第一八九話「母としての姉」
──翌朝、わたくしは朝早く目覚めてしまいましたのでベランダに出ました。丁度黎明の時刻で、地平線が明るくなり空の色が濃紺から青を経て浅黄色のグラデーションの彩りです。
西方地域の早朝の風は乾いていて肌寒く上着を羽織っています。
ふと、赤ちゃんの泣き声が聞こえてきました。わたくしのいるベランダは女性の居室同士繋がっている作りになっていますので、泣き声のする部屋をそっと覗くと、ナーラ姉様が赤ちゃんを抱き上げてあやしていました。窓から覗くわたくしに気付いた姉様は手招きをしています。
「すみません、行儀悪いですよね……」
わたくしは手招きに応じてベランダから姉様の部屋に入り、覗き見た事を謝ります。
「いいのよ。それに、この子をレティに紹介したかったし──ルガリウ、レティ叔母さまよ」
「ルガリウというのですね……」
わたくしが覗き込むとルガリウは顔を赤らめて泣き始めました。
「あらあら、そろそろかしら。ちょっと失礼するわね──」
ナーラ姉様はおもむろに片胸をはだけさせました。わたくしが驚いて固まっていると、ルガリウが姉様の胸に吸い付きました。
「この子、お腹が空いてたみたいだから……」
ナーラ姉様がルガリウに母乳を飲ませる姿を初めて見ました。その事で、忘れていた光景……弟のノアケインにお母様が授乳していた姿を見たことがあるのを思い出しました。
「大変そうですね……子供を育てるというのは」
「そうね、特に赤子のうちはまだ泣くことしか出来ないわ。何故泣いているのか……それを探りながらになるわね。私の場合は乳母も女官たちも居てくれるからまだ楽だと思うけれど」
「わたくしには出来そうにありません……」
魔道具と生きている赤ちゃん、どちらの扱いが大変かは比べるまでも無いように思えます。
「その状況になれば何とかなるものよ? 私からすればレティと同じ状況──突然辺境に飛ばされたりしたら、多分生きてはいられなかったと思うし」
姉様は言葉を選ぶ様に言いました。
「運が良かっただけです。たまたま冒険者の仲間たちに出会えただけで……」
「運だけで皇帝陛下に認められて公認魔道具鑑定士に――なんてなれないと思うわ」
姉様は宙を見つめながら優しい声で言います。
「はい、それは……そうですけれど」
必要以上に自分を卑下するのは相手に失礼──師の言葉を思い出し、言葉が詰まりました。
「子を産み育てるのは確かに大変で大切な事だけど、レティにはレティにしか出来ない事があるから……」
「わたくしにしか出来ない事……」
「貴女の知識や経験は血縁だけで得たものでは無いでしょう?」
確かに知識や経験は独学と、仲間たちとの冒険、そして師であったガヒネアさんから教えられたものです。それらを手にしたのは自分の判断で行動した事だという自負はあります。
「私は一八歳でザリウ辺境伯にたまたま見初められて嫁いで、レティの様な知識も経験もないからこうして跡継ぎを産み育てるしか出来ないけれど……あ、誤解しないで、私は幸せよ? ザリウ様の事を愛しているから──」
姉様のさらりと言った「愛している」の言葉に気恥ずかしくなります。
「側室の方々もとても仲良くしてくれているから、本当に幸せなの」
母乳を飲み終えたルガリウを縦に抱いて背中を優しく「ポンポン」と叩くと「コポ」と空気を吐き出しました。乳を飲ませた後はこうして乳と一緒に飲み込んだ空気を吐き出させないと、後で吐き戻し等があるそうです。
ルガリウはそのまま欠伸をして姉様の腕の中で幸せそうな表情で眠り始めました。
「レティは今幸せ?」
その問いに、迷いはありませんでした。
「幸せ……だと思います。とても、充実していますから」
「そう、良かった……」
ナーラ姉様はそう言うと満面の笑みを浮かべました。その顔がお母様に似ていると改めて思いました。




