じていた口を開く。
「そろそろ呼んでくるね」
プロムナードに走っていった。
ブレザー制服の後姿を見送る。
ここで高校の制服姿をしているのは、ナギーだけだ。普通の人間には姿が見えないので、目立つことはない。むしろ、目立つのは俺かもしれない。ジーパンと白のセーターはいいとして、赤のダウンジャケットが派手だったかも。
アニーが首に紐付きの身分証明書のようなカードを提げた。
「それは……」
「立ち入り禁止区域に入るためですわ。心霊現象を見て他の方がパニックを起こすといけませんので、外の通路から遅効性の催眠結界を張ります。陰陽師の名家、安倍氏が憔悴なされた鳥羽上皇に献じたとされるものと同じ型です。誰かのインチキ催眠術とはワケが違います」
その誰かは不満顔の赤靴の両肩に後ろから手を掛けて、押すようにゆっくりと歩いてくる。
「まあ、他の客には眠っててもらうのがいいよな。……って俺は?」
俺まで眠らされてしまう。
「客室に入らなければいいですわ。内側と外側から挟む形で、客室だけに効くように張りますから。通路やブリッジ、機関室などには効きません。部屋の中にいる霊はナギーに追い出してもらって下さい」
「ナギーも寝そうだな」
「そんなことはありません。ゴージャスなスーパーデラックス・スペシャルスイートルームでないと、私は寝れないの」
すぐ近くまで戻ってきていた。嘘をつく元気はあるようだ。
「戻りましたわね。霊具以外の荷物と貴重品を預けたら、すぐに始めますわよ」




