25 チョコレートテリーヌ
何もかも順調、とはお世辞にも言えなかった。
アントンから届く手紙を開ける気力も最近では湧いて来ず、ただただ机の上に白い封筒の山が出来つつある。誰かの机を思い出して、レミリアはこっそりと笑った。
「そんなに良い味でしたか?気に入ったならもう一切れ切り分けましょう」
嬉しそうな料理長がスラッと包丁を持ち出したのを見て、レミリアは慌てて訂正する。
「あぁ、ごめんなさい、違うの!テリーヌはもちろん美味しいんだけど、笑ってた理由はそうではなくって……!」
「それは残念。チョコレートテリーヌが食べたいとおっしゃったので良いブランデーを混ぜて作ってみたんですが、」
少し不貞腐れた顔で男は残りの茶色い塊を仕舞い込もうとした。カップの中に残る紅茶の量を確認して、レミリアは待ったをかける。
「食べないとは言っていないわ。もうすぐ夕食だというのに、こんなに美味しいものを作られては困っちゃう。もう一切れだけちょうだい」
「もちろんですとも」
すぐに笑顔になった料理長は空になったプレートの上に切り分けたテリーヌを置いた。
ここのところ、すっかり食欲がなくなってしまったレミリアだったが、三時のおやつに「何か甘いのものを」とリクエストした結果、気の利いた料理長がチョコレートのテリーヌを提案してくれたのだ。
調理工程から焼き上がりまで、他愛もないお喋りに花を咲かせながら時間を過ごした。その間も熟練の料理長はせっせと腕を動かしていたわけだから、本当に器用なものだと思う。
薄らと微笑んでカップに口を近付けると、初老の男は優しく目を細めた。
「奥様の笑顔を久しぶりに見て、安心しました」
「え?」
「随分とお忙しそうでしたから。旦那様が去ってから、屋敷はてんやわんやだったでしょう。使用人たちが一人も辞めずに働き続けているのも、すべては奥様のご尽力のおかげです」
「……私は何もしていないわ。皆が屋敷を愛してくれている証拠だと思う」
「そんな場所を作ったのは貴女自身です」
滅多に人を褒めない料理長にこういった言葉をかけられると、さすがのレミリアも照れてしまう。ありがとう、と小さく呟いて気恥ずかしさから紅茶を飲み干した。
シンプソン邸に残ってくれた使用人たちのためにも、来るべき裁判に向けて協力してくれる弁護士を探さなければいけない。
今のところ、街の事務所はほぼほぼ全滅状態で、どうやら誰かが流した「レミリア・シンプソンは公爵家を乗っ取った詐欺師である」という噂が一人歩きしているようだった。
(アントンのしわざかしら………)
噂を信じた弁護士たちがレミリアに協力するはずがない。彼らにとっては負け戦に過ぎないのだろう。
「そういえば、この間レコルテ先生にパン屋で会いました。変わらずお忙しそうで」
「まぁ……そう」
ホークスに頼まなくて良かった。
彼が断ってくれて良かったと、今では思う。
いかに自分が無実を主張しようと、レミリアの声に耳を傾ける人は少ない。役所の書類の真偽性まで疑い出す失礼な弁護士も居た。ホークスを巻き込んでいたら、彼を泥舟に乗せることになっていたかもしれない。
「このテリーヌ、美味しいって言ってたの」
「ほう?」
「昔ね、ホークスの事務所に行くときにお土産で届けたことがあって。普段は甘いものなんてあまり食べない人なんだけど、これは美味しい美味しいってパクパク食べてて……」
「なるほど、左様で。チョコレートテリーヌのレシピは前料理長から引き継いだものなのです。シンプソン邸に伝わる秘蔵のレシピですよ」
「それは是非とも語り継いでいかないとね」
「ええ」
しんみりとした沈黙が流れ、レミリアは落ちていきそうな気持ちを奮い立たせて「また夕食で」と言い残して立ち去った。




