航海日誌
「パンパカパーン。それでは祝勝会を始めまーす」
どんよりとした曇天の下、明るいのはリビングの蛍光灯と少女の声だ。
時刻は午後二時。
登校しないのは当然のことで、今日は十月の第二月曜、すなわち祝日だ。
両親は揃って出かけている。体育の日に美術館へ行った。何かが間違っていると思う。
「ショボい祝勝会だな」
苦笑を交えて俺が言った。
リビング中央を占めるテーブルには、グラス二つと飲食物が置いてある。
食べ物は、筒状の紙に入ったソフトキャンディが数本。
飲み物は、コーラのボトルが二本。カロリーオフのものと普通のコーラが一本ずつだ。
二人だけの祝勝会の司会進行役を務めるナギーは、テーブルの向かい側に正座した。他の参加者は多忙を理由に欠席している。
「コーラかけは昨日やったじゃない」
優勝したプロ野球チームのビールかけを真似して、コーラかけをやった。服を汚して深夜に帰宅した俺は、驚くお袋に対してそのように虚偽報告した。サッカーの練習試合で何やってるの、とお袋は呆れていた。
「それとは別の意味だ。これ、在庫処分だよな」
「まあ、ね」
ソフトキャンディは船にあった物の残り。
コーラは実験のために用意した物の余り。ここにある二本のコーラは、主のアニーを出迎えに来た赤靴から、京都駅で手渡されたものだ。式神の少女は『赤靴はもう一本頂きましたあ。残り物ですが、お二人もどうぞぉ』と俺たちに勧めて、主にたしなめられていた。三キログラムに達する荷物を小さい体で運んだはずなのに、平然としていたのが謎だった。
「でもお土産はお土産。気を取り直して、ありがたく乾杯といきましょう!」
俺より先に顔から苦笑を消したナギーが、陽気に言った。
「そうだな」
カロリーオフのものから開封し、注ぐ。無数の気泡がグラス内側に付着した。
「で、お前は何にする」
「飲み物? 私もコーラだよ。同じ勝利の美酒を、一緒に味わうのです」
「お前の骨が溶けるだろ。都市伝説力……だったか、それでできてるんじゃないのか」
「心配御無用。体の別の部分を使って骨を再生しながら飲むから、だいじょーぶ。骨オンリーの骸骨と私は違うのです。コーラにある他の都市伝説を使います」
「そんなもんなのか」
自信に満ち溢れた態度と表情で、ナギーが自分のグラスに液体を入れる。八分目に達したところで注ぐのを止めて、グラスを手に取った。
「それではカンパーイ」
「かんぱーい」
二人でそれぞれコーラを口に含ませた。
「これは……!」
ナギーが目をみはっている。それから一気に飲み干した。
「この濃厚な都市伝説力の味わい……。これは病みつきに……フフフフフ」
気味の悪い薄ら笑いを浮かべている。蕩けるような目つきになり、体もふらふらと揺れている。骨抜きになった。
「フフフ。コーラやめますか? それとも都市伝説やめますか? どっちにしようかな~。フフフフフ」
『ダメ。絶対』というべきなのか。
飲むペースが著しく上がった。グラスに注いでは一気に飲み、一気飲みしては注いでいる。
「おい大丈夫か、そんなことして」
「カロリーオフだから太らないって。その前はダイエットコーラって呼ばれてたんだから、むしろ痩せます。フフ。ますますスリムで美しいプロポーションの出来上がり。フフフフ。瓶詰めだったら完璧なクビレになるんだけどな~、フフフ」
「そうじゃなくて、腹壊すぞ」
頭はすでに壊れているようだが。
「美女は大きいほうはしないのよ。というか、スーパーアイドルだけの特権? フフフ」
「誰がスーパーアイドルだ、クソッタレ」
「まあ、なんて下品なことぶぁを」
「真実を述べたまでだ」
もっとも、こいつが用を足しに行ったところは見たことがない。飲んだり食ったりしているのに。
一本目はすぐに空になった。二本目、普通のコーラを開封する。
俺が通算して三杯目を飲んだところで、ゲップが出た。
「まあ、なんてぐぇふぃんな」
「うるせえ酔っ払い。お前も出すんだ」
「二酸化炭素なんてすり抜けさせれば余裕ですぅ~。フッフッフ。げふっ。あ、失敗した」
「はっはっは。下品さを分かち合うのだ!」
「何うぉ~。ふふふ」
コーラに飽きたので、おつまみのソフトキャンディを二個まとめて口に入れる。
「さあ、もっと飲んで。ぐいっとぉ。お酌してあげますよぉ」
「飲めるくぁ!」
口内刺激的な誘惑をしてきた少女は、酌をしてボトルを置くとカーペットの上に倒れこんだ。コーラ強し。
「さむいよ~。毛布! 毛布カモン。毛布プリーズッ」
何というか、酔って帰って来た親父と変わらない。
別の部屋へ行き、そこに片付けてあった毛布を手にしてリビングに戻った。服と髪をしどけなく乱して寝ている少女に毛布を広げてかけようとしたが、すり抜けた。毛布はカーペットに隙間なく張り付いた。
目を薄く開けてナギーが文句を言う。
「もー。ちゃんと気遣いのできない男はモテないよー?」
「やってるだろ。これ以上どんな気遣いが要るんだ」
「まず隣に座って」
座った。
「よろしい。さあ私を温めなさい」
「温める?」
毛布をまとって、もたれかかってきた。
重くはない。軽いといっていい。
ただ、毛布越しになっていない部分――横顔が冷たい。服の上からでもわかる。俺の頬に触れているナギーの赤い髪の毛は、色に反して肌寒い。匂いは少し甘いから、派手な色のアイスクリームのようだ。発熱も発火もできるのに、体温がないのか。
「どういう体してるんだ……って、あれ? このままずっと?」
「動いたら許しません」
「いやしかし」
「この状況に何か不満でも?」
皮肉と妙な自信と眠気を溶かして混ぜて塗りつけたような、複雑な顔で聞いてくる。口元には不敵な笑み。人間の体でないことが不満だ、と言ったら殴られそうだ。俺が人間をやめさせられるかもしれない。
「その、向きが悪い。テレビが見えない」
「私の顔を見てれば……でも、ずっとだとちょっとアレかなあ……。妥協します」
テーブルの上からリモコンを取り、テレビ画面が見える方向に二人並んで向き直る。するとナギーはすぐに俺の腕に寄りかかり、寝息を立てた。
俺はそれから三時間以上、録画していた番組を観て過ごした。
ナギーの体から、冷たさは感じなくなっていた。
映画が終幕を迎え、夜の帳が下りようとしている。カーテンを閉めなくてはならない。
だが、そんなことよりも遥かに重大な問題がある。
俺はゆっくりと体を移動させてナギーを床に寝かせ、立ち上がった。
「ふぐぉ」
起こしてしまったようだが、それどころじゃない。
急がねば。このままでは、大惨事になってしまう……!
俺は危機を食い止めるべく、疾走した。
――狭隘なる暗室に、機械仕掛けによる橙色の光が灯る。
象牙色の無機質な台座。それには、古代ローマ皇帝と歴代中華王朝の皇帝、そのいずれもが玩味し得なかった、悦楽の妙技が尽くされている。
だが、男の目的は玉座にはない。
求める物は、浄化の奔流。
彼は武器を取り出すと、玉座の中央を撃ち抜いた。《支配者》から叛骨と罵られようとも、これが自分のなすべきことなのだ――。そう信じて。
虚空に反響が木霊する。
行為の結果は、絶え間ない波瀾を惹起して止まない。静謐を保っていた世界が攪拌され、その相貌を変える。
新たな世界の色彩は、黄金。根源たる欲望の象徴にして、その帰結。これは彼の肉体にも巣食っていた宿業、滅すべき存在に他ならない。
男は遥かなる彼方より召喚する。
何を? それは高楼を貫く銀色の回廊を潜り抜けた、膨大なる粒子。
透徹として凛然たるその存在は、現れるや否や、刹那に消えた。
この世界の混沌を引き連れて。
平穏な闇の再来と共に、彼の魂と閉ざされた空間に、安寧の時が訪れた――。
……さて、用も足したことだし、戻るか。
録画しておいた映画の主人公気分に浸れたのは、トイレの中でのわずかな時間。カッコいい世界でカッコよく戦えるのは、映画俳優の特権だ。実際の異世界は、どこか間が抜けている。
他の部屋のカーテンを閉めてから、リビングに戻った。
『この為替相場の変動により、八月の輸出額は……』
テレビ画面には、コンテナ貨物船の荷積みの様子が映っている。どうでもいい。
ナギーは不機嫌そうに押し黙ったまま、退屈な統計ニュースを眺めている。動いて起こしたせいで、寝起きが悪くなったようだ。
アナウンサーが原稿を読み上げる。
『続いて次のニュースです。体育の日である今日は、それにちなんで各地で催し物が行われました』
「みんなで一緒に仲良く、か」
ナギーが呟いた。
「どうかしたのか」
テレビモニタが映しているのは、徒競走を行っている十人ほどの児童。団子のように固まって子供たちが走っている。
そのうちの五人が、横一斉にゴールを通った。
手をつないで。
同時にゴールした子供たちは全員、体操帽も体操服のズボンも赤。遅れてゴールした二人の児童が、彼らをすり抜けて走って行った。
五人による人間の壁は崩れていない。いや、あれは人間じゃない。あれは……。
「都市伝説……映ってる」
「スタッフに『念写』の出来る人がいるのね」
そんな能力もあるのか。
「いいなー」
テレビに向かって羨望の眼差しを送っている。俺が昨日撮った映像に、都市伝説の姿はない。
「撮影なら最初からその人に頼めよ」
「ん? ああ、そっちね。カメラマンの人が念じてるとは限らないよ。住所や撮影場所を突き止めるのも大変」
「ふーん。そういうものか」
目立ちたがりの物の怪が大挙して押し寄せたら、大変だろうな。
スポーツ関連のニュースが報じられた後、気象情報になった。
『……海上、波の様子です。低気圧が北上し、日本海は昨日より比較的に穏やかとなっていますが、瀬戸内海沿岸では波が高く、注意が必要です』
「お風呂入っていい?」
無表情で尋ねてきた。
今まで、ナギーがうちの風呂に入ったことはない。
「ああ、親父たちは帰りが遅いとかいってたし…。ところで、洗う必要あるのか?」
「洗うんじゃなくて、あったまりたいの。すり抜けさせれば水滴は一気に落ちるから、バスタオルは要りません。覗かないでね」
「顔に覗き穴はつくらねーよ」
覗くほどの体でも……あるような、ないような。数時間ほど前に言ってたコーラのおかげなのか、クビレの存在がはっきりわかる。胸の大きさは並の水準に見える。
パネル操作をしてから十数分後、湯張り完了を知らせるメロディが鳴った。
ナギーが浴室に行ったが、すぐに戻ってきた。浴室にあった黒い洗面器を持っている。目に力がなく、顔色も悪い気がする。まさか吐くんじゃないだろうな。
「温度上げていい?」
「どうぞ」
「四十四度にするね」
「上げすぎだ」
なぜか頭に洗面器を乗せて、ナギーが再び浴室に向かう。
歩みは遅い。
二、三歩進んだところで、洗面器の色が黒から赤に変わった。髪の毛の色と同じだ。ゲロじゃないのはいいのだが、謎の行動だ。
「おいおい、それ風呂のタオルじゃないぞ。なんでそんなことしてんだ?」
銭湯では手ぬぐいを頭に乗せて湯船に浸かり、あがったら瓶詰め牛乳を一気飲み。それが伝統となっている。洗面器のことは知らない。
「これは私の……」
声が小さかったので、続きは聞き取れなかった。ナギーはそのままリビングから去った。
それから数十秒後、洗面器が落ちたらしい。
風呂場で乾いた音が鳴っていた。
夜が明けて火曜日、いつもと変わらぬ非日常に戻った。もう異世界の日常というべきなのかもしれない。
学校から帰宅後、工作員として任務の遂行に取り掛かる。
まずビデオカメラからパソコンにデータを取り込み、それを編集して動画サイトにアップロード。それから用意したブログに動画プレイヤーを埋め込んで、アップロードした動画を再生可能にする。
実にめんどくさく、作業はなかなか捗らない。
いつになったら終わるんだ。中間テストがあるというのに。
作業の途中、ブログに『都市伝説』のタグをつけるかどうかで迷った。
が、すぐに後回しにすることに決定した。
指示を仰ごうにも、情報工作の指揮官であるナギーは不在だ。『推薦人ゲットのために、活動範囲を広げます。これからは三日か四日ごとに帰ってくるから。サボってはいけません』と言い残し、出かけていったからだ。
俺に釘は刺さっていない。
さて、試験勉強でもするか。
工作は適当、試験対策はきっちりと。
これが火曜から金曜までの家での過ごし方だ。いやあ、俺は実に真面目だな。
時折、メールが来ているかどうかをノートパソコンで確認する。
金曜日の夜、新着が一通あった。
『私はいつもあなたを見ています。サボると呪いがかかります。おはようからおやすみまであなたの挙動を見つめるナギーより』
フリーのメールアドレスからの脅しなど、俺には効かない。『心配するな』とだけ打って返信し、試験勉強に戻る。
二時間ほどやって休憩していると、メールの着信音が鳴った。
机に置いてあるスマートフォンからだ。
『嘘をつくと、電話から手が出て引きずりこまれます。正直に謝るなら今のうち。いつも暮らしとあなたの部屋の中に。ナギーより』
今度はこっちか。
片手でお菓子を食いながら、もう一方の手で『順調だ』と入力する。主語を省いておけば、嘘にはならない。試験勉強と休憩は順調だ。
さて、送信……とはいかなかった。
スマホから出てきた手に、自分の手首を掴まれた。
「ぐっ! しまった、予約送信か!」
「さ~ぼ~る~な~」
「わかった。ちゃんと勉強する」
机から生えてきた少女の上半身に、答えた。
「違います。他に言うことあるでしょ」
「えーと、ごめんなさい」
「もう一つ」
「何?」
「ただいまと言ったら」
「お帰り」
「よろしい」
全身を現した少女は、すぐにネットの掲示板をチェックし始めた。その間に俺は風呂に入った。
風呂からあがって部屋に戻ると、ナギーが片手で頭を抱えて唸っている。
「う~ん。レスは結構伸びてるんだけど、知らないアニメや漫画の話ばかりで、都市伝説っぽくないのがイマイチ。ハアハア言ってるのもすごくアレだし……。私のはこれとこれと……五つ? 他より少ないなあ……」
「そのうち四つは俺だ」
別々の日に、別人のフリをして書き込んだ。文体は変えた。
「えー! じゃあ成果は一つだけ!? それにハアハアしてたのー?」
「するか! それにハアハアはお前とは別の奴の話だろ!」
「あ、よく読むとそうだね。でも期待ハズレでした……。もっといけそうだったのに」
ナギーが肩を落としている。
「お前のは最初の話から十日ぐらいしか経ってない上に、元が俺一人だから、そんなもんだ。他の奴は別のところでも話題になってるしな」
これは予想通りの展開でもある。木を森に隠す便乗自演作戦なんだから、埋没しやすいのは当たり前だ。ただ、アニメや漫画のことではなく、本当に幽霊がいると書いた奴らが意外と多かったのには驚いた。
「やっぱり、ナマで魅力を伝えないとダメなのね。ブログはどうなるかなあ。不安……。一応、他の掲示板でもちゃんと書き込んでおいてね。私は次の作戦を練ります……」
ナギーは腕組みして思案しつつ、寝室にしている隣の部屋に歩いていった。
ネットに氾濫するネタの洪水は、マイナーな都市伝説の話題などあっさりと押し流してしまう。
情報化社会とは、都市伝説にとっては諸刃の剣なのだろう。
ブログは土曜日にスタートし、その一週間後の今日、成果を確認することになった。日本海へ行ってから約二週間が経っている。ナギーの推薦人探しと俺の掲示板工作は、継続中だ。
記事のタイトルは、『幻の美少女との邂逅』。
当のナギーは動画に全く映っていないのだが、そこそこにアクセスがあった。
人気ページは三つだ。
一つ目は、幽霊列車の二階から撮影した風景。
曇り空の下、灰色の琵琶湖が映っている。列車が速すぎて、線路沿いの建造物や樹木はまともに見ることができない。
『画だけ倍速になってますよ。元に戻してください』
『サンダーバードなら出張行くときに乗ったことあるけど、角度がありえない。どうやって撮ったんだろう』
『屋根じゃね?』
『北陸本線も見たかったのに、トンネルで終わってんな。どうしたのかな』
『落ちたんだろ。トンネル内でミンチ』
『湖西線はミートチョッパーじゃねーよwww』
『続きあるぞ』
まず、鉄道マニアの一部が釣れた。
二つ目は、釣り船から撮った日本海の映像だ。
ひたすら海の画だけが続く。これはつまらないはずなのだが……。
『変な動画だな』
『ちょ……何かいるぞ』
『どこ? 何分?』
『最後、左上をよく見ろ。凄い形相をした女の幽霊が』
『幻の美少女ってこれかよ……』
『美人は美人なんだよな』
『織田信長の妹、お市の方の霊じゃ。越前へゆくトンネルで取り憑かれたのじゃろう……』
撮影アングル、デジタルビデオカメラの操作、動画の編集と、三つミスが重なったようだが、気にしないことにしよう。
最後は、陰陽師様の大活躍。
照る照る坊主として縛られていない場面ということで、被写体となった少女の許可は下りている。彼女、俺が尋ねたとき電話していて碌に確認しなかったけれど、よかったのだろうか。
『お市様がセーラー服着て発狂してる』
『勝家が思ったより弱かったもんじゃから、ヒステリーを起こしているのじゃよ……。よくあることよ』
『柴田勝家どこだよ』
ナギーのことを語る者は、誰もいない。
情報工作成功への道のりは、長く険しい。




