(10)ヨンショウウオ
呼び出された。
武川助教授の研究室に行くと、タレ川がつまらなそうに足を組んで座っていた。
キャスター付きの椅子を揺らすたび『キイッキイッ』と音がする。
美人秘書が『どうぞ』と瀬戸物のコーヒカップを置いてくれた。
良い香りが漂うものの武川はそれに手をつけない。武川が触らないので紫陽もコーヒーを飲めなかった。
来客用の椅子を前に立ちんぼである。
「カブラギサン。何抽選に当ってんの?」
「ハァ……」
「鷲尾名誉教授のトコ行ってよ! 俺の心象が悪くなるじゃん!」
「いえ……。私の卒論中国詩ではないので……」
「いいじゃん~。杜甫~。国破れて三三七拍子だっけ?」
「『山河あり』です。面白くしないでください」
「『城春にしてクサキボーボー?』」
「『草木深し』ですっ」
「そんだけ言えればいーじゃん。はい!カブラギサン『中国詩』ね~」
「『書き下し文』が死ぬほど苦手なんですっ! 勘弁してくださいよ!」
「ウッザ~」
武川はベルトから扇子を引っ張り出すと、明後日の方向見ながらバサバサとあおいだ。
「カブラギサン。俺はこう見えて忙しいの。学長選挙とか、学長選挙とか、学長選挙とか」
「私利私欲じゃないですかぁ!!」
「どのボスに付いてくかで俺の昇進が決まるんだからキミに関わってる暇なんかないんだよ」
「それ学生に言うセリフですか!?」
「まあ。とりあえずあの『カブラギシヨウ』を担当するにあたって、キミのレポート読み直してみました。何これ?」
◇
武川はおもむろにレポートを取り出した。A4用紙を半分に折ってホチキス止めしてあるやつである。本紙を教授、コピーを生徒が保管する決まりになっている。
「『芥川龍之介と夏目漱石は精神的BL関係だった!』」
レポートバァン!
「『太宰治に足りないのは金のある愛人を見つける能力!』」
バァン!
「『井伏鱒二は『山椒魚』の続編に『ヨンショウウオ』を書くべきだった!』何なの? この『ヨンショウウオ』って!?」
乱暴にバァン!
「いや……だから……『山椒魚』って岩屋から出られなくなる魚の話じゃないですか……」
「うん!」
「可哀想だったんで、『サンショウウオ』が『ヨンショウウオ』っていう架空の生き物に変身してですね……」
「うん!」
「川の底から宇宙に飛び出す話を書いて欲しかったな……と……」
「キミすごいね! ところで『井伏鱒二』って太宰治の師匠だって知ってた!?」
「……………………知ってます…………」
紫陽は消え入りそうな声になった。
「天下の井伏鱒二に対してそんな意見言えるのキミくらいだよ! さすがだね。カブラギサン!」
紫陽は捕食者を前にした亀のように首を縮めた。何なのこの時間。拷問部屋に入れられてるの!?
「そういやキミのレポート面白かったから、教授たちにも見て頂いたんだよね!」
ハァァァァァァァ!?
「漢文の童門教授とか爆笑してたよ!」
「ままままままさか……天野教授には……」
「見せたよ!」
「ウソでしょ!?」
「『カブラギ、あいつ頭沸いてんのか?』って言ってた!」
死にたい! 今すぐ大学の壁に激突して死にたい!!
「そういやキミ、入学したとき『とんでもない才能が入ってきた』と話題だったよ。高橋是也とは違う意味で!」
ひいいいいい~~。
「今陰で教授達に『ヨンショウウオ』ってあだ名喰らってんだよね! 知ってた!?」
あだ名を付けられてしまうのは、教師だけではないのである。
◇
「ところがね~。なぜか、キミ。大学2年の11月辺りからレポートがまともになっていくんだよねぇ」
そうか、これが話の本筋か。ようやく紫陽は呼び出された意味を理解した。
「相変わらず突飛は、突飛なんだよ。でもねぇ。論の帰着点がどんどんまともになっていったんだよねぇ……」
「あ……はい……まあ……そうですね……」
紫陽はモジモジした。
「つまりこのくらいからタカハシと付き合ったってわけだァ」
「い……いえ……付き合ってはいなかったんですけど……」
「…………ど?」
「何とか振り向いてもらおうと、無理矢理レポートを手伝わせまして……」
「な~る~ほ~ど~ね~~~?」
武川がアゴに手をやってニヤニヤした。無駄に『芥川龍之介ポーズ』するんじゃないよ。
「キミがねぇ。高橋是也と結婚したって聞いた時は全教員が『そうだったのか!』って膝を打ったよ!」
「ハァ……」
「なるほど。タカハシね! それであのレポート!」
「い……いいいいいえいえレポート自体は私が書いてるんです!」
「知っとるわ。相変わらず着眼点が独創的だからね!」
ああ。褒められてない。これ全く褒められてない。
「はい。それでこれー」
またレポートをバサッとやられた。
ん?
「『栄花物語の研究』? 私のではないですね」
「名前良く見なよ」
あっ……『高橋是也』って書いてある。
紫陽は慌ててレポートを顔に引き寄せた。
「これさあ。ある日の授業で天野先生が配ったんだよ。俺もタカハシも学生の頃ね」
いつもいつも不機嫌な天野啓治が、さらに不機嫌に教室へ入ってきたかと思えば、コピーしたレポートを全員に配り出した。
教壇を拳で叩く。
『全くお前ら! 少しはタカハシを見習え! タカハシ以外全員再提出っ』
教室中一斉に悲鳴。唯一合格をもらったタカハシは身の置き所がなくなり縮こまってしまった。
「嘘でしょ! あの厳しい天野先生に褒められる学生なんかいませんよっ」
「いないねー。その『嘘でしょ』が今渡したレポート。あげるから家で読んできて」
紫陽は武川の研究室を後にすると、カフェテリアでレポートを読み出した。
何これすごい……。
『栄花物語』の設立背景から、当時の政治状況、内容と史実の齟齬について書かれていた。
『栄花物語』は読破は当然。関連本が『参考図書』としてズラッと最後のページに並べられている。
しかもどうやら翻訳されたものではなく、原文で『栄花物語』を読んでるらしい。
紫陽は思い出した。
タカハシに告白して断られ、何とかデートしてもらおうと『百人一首』でクイズを出させたことがある。
その時『栄花物語』藤原定子の
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煙とも雲ともならぬ身なりとも草葉の露をそれとながめよ
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を知っていたことでタカハシに威張り散らしたのであった。
『栄花物語』でここまでレポートを書ける人相手にあんな威張ったなんて!
これ手を加えれば立派に卒論になるじゃん。
あの厳しい天野にレポートを『お手本』として配らせるような人なんじゃん。
それなのに何も知らんと威張り散らした3年前の私!
カフェテリアで紫陽は真っ赤になってしまった。
無知は恥である。
◇
ちなみにこの後の『学生タカハシ』は大変だったらしい。
同級生がレポートを見てもらおうとタカハシの元に詰めかけてしまったのだ。
昼休憩。サンドイッチ片手にタカハシはレポートを読み、2.3の改良点を指摘しては次を読む。これがタカハシ卒業まで続いたそうだ。
タカハシの意見を元にレポートを改良すると天野の厳しい審査を通る。
ますます同級生はタカハシを頼り、長い、実に長い『タカハシ詣で』の列が学生食堂にできたという。
紫陽の脳裏に先程武川に言われた言葉がオーバーラップした。
『カブラギサンさぁ。俺がこの16年教授たちに何て言われたか知ってる?』
『え……いや……知らないです……』
『『何で大学に残ったのがお前なんだ』『高橋昰也じゃないんだ』って言われ続けたんだよ』
武川は皮肉な笑いを浮かべていた。
『カブラギサン。キミ普通の論文なんか出せないからね? タカハシ超えるぐらいの気持ちで頑張って? せいぜい指導させてもらうよ』
握手を求められ紫陽は泣きそうだった。新聞とか無理ですぅ~。




