星降る夜をもう一度
高校の屋上から見た星空。いつもより少しだけ近くて、少しだけ綺麗に見えたっけ。あの頃いつも、私の隣にいたのは……。
酔っぱらって目が覚めたら男の部屋で寝ていたなんて。
そんなの漫画かドラマの中だけの出来事かと思ってたのに。
「なん……で?」
見慣れない部屋。見慣れないベッド。そこに寝ていた私。
驚いて飛び起きたら、まだ暗いベランダに立つ、男の背中が見えた。
思わずタオルケットを引っ張り上げる。服はちゃんと着ていたけれど。
「なんでぇ?」
私の声にその男が振り返る。
「……やっと起きたか」
「え、ウソ。なんで由輝がいるの? てか、ここ由輝んち?」
「お前さぁ……」
あきれたように言いながら、部屋に入ってくるのは、やっぱりあの由輝だ。
ベランダ付きの、狭いワンルーム。そういえばずっと前、この部屋に一度だけ来たことがある。
「ほんとに何にも覚えてないの? 俺にされたこととか」
タオルケットの中に隠れてしまいたい気分の私の前に、由輝が立つ。
すごく怒った顔をして。
「……あんた私に……なにしたの?」
「なにされたか覚えてないほど酒飲むお前が悪い」
悔しいけど何も言い返せない。
「お前はいっつもそうなんだから」
ため息を吐くようにそう言って、由輝はまたベランダへ行ってしまった。
由輝は私の元彼だ。高校生の時、同じ部活で仲良くなった。
入っていたのはマイナーな天文部。十人ほどの部員の中には、純粋に星空や宇宙に興味を持って活動している子もいたけれど、ほとんどの子はそうじゃなかった。
私の入部動機だってひどいものだ。親友の美里から、天文部の天体観測を口実に、学校の屋上で花火大会が見れるらしいよって聞いて、それを目的に入ったんだから。
天体オタクの部長から、強引に誘われて入部してきた、隣のクラスだった由輝もそんな感じ。
だけど思っていたより、その活動は楽しかった。
学校公認で屋上への立ち入りが許されていた天文部は、星の観測会と理由をつけては、よく夜の学校へ集まった。
お菓子やらジュースやら持ち寄って、まるで遠足気分で。
なんとか彗星とか、なんとか流星群とか、部長の説明は忘れちゃったけど、その時生まれてはじめて望遠鏡ものぞかせてもらった。
でも私は望遠鏡から見る星空よりも、屋上に敷いたシートに寝ころんで見る夜空が一番好きだった。
180度広がる田舎の空は、いつもと同じはずなのに、いつもより少しだけ近くて、少しだけ綺麗に見えた。
ひんやりと冷える背中に、ちょっと蒸し暑い夏の風。
私の隣にはなぜかいつも由輝がいて。
今にも降ってきそうな、たくさんの星を眺めながら、くだらない話ばかりして笑っていた。
思えばあの頃、私は由輝のことを好きだったのかどうか、よくわからない。
卒業式の日、由輝に「付き合って」って言われて、軽い気持ちで「いいよ」と答えた。
由輝といると、いつも楽しかったから。このまま楽しい毎日が続いて欲しいと思ったから。
卒業後、実家から地元の大学へ通い始めた私と、一人暮らしをしながら東京の大学へ通い始めた由輝は、離れ離れになった。
そしてその時、私ははじめて知ったのだ。由輝に会えなくて「寂しい」っていう気持ちを。
それでもそんな気持ちを由輝に知られるのが恥ずかしくて、なんでもないふりをしてごまかした。
学校の屋上で話していたような、たわいのない話を、スマホの画面でやりとりしながら。
ほんとうはすぐにでも会いたかったし、声を聞きたかったし、泣きたいくらい寂しかったのに。
そんな関係が一年ちょっと続いたある日。
二十歳になった私は、大学の友達に誘われるまま飲み会に行った。
由輝に会えない寂しさを紛らわすように、バカみたいにお酒を飲み、見事に意識が吹っ飛んだ私。そんな私を見かねた親切なイケメン男子が、わざわざ実家まで送ってくれた。
その時家の前で、私の帰りを待っていたのが由輝だった。私を驚かせようと、サプライズで田舎に帰ってきたらしい。
まったく何ていうか………ドラマみたいに、タイミングが悪すぎる。
あんなに会いたいって思ってたのに。やっと会えた由輝は、私とイケメンを見てひとことだけ言った。
「別れよう」
あれからずっと、由輝とは会っていなかった。
「あのぅ……」
ベランダに立つ由輝の背中につぶやく。
「由輝?」
由輝は煙草を吸いながら、私の声を無視するように夜空を見上げていた。
煙草を吸う由輝の姿を見たのなんて、はじめてだ。
「煙草……吸うんだ」
「イライラした時だけな」
私の顔を見ないで言う。
「もしかして……イライラさせたの、私?」
由輝がゆっくりと振り返って私を見た。
由輝の顔を見るのは二年ぶり。
「天文部の同窓会やるよー。梨央も出ておいでよ!」
そう声をかけてきたのは、東京で一人暮らしをしている美里。
「全員無事、内定もらえたしさぁ。でも就職したら忙しくなっちゃうでしょ? その前にみんなで集まろうって話になって。夜はウチに泊まればいいよ」
天文部の元メンバーは東京の大学へ行った子が多くて、だから同窓会は東京で行われることになったらしい。
もしかしたら由輝も来るかな、来たら気まずいな、なんて思ったけど、久しぶりに美里やあの頃の仲間に会いたくて、私はバイト代で新幹線の切符を買い、ひとり地元から出てきた。
「梨央ー! こっちこっち!」
居酒屋の個室から顔を出し、笑顔で手招きする美里の隣に由輝がいた。
由輝は最後に見たあの夜と、全然変わっていなかった。会わないうちに、都会に染まってしまったんじゃないかなんて思っていたけど、そんなことはなかった。
ただすごく不機嫌そうな顔をしていた。
「座れば?」
戸惑っていた私に、由輝がぼそっと言った。
「ああ、うん。じゃあ……お邪魔します……」
こそこそと、ひとつ空いていた由輝の隣に座る。ジョッキのビールを飲み始めた由輝は、それ以外、私に話しかけてくれなかった。
美里や部長とは笑いながら話してるくせに。
私は涙が出ないように、いっぱい食べて、いっぱい飲んで……そのあとのことは覚えていない。
「ほんとに俺にされたこと、覚えてないの?」
もう一度由輝が聞く。私はうなずく。
こんなに酔っ払ったのは、あのイケメンに送ってもらった夜以来だ。
あのあと、もう絶対飲み過ぎるのはやめようって誓ったのに。
由輝の顔を見たらどうしたらいいのかわからなくなって、目の前のお酒についつい逃げてしまった私は、相変わらずバカだ。
「部長にしつこく絡んだあげく、道端で眠りこけそうになったお前を、俺がおんぶしてここまで連れてきたんだぞ?」
「うそっ」
「嘘じゃないって。お前すっげー重くて、死ぬかと思った。女の子を軽々おぶって歩くなんて、あんなのドラマの中だけの話だよな」
何も言えない。覚えてないし。
そんな私に向かって由輝が続ける。
「だいたいお前は、危機管理能力なさすぎ。連れてこられたのが俺んちじゃなかったら、どうするつもりなんだよ。何されても文句言えないじゃねーか」
「……はい」
ごもっともで。
「高二の時も、部室で顧問のおっさんとふたりきりになってたよな? 二組の男に呼び出されて、のこのこ体育館裏までついて行ったこともあったし」
「は? いつの話よ」
由輝は一瞬「しまった」という表情をしたあと、開き直るように声を大きくして言った。
「それにあの男はなんだったんだよ! 酔っぱらってべろべろになって、男に抱かれるように連れてこられてさぁ! 付き合ってたの? あいつと!」
私は黙って由輝を見る。由輝は決まり悪そうに私から顔をそむけると、煙草の火を乱暴にもみ消した。
もしかして由輝は、まだあの日のことを引きずってる?
「……付き合ってなんか、ないよ」
私はベランダに出て、由輝の背中に言った。
「顧問の先生とも、二組の男子とも、飲み会で会った男の子とも、何にもなかったよ」
由輝は黙って遠くを見ている。
「私が付き合ったのは……由輝だけだから」
それなのに由輝から、一方的に「別れよう」なんて言われて。
悲しくて悔しくてやけになって……誰かと付き合ってみようと思ったことはある。
同じ大学に通う男の子とは、話がはずめば楽しかったし、会いたい時にいつでも会える。
だけどそれだけだ。
会えなくて寂しくなった、あんな気持ちになることはなかった。
私もまだ、由輝のことを引きずっている。
「ごめんね。由輝」
消えそうな声でそう言った。ずっと伝えたくて、伝えられなかった言葉。
あの日、由輝のことを追いかけて、ちゃんと言えばよかったのだ。寂しい気持ちも、嬉しい気持ちも。
「……心配、なんだよ」
そんな私の耳に、やっぱり消えそうな由輝の声が聞こえる。
「お前いっつも危なっかしくて……俺がそばにいてやりたかったのに、いてやれなくて。そしたらあんな男と歩いてるし」
「由輝……」
ベランダで振り返った由輝の向こうに、高いビルの灯りが見える。東京の夜はこんな時間でもまだ明るい。
「俺がそばにいれば、俺が送ってあげられたのに。あんな男、近寄らせなかったのに。そう思ったらできない自分に腹が立って、ついあんなこと言っちゃって……すごく後悔してる……ごめん」
部屋から漏れる白い灯りが、少しだけ大人になった由輝の顔を照らす。
泣きそうになって、でもそんな顔見せたくなくて、私は握った手で由輝の胸を叩いた。
「『ごめん』じゃないよ! 勝手にあんなこと言われて……私はどうすればいいのよ!」
「だからごめんって」
「ヤダ! 絶対許さない!」
私に叩かれながら、由輝は困ったように笑った。
そんな顔を見たら、こらえていた涙があふれて、それを隠すように由輝の胸に顔をうずめた。
「梨央……」
どんなに謝ったって、顔上げるもんか。
「梨央。顔、上げてよ」
由輝が無理やり私の身体を引き剥がす。
バカ。泣いてる顔なんか、見られたくないのに。
夜風がやさしくベランダに吹いた。
私は学校の屋上を思い出す。
シートの上に寝転んで、空を見上げた。
いつもより少しだけ近くて、少しだけ綺麗に見えた空。そして私の隣にいた由輝。
誰にも気づかれないよう、どちらともなく、そっと手をつなぎ合ったっけ。
静かに目を開けると、私から唇を離す由輝の顔が見えた。
「酒くせぇ」
「あんたは煙草臭い」
顔を見合わせて笑って、もう一度キスをする。
この狭いベランダからでは、あの頃と同じ星は見えないけれど。
もう一度ふたりで空を見上げれば、あの頃と同じ気持ちに戻れるかもしれない。
「思いきって同窓会来てよかった。美里たちに感謝しなくちゃ」
ベランダの手すりにもたれながら、隣にいる由輝に言う。
由輝は遠くを見たまま、少し笑って答える。
「言っとくけど、あの同窓会企画したの、俺だから」
「え?」
「ちょっと美里と部長に協力してもらってさ。だけど梨央に会ったら緊張して何も話せなくなって。美里に怒られた」
嘘でしょう?
「もしかして由輝……ずっと私に、会いたかったの?」
「ず、ずっとじゃねーし。俺だって付き合おうと思った女の子いるし!」
「へー、へー、いるんだ」
由輝の顔をのぞきこむ。ちらりと私を見たあと、由輝はさりげなく視線をそらす。
「でもどうしてかなぁ……なんか無理だった」
「……私と同じだね」
手すりにもたれて、ふたり一緒に空を見上げた。
こんなふうに空を見たのは何年ぶりだろう。
素直になれなかった私たち。
もう一度ここからやり直せるなら……。
そっと触れた由輝の手が、私の手を握りしめる。
あの頃より少し強く、そして少し優しく。
私はその手を握り返した。




