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三月の風、一輪の花

私は明日結婚する――そんな夜、彼氏を見送った私の足は、自然とお隣さんへ向かっていた。

《二年ほど前に短編として投稿していた作品を改稿しました》

かえでさん、お疲れさまでしたぁ」

「結婚式、楽しみにしてるねぇ」

 春色の花束を抱え、同僚たちの冷やかし混じりの声に見送られ、私はオフィスを後にする。

 短大を卒業してから、八年間務めたこの職場とも、今日でお別れだ。

 だけど私には、寂しい気持ちも、嬉しい気持ちも、何の感情も湧いてこなかった。


 いつものようにビルを出る。

 そんな私の姿を待ち構えていたかのように、軽くクラクションが響く。

 道路の反対側の駐車場に、涼介の乗った車が見えた。


「すっごい花束だな」

 両手いっぱいの花束を見て、苦笑いする涼介。私は助手席に乗り込み、ドアを閉める。

「隣の部署の子や、お得意さんまで駆け付けてきちゃって……早く出て行けってことかもね?」

「また楓は、そういうひねくれたことを言う」

 涼介が笑って、エンジンをかける。慣れた手つきでハンドルを切り、私たちを乗せた車は駐車場を出る。


「ほんとによかったの?」

「なにが?」

 前を見たまま、涼介がつぶやく。

「専業主婦になること」

 私はぼんやり窓の外を眺めていた。

 夜景なんて言えないほどの、少しのビル明かりと車のヘッドライト。

 もうこの時間に、この道を走ることもないだろう――そんなことを思っても、やっぱり何の感情も浮かんでこない。

「今さら何言ってんの? 私が決めたことなんだから、それでいいの」

 涼介が人の良さそうな笑顔を見せる。

「明日、迎えに行くよ」

 目の前の赤信号を見つめながら涼介が言った。

「一緒に市役所、行こうな」

 返事をしてもしなくても、涼介は迎えにくるだろう。

 そして私たちは役所に行って、一枚の用紙を提出する。


 「婚姻届」――私は明日この人と、結婚するのだ。


「じゃあ」

 軽く言ってドアを開ける。涼介はハンドルに手をかけたまま、私のことを見ている。

「……寄ってく?」

 社交辞令のように聞いてみた。

 カーテン越しに、暖かい色の灯りが我が家からもれている。まるで幸せな笑い声でも聞こえてきそうな。

「いや、いい。また明日来るよ」

 涼介が言う。どちらともなく見つめ合って、軽くキスする。

「じゃあ、おやすみ」

「また明日な」

 花束を抱えながら、涼介の車を見送った。

 いつものように、その車が右折するのを確認して、門の扉に手をかける。

 その時ふと、私は隣の家に視線を移した。

 我が家と同じ造りの、建売住宅。越してきたばかりの頃は、自分の家と見間違えてしまったほど、そっくりな家。

 だけどその家の灯りは、ぼんやりと薄暗くて……。私の足は、自然とお隣さんへ向かっていた。


 庭の小さな花壇に、部屋の灯りがうっすらと映っている。

 薄闇の中で、ひっそりと咲く名前も知らない花。

 それを横目に、インターフォンを押そうとしてから、手を止める。ドアノブに手をかけると、思った通り鍵は開いていた。

「こんばんは」

 返事がないことを知りつつ、一応言って玄関に入る。

 だらしなく脱ぎ捨てられている、見慣れた二十七センチのハイカットのスニーカー。

 私はさりげなくその靴をそろえてから、家に上がりこむ。

 我が家と同じで我が家と違う、床の感触。「人の家」の匂い。

 ほのかに薄明りがついているのはリビングだ。私は真っすぐその部屋へ向かった。


 家具の配置が違うだけの、我が家と同じリビングで、彼はソファーに寝ころんでテレビを見ていた。

陽希はるき

 背中に向かって名前を呼ぶ。

「ご飯、食べたの?」

 私の声と、バラエティー番組のわざとらしい笑い声が重なる。

「……食った」

 背中を向けたまま陽希が答えた。

 私は足元に散らかっている雑誌や、脱ぎっぱなしの服を拾い上げながら、テーブルの上のカップラーメンの空容器を見る。

「また、そんなもの食べて」

「じゃあ、作ってよ」

「今日は無理」

 カップラーメンの残骸を隅によけて、テーブルの上に花束をのせた。陽希の視線がちらりと動く。

「なんだよ、それ」

「結婚祝い。いや、退職祝いかな? 今日で会社辞めたから」

「ふうん」

 どうでもいいように言って、陽希はまたテレビを見る。私はそんな陽希のそばに座りこみ、ぼんやりと同じ画面を眺めた。

 薄暗い部屋に、テレビの灯りだけが眩しく光る。明るい笑い声も派手な音楽も、どれもただの作り物に思えて、私の耳を素通りするだけだ。

「今日、おじさんは?」

「夜勤」

 答えながら急に起き上がって、陽希はリモコンでテレビを消す。しんと静まり返った部屋の中で、私は陽希の横顔を見た。


 十歳年下の、お隣に住む男の子。

 私がこの新興住宅地に引っ越してきて、そのすぐあとに陽希が越してきた。そのとき陽希はまだ、幼稚園生だった。

「カエちゃん、カエちゃん」――舌足らずな声でそう呼びながら、陽希は私のあとをついてきた。それがすごく可愛くて、遊びに来た私の友達に自慢したりしていた。

「可愛いでしょう? 陽希っていうの。私の弟みたいなもん」

 陽希が中学生になった時、陽希のお母さんが亡くなった。ガンだった。

 それからは時々、うちの母親が作ったおかずを、私が陽希の家に持って行ってあげたりした。

 日曜日には私が、一人ぼっちで留守番している陽希のために、料理を作ってあげたりもした。

「おいしい? それ」

「ん、うまい」

 背が伸びて、声変わりして、あんまりしゃべらなくなった陽希だけど、私の作る料理は「おいしい」って言ってくれた。

 それがすごく嬉しくて……私は陽希のために、隣の家に通った。


「んっ……」

 気がつくと、私の唇がふさがれていた。少し湿っていて、すごく柔らかい陽希の唇。

「や、だめ」

 私に覆いかぶさりそうな陽希の体を、ソファーの上に押し戻す。

「私、結婚するの」

「知ってる」

「明日、婚姻届出すんだから」

 陽希の指先が私の髪を梳く。そのままその指が耳たぶから頬に流れ、温かい唇が私の首筋に触れる。


 陽希と初めてキスをしたのはいつだっただろう。

 最初に誘ったのは、どちらからだっただろう。

 私には涼介がいて、陽希にも、同級生の彼女らしき女の子がいたことを知っている。

 それなのに……私たちはお互いを求めて、会うたびに唇を重ね合った。


「俺は今日、卒業したよ」

 耳元で聞こえる陽希の声。

「待っててくれなかったんだね」

 私の体が床に沈む。少し柔らかい感触は、リビングに敷かれた黄緑色のカーペット。

「待っててなんて……言わなかったじゃない……」

 そうつぶやきながら、テーブルの下に転がっている白い筒を見た。

 陽希の高校の卒業証書だ。

「言ったら……待っててくれたの?」

 テーブルの上から花束が落ちた。春色の花が、ぐしゃりと陽希の右手で押しつぶされる。

 ――言ったら……待っててくれたの?

 その答えは、たぶんノーだ。

 陽希のキスを受け止めながら、こんなことを考えている私は、ひどい女。

 だけど私には、陽希との十歳の歳の差を、埋める自信がなかったのだ。


「だめ」

 そう言って、陽希の体を押しのけ起き上がる。

 陽希はじっと私の顔を見つめていたけど、それ以上のことを無理やりしようとはしなかった。

「もう……帰る」

 押しつぶされた花束の向こうに、陽希のお母さんの、穏やかな笑顔の写真が見えた。

 そしてその前にあるグラスには、紫色の小さな花が飾られていた。


 *


「楓は知ってたの? ハルちゃん、今日お引越しですって」

 朝の日差しが差し込むリビングで、新聞を広げた私に母が言う。

「ハルちゃんも東京の大学生かぁ……あんなにちっちゃくて、可愛かった子がねぇ」

 感慨深げな母の声を聞きながら、私は黙って新聞をめくる。

 毎日進展のない政治家の話。身近には感じられない他人事のようなニュース。

 ぼんやり活字を追うだけの私の視界に、母が何かを差し出した。

「ねぇ、これ、ハルちゃんちに持って行って。お餞別」

 見慣れたタッパーの中に、母の手作り料理が入っている。

「ハルちゃん、これ好きだから」

「お母さん、自分で持って行きなよ」

「お母さんより、あんたが持って行ったほうが、ハルちゃんも喜ぶでしょう?」

 母がくすくすと笑いながら、リビングを出て行く。

 私と陽希が、姉弟のように仲が良いことを、私の家族も陽希の家族も認めている。

 まさか会うたびにキスを交わしていたなんて、思ってもみないだろうけど。

 カーテンを開いて庭の向こうを見た。

 同じ造りの家の前で、車に荷物を詰め込んでいる、陽希と陽希のお父さんの姿が見えた。


「やあ、楓ちゃん。久しぶりだね」

 車の前で、少し白髪の増えた隣のおじさんが、私に笑いかける。

「もうすぐ結婚式だねぇ、おめでとう」

「ありがとうございます」

 幸せそうな笑顔を、おじさんの前で作ってみせる。

「あの、陽希は?」

「ああ、ちょっと待って」

 おじさんが家の中に戻って、「ハルー」って声をかけている。私はまだ少しぬくもりの残っているタッパーを、胸にぎゅっと抱きしめる。

 家の中から段ボール箱を抱えた陽希が出てきた。

 いつものグレーのパーカーを羽織って、少し寝癖のついた頭のまま、ぶすっとした顔つきで、車の中に荷物を押し込む。

「これ。お母さんから」

 そんな陽希の背中に向かって、私が言った。

「お餞別。だって」

 陽希が私の前で振り返る。

 手をつないで、頭をなでて、抱っこしてあげたあの陽希が、今では見上げるほど大きくなってしまった。

「……どうも」

 ぼそっとそれだけつぶやいて、陽希がタッパーを受け取った。陽希の指先が、私の指先に少しだけ触れる。

「卒業おめでとう……元気でね」

 そう言って、さっきと同じように笑顔を見せる私は、陽希の前で大人ぶりたいだけだ。

 陽希は何も言わなかった。「じゃあね」と私は背中を向ける。


 春から、大学生になる陽希。東京で、一人暮らしする陽希。

 きっとたくさんの人と知り合って、新しいこともいっぱい経験するんだろう。

 そして素敵な恋人ができて……もう私だけの、可愛いお隣さんではなくなるのだ。


 家の門を開けて庭に入る。ドアノブに手をかけて、それを開こうとした時、私の背中に声がかかった。

「……ちゃん」

 一瞬、聞き間違えかと思って耳を疑う。

 そんなふうに名前を呼ぶことなんて、もう何年もなかったのに。

 会えばいつも不機嫌そうな顔をして、そのくせとろけるようなキスをして、それでも私の名前なんか、呼ぼうともしなかったのに。

「カエちゃん」

 振り返ったら陽希が立っていた。いつもみたいにふてくされた顔つきで、私のことを見ている。

「言っとくけど、俺、彼女いるから」

 私はぼんやりとその声を聞いていた。

「あんたが結婚しても、別に何も困らないから」

 そしていつの間にか持っていた一輪の花を、私の胸に押し付けた。

「結婚、おめでとう」

 陽希の家の庭に咲いている、小さな花。

 お隣のおばさんが好きだった、紫色の花。

 陽希が毎朝必ず、おばさんのために摘んでいた……。


 陽希の背中が遠ざかって行く。

 私は小さな花を握り締めたまま、その手で顔を覆った。

 どうして? どうして、涙が出るの?

 わからない。わからない。わからない――。

 私が陽希のことを好きだったなんて……そんなこと絶対、思いたくない。



「市役所行ったあとさ、俺んち来る?」

 助手席に座って、私は涼介の声を聞いていた。

「実は、もう来るって言っちゃったんだよね。うちの親が、楓さん連れて来いってうるさくて」

 ハンドルを切りながら、涼介がふっと笑う。

「結婚したら、毎日顔合わせるのにな」

 車が国道を左折する。市役所は、もうすぐそこだ。

「どうしたの? その花」

「ああ、これ?」

 涼介が私の持っている小さな花をちらりと見る。

「もらったの。結婚祝い」

「ふうん」

 私は助手席の窓を開けた。少し強い風が、車の中に吹き込んでくる。

 その風にあおられながら、私は左手を窓の外へ出し、手のひらをぱっと開いた。

 まだ春の来ない、肌寒い街へ飛んでいく、紫色の花。

 それはもう二度と、私の手に戻ることはない。


「いいよ。届け出したら、涼介んち行こう」

 ほっとしたようにうなずいた涼介が、ウインカーを出す。市役所の駐車場へ、私たちの乗った車が滑り込む。

「その前に『あずきや』寄ってよ。お義母さんの好きな大福、買っていってあげたい」

「楓が食いたいだけじゃないのか?」

 助手席から降りた私に、涼介が笑いかける。私もそんな彼に、笑顔を返す。

 寂しいとも、嬉しいとも感じないのは、まだ実感がないだけ。

 それ以外には、何もない。

 そう……何も。


 どちらともなく手を握り、私たちは歩き出す。

 ざわめく街の中に吹く風が、かすかに春の匂いを運んできた。

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