漣
――あいつはやっぱり幽霊だ。
月曜日の朝、俺は赤毛の幽霊少女のことを思い出しながら、学校に向かっていた。
足があって、歩いて走ってジャンプして、念仏が効かなくて、人魂も浮かべていないけれど、幽霊だろう。俺が知らなかっただけで、こちらの世界では足が生えてる幽霊は珍しくないのかもしれないし、念仏が効かないのは俺がプロの坊さんではないからだ。本人が幽霊説を否定していたのは、おそらく事故のショックの影響だろう。自分の死を受け入れられないでいるのだ。
いつものように、校門にたどり着いた。
今日は割と静かだった。
この静けさを破って、近くを通る自転車のベルの音が澄んだ空気を伝わった。音が止んだ後の一瞬は、一層静かになった。体育会系の部室のある方向から小さく、掛け声が聞こえた。
幽霊少女が遠くへ行っている今、騒動などは起きていない。異世界といえども平和だ。このまま平穏無事に過ごしていれば、そのうちに異世界の奇妙奇天烈な事象は消え去って、自然に現実世界へ帰っていけるような気がした。
一時間目、自分の左小指を眺めて過ごした。
赤い糸が出ている。俺がいまだ異世界にいることを証明する存在だ。
怪人の噂は消えたらしい。一時間目が終わり、二時間目の前の休憩時間に聞き耳を立てたところ、話題はサッカー、コンサート、期末テスト、テレビドラマ、年末のバイト、といったものだった。
二時間目が始まる。
若い女の教師が、テキストを持って喋り出す。
「皆さん、課題はちゃんとやってきはりました? それでは当てていきます」
糸は教室右端にいる俺の指から出て、教室のど真ん中を突っ切って、西、いや西南西だろうか、そちらへ伸びている。教師も、他の連中も、これに気がついていない。
「まずは伊藤くん」
あと一ヶ月で完全に治って、消える。
「余裕やねえ。次、井上くん」
幽霊と怪物が存在することを示す、その印が。
「大村くん」
現実世界に戻ったら、戻れたら、忘れるんだろうか。これまでの出来事を。
「桂くん」
あいつは、どう思うんだろう。
「木戸くん」
あいつは戻れないんだよな。
「児玉くん」
死んでいるから。
「えーっ。フェイントかよぉーっ」
児玉うるせーぞ。
「はい、早く答えて」
「うう、わからへん」
一ヵ月後……死んだ日、命日か。
「ダメですねー。もっと頑張らなあかんよ。では次のところ、品川くん」
「うわっ! ずれたままや!」
糸が消えるのは……あいつが消えるからか。成仏するんだろうな。坊さんの読経かなんかで。
「きっついわー!」
糸が、ぴん、と張った。焦げる匂いもする。
「ちょっ、まだ、まだ当てんといて」
そういえば、糸電話ってあったな。忘れるつもりなら糸電話から手を出して引きずり込みます、ってことか?
「正解。でも次からはちゃんと範囲全部をやっておくこと」
はいはい、わかってますよ。返事でもしておくか。
「では、高杉くん」
右手に神経を集中させ、念じる。触りたい、触りたい、触りたい……。
「俺は予習バッチリや」
「わー、珍しー」
「雨ふるんちゃう?」
糸を弾いた。
「残念。違います」
「晴天やな」
爆笑の最中、他の誰にも聞こえない単純な音が、寂しく鳴った。小さな横波が糸を伝って、彼方へ走った。
「間違い? まあええ、今日はこれぐらいにしといたるわ」
「吉本か!」
音が気に食わない。
「いやー、おおきにー。高杉君、ええ人やわ~。ついでに先生、ポコポコヘッドが見たいねん。そこのゴミ箱でやってくれへん?」
糸を他の指に巻きつけた。
「カンカンヘッドやないですか」
「目ェ笑ってへん」
「ガチの金属製ですやん」
「頭蓋骨ボコボコヘッドや」
二本同時に弾いた。
――和音が鳴った。
糸には二つの波が生じ、共振して、さっきのものより大きな横波が伝わった。
「きょ、今日はこの辺にしといたる……しといたります……しといて下さい」
「いやーん、先生、怖かったー」
教室の空気と、糸が緩んだ。
その後、糸が張りつめることはなかった。




